〈人間主義の系譜 仏法の源流を見つめて〉 釈尊②2024年7月7日

 悠久なる大河も、源流の一滴から始まる――釈尊から法華経、日蓮大聖人、そして創価学会へと至る仏法の人間主義の系譜。世界に広がる民衆仏法の源流をたどりたい。ここでは、小説『新・人間革命』第3巻「仏陀」の章を中心に学びながら、釈尊の軌跡を追います。(月1回掲載。前回は6月11日付)

文化の中心地へ

台頭する自由思想家たち

 「生老病死」という人間の根源的な苦悩の解決を求め、求道の旅に出た若き釈尊。自ら選んだ道とはいえ、父王や愛する妻子との離別は、彼の胸を苦しめたに違いない。しかし、青年の胸中には、それ以上に燃え盛るものがあった。
 従者を伴い、未明の大地を愛馬に乗って進む釈尊は、王都・カピラヴァットゥ(迦毘羅城)から南へ下っていく。やがて、アノーマー(阿奴摩)川を渡ったところで、王子としての装身具と愛馬を従者に渡して、“目的を果たすまで、城には戻らない”と、父と妻に伝えるよう託し、自ら、刀で髪を切った。
 一人、托鉢をしながら釈尊が目指したのは、当時、強大国として栄え、新しい文化の中心地でもあったマガダ(摩訶陀)国である。
 その首都・ラージャガハ(王舎城)までは、カピラヴァットゥから約600キロもの道のり。出家してから7日目にして、たどり着いたとする仏伝もある。
 当時、古代インド社会の変動期だった。
 釈尊の時代からさかのぼること1000年近く昔、自らを「アーリア」と称する人々が西北インドに定着し始めたといわれる。その文化は、やがてガンジス川流域にまで広がり、農耕社会が形成され、身分階級(四姓制度)もできる。そこで特権的な地位を得たのが、ヴェーダ聖典に基づいて祭祀儀礼をつかさどるバラモン階級だった。
 ところが、釈尊の時代に近くなると、領土拡大の戦いを通して軍事・政治を担う王族・武士(クシャトリヤ)の権威が高まり、交易によって富を築く商工業者(バイシャ)も力を増していく。
 バラモンの権威が次第に揺らぎ始め、代わって台頭してきたのが、都市に集まる新しい自由思想家たちである。バラモンと区別された彼らは沙門(サマナ)と呼ばれ、人間の運命が神や祭祀によって決定づけられるとする、伝統的なバラモンの思想を認めなかった。とりわけ、先鋭的な主張をしていた代表的な6人の指導者(「六師外道」)がいたことが、初期仏典に記録されている。
 “誰を師とするべきか”――。新たな思想・文化が鼓動する都市で、托鉢を続けながら正しき道を求める釈尊だったが、「六師外道」らが説くような、道徳否定的な要素が強い極端な思想には、なじめなかった。
 そうした中、城下を歩く釈尊の姿を目に留めたのが、マガダ国王のビンビサーラ(頻婆娑羅)である。
 「気品をたたえ、所作の立派なあの青年は、ただ者ではない」
 王は早速、釈尊がいるというパンダヴァ山(白善山)を訪ねた。「あなたは高貴な王族の方と見受けました。ぜひ、わが国の軍隊を率いてほしいと思っています。どのような生まれの方なのでしょうか」
 大国の王を魅了するほど、ひときわ輝くものがあったのかもしれない。座した釈尊は柔和な笑みを浮かべて応じる。

(小説『新・人間革命』の挿絵から。内田健一郎画)

(小説『新・人間革命』の挿絵から。内田健一郎画)

禅定と苦行の果てに

自身との厳しい対決に挑む

 「私は太陽の末裔の種族である釈迦族の出身です。すでに世俗の栄誉を捨てて求道に努めており、その他に望むものはありません」
 ならば、と王は言葉を継ぐ。「あなたが成道した暁には、この地を訪れ、私や、わが民のために教えを説いてください」
 求道の遍歴を続ける釈尊は、やがて禅定(瞑想する修行)の大家といわれるバラモンの仙人に師事したと仏伝は記す。
 最初に訪ねた仙人は、「無所有処」という、自身の執着に縛られない境地を目指すことを教え、2人目の仙人は「非想非非想処」(想うに非ず、想わざるに非ざる境地)という、いわば無念無想の境地を目指すことを教えるものだった。
 修行に励んだ釈尊は、すぐにそれらの境地を得たが、生死という根本的問題の解決に対して、そうした禅定家の教えの無力さを痛感したようだ。
 “私が求める覚りは、こんなものではない”。真実の覚りを求め、静寂の地を探して旅する釈尊が次に訪れたのは、ラージャガハの西方を流れているネーランジャラー川(尼連禅河)に沿った、ウルベーラーという地だった。現在のブッダガヤからほど近い場所である。
 日光を浴びた川岸の砂が美しく輝く。村落には、緑が茂る林があり、苦行に励む修行者も多くいた。
 当時、インドでは、人間の精神は不浄な肉体に束縛されていると考えられており、その肉体の力を弱めて精神的自由を得るために苦行が実践されていた。釈尊もまた、この林の中で苦行に入る。
 透徹した悟達を得るために開始した、峻厳な自己との対決。釈尊のそれは、他の修行者とは比べものにならないほど激烈さを極めた。過酷な断食を続けたり、墓地で死体の骨を寝床としたり、汚物を食べることもあった。
 パキスタンのラホール博物館には、ガンダーラ美術の粋として知られる苦行中の釈尊像が所蔵されている。痩せ衰えて骨と皮だけになり、胸にあばら骨と血管が浮き出た姿が苦行の激しさを物語る。“釈尊は死んだのではないか”と案じる修行者もいたほどだった。
 極限までの苦行を数年間、続けた釈尊だったが、ついに悟達することはなかった。この時の釈尊の心情を、『新・人間革命』第3巻「仏陀」の章は、こう描く。
 「“官能のおもむくままに欲望の快楽にふける。もとより、それは、卑しく、愚かで、無益なことだ。
しかし、激しい苦行をし、自分を苦しめることに夢中になっても、本当の悟りを得ることはなかった。それも、ただ苦しむばかりで、下等で無益なことだった……”」
 釈尊は苦行を捨てて林を出た。極端な苦行主義もまた、真実の道ではないと自覚したのだ。
 衰弱した体を引きずるようにして、ネーランジャラー川のほとりまでやって来た。降り注ぐ陽光は、川面にきらきらと反射していた。(次回に続く)

[VIEW POINT]枢軸時