池田先生と文豪・井上靖氏2024年7月14日

  • 「この人」と決めれば、その人が人生の師匠

 「広大な天空と、人間の営みの深い意味を、瞬時に、自己の胸中に包みこんでおられる」――文学界の巨匠・井上靖氏は、池田大作先生のことをこう評した。55年前に初めて対談して以降、両者は何度も語らいを重ね、友好を育んだ。ここでは、二人の交流の足跡をたどる。

批判の嵐の中で

 「全てのことは出会いから始まる」――作家・井上靖氏は、この言葉をよく口にした。
 1936年(昭和11年)、井上氏は、週刊誌「サンデー毎日」の懸賞小説で入選。それが縁となって毎日新聞社に入社する。しばらくして、学芸部に所属し、宗教や美術欄を担当した。
 50年(同25年)、「闘牛」で第22回芥川賞を受賞。翌年、毎日新聞社を退社し、創作活動に専念するように。「風林火山」「氷壁」「蒼き狼」など、次々と名作を世に送り出した。
 池田先生は井上文学に親しんだ。井上氏も、60年(同35年)に第3代会長に就任した先生の著作などに注目した。
 68年(同43年)12月、井上靖・臼井吉見編の「10冊の本」シリーズの第5巻『生死をこえるもの』が出版された。その中で、先生の言葉が名言集として収められた。担当したのが、井上氏だった。翌69年(同44年)2月5日、先生と氏は初めて対談した。
 この年の秋ごろから、学会に対する批判の嵐が起こり始める。「言論・出版問題」である。事の発端は、学会批判書を書いた著者に、学会が事実に基づく執筆を要望したことだった。批判書の著者は、それを言論弾圧として騒ぎ立てた。
 「言論・出版問題」が起こると、数人の作家が月刊誌「潮」など、学会関連の雑誌の執筆や取材の拒否を発表した。
 当時、井上氏が理事長を務めていた日本文芸家協会でも、一部の作家から学会に抗議声明を、との声が上がった。氏は「潮」の編集長を自宅に招き、開口一番、こう語った。
 「私は、池田先生とお会いして、あれほど深く文学を理解し、また、ご自身でも筆を執られる先生が、『言論の自由』とか、民主主義の基本となることに対して、間違った捉え方をされるはずがないと信じています。先生のことが、人間的な理解が伴わない形で、誤解されたまま、マスコミに喧伝されているのではないでしょうか」
 さらに、言葉を継いだ。
 「火がつけば、付和雷同しやすい。それがマスコミの欠点です。私も新聞記者をしていましたから、ジャーナリストの経験上、よく分かっています」
 「協会として特定の人々を排斥するような、そんな声明を出すなど、少なくとも私が理事長をしている限り、するつもりはないし、させません」
 そして、編集長をこう勇気づけた。
 「仕事でも人生でも、いろいろあるものです。私もそういう時代をくぐり抜け、いろんなことで板ばさみにもなってきました。今は、降りかかった火の粉みたいに、“なんでこんなことを”と思うかもしれないけれども、すべて、人生のかけがえのない体験だったと、後々になって思い起こされてきますよ」

池田先生が井上靖氏と語らう(1975年3月4日、旧・聖教新聞社で)。井上氏は「ここ何年間か、会長は外国の一級の方々とお会いされ、思想家として、一段と大きくなられた感じがいたします」と

池田先生が井上靖氏と語らう(1975年3月4日、旧・聖教新聞社で)。井上氏は「ここ何年間か、会長は外国の一級の方々とお会いされ、思想家として、一段と大きくなられた感じがいたします」と

24通の往復書簡

 1975年(昭和50年)3月4日、池田先生と井上氏は旧・聖教新聞社で3時間半にわたって語らった。
 この時、氏は67歳。数多くの名著を発表してきた。だが、氏は、さらなる高みを目指す真情を口にした。
 「晩年の、人間としても完成に近づいていく年代に、最高に優れた作品を仕上げたい。それが勝負です。また、これが一番、幸せなことと思っています。そこに向かって、日々挑戦し、着実に積み上げています」
 先生は応えた。
 「地道に、着実に精進を重ね、自分を乗り越え、一心不乱に挑戦していく――王道の規範であると思います。井上先生は王道です。断じて、その王道を行くべきです」
 この対談で、往復書簡で語らいを進めることが決まる。その連載が月刊誌「潮」の75年7月号から始まった。先生は中国やハワイ訪問、創価大学・創価学園の行事への出席など、めまぐるしく動く中で筆を執った。3通目の書簡では、恩師への思いをつづった。
 「(戸田先生が)逝去されて以来、私の心の中には、いつも戸田城聖という人格がありました。それは生きつづけ、時に黙して見守りながら、時に無言の声を発するのです」
 氏は「師に対する尊敬と、傾倒と、愛情が、行間から立ち上っているのを感じます。そして一人の人との出会いが、今日の池田さんを決めておられる事実と、その経緯を、感動深く読ませて頂きました」と応じた。
 76年(同51年)1月14日につづった書簡で、先生は「大阪」への思いを記した。
 「大阪には旧知の友人たちが多く、私にとっては懐かしい想い出に充ちています。まだ二十代の青年の頃、私はたびたび大阪を訪れました」「大阪は、私が青春の汗を流した地であります。(中略)昭和三十一年の頃は、大阪に住んでいるような感じで、日々を送った思いが鮮やかに思い出されるのです」
 井上氏は新聞記者時代、大阪で生活していた。書簡で当時のことをつづった。
 「私も亦、三十代から四十代にかけての十二、三年を、大阪で新聞記者として過しました」「戦後東京に移り、四十代半ばから小説を書き出しました。従って、作家としては、私も自分の基礎となるものはみな大阪時代に作っております」
 書簡は二人ともに12通ずつ、計24通におよび、『四季の雁書』とのタイトルで刊行された。

1976年3月13日、池田先生が創価女子学園(当時)の第1回卒業式の日に懇談。先生は井上氏への書簡に、「自分の娘たちを送り出すような気持の一日でした」と

1976年3月13日、池田先生が創価女子学園(当時)の第1回卒業式の日に懇談。先生は井上氏への書簡に、「自分の娘たちを送り出すような気持の一日でした」と

「大阪の戦い」の折、関西本部で「勇戦」と大書する池田先生(1956年5月)

「大阪の戦い」の折、関西本部で「勇戦」と大書する池田先生(1956年5月)

病室で筆を執る

 『四季の雁書』の連載が終了した1976年(昭和51年)の秋、井上氏は文化勲章を受章。池田先生は氏に松の盆栽を贈り、祝福した。氏は自宅の庭に植え、松を見ながら執筆に励んだという。
 10年後の86年(同61年)、氏は5時間にわたる食道がんの手術を受けた。2カ月で退院し、翌87年(同62年)春から創作活動を再開。最初に取り組んだのが、「孔子」の連載だった。
 2年間の連載中に、肺にがんが見つかり、入院せざるを得なくなった。氏は病室に机を持ち込み、執筆を続けた。
 そこまで執念を燃やして、氏は何を描こうとしたのか? 孔子と弟子たちの“師弟のドラマ”である。
 長年、井上氏の担当記者を務めた昭和女子大学の松本昭名誉教授は、「孔子」の内容に、戸田先生と池田先生の師弟愛が大きな影響を与えたのではないかと論じた。当初、氏から聞いていた構想と、実際の作品は全く違っていたからだ。
 物語の最終章の冒頭、弟子の一人が亡き師への思いを語る場面が描かれた。
 「子(孔子)とは、毎夜のようにお会いしている」
 「人間について、人間が生きる現世というものについて、あれこれ思いを廻らしていると、私の考えを訂正したり、励まして下さったりする子のお声が、時折、遠くから、或いは近くから聞えて参ります」
 氏の遺作となった『孔子』は多くの人に感動を与えた。
 ◆◇◆ 
 ある時、氏は学会の青年部員に問いかけた。
 「君の師匠は、池田先生だろ?」
 青年は答えた。
 「はい。池田先生が、どう思われるかわかりませんが、私は、そう決めてます」
 氏は「そうなんだ!」と言葉を強めて訴えた。
 「人生の師匠というのは、お稽古ごとの師匠とは違う。学校で習ってるから師匠――そんな平板なものでもない。自分が『この人だ』と決めれば、その人が、自分の人生の師匠なんだよ」
 師匠が弟子を決めるのではなく、弟子が師匠を決める――師弟とは、弟子の自発的な意志で成り立つ魂の結合である。
 氏は「私の自己形成史」と題する一文に記した。
 「私は人間と人間との関係の中で、一番好きなのは師弟の関係である」

池田先生が『四季の雁書』のあとがきを記した直筆原稿

池田先生が『四季の雁書』のあとがきを記した直筆原稿

井上靖氏が『四季の雁書』のあとがきをつづった直筆原稿

井上靖氏が『四季の雁書』のあとがきをつづった直筆原稿

【引用・参考文献】 池田大作・井上靖著『四季の雁書』(潮出版社、『池田大作全集』17巻所収)、池田大作著『新・人間革命』22巻、『井上靖全集』22・23巻(新潮社)、松本昭著『人間復活 吉川英治、井上靖、池田大作を結ぶこころの軌跡』(アールズ出版)、浦城いくよ著『父 井上靖と私』(ユーフォーブックス)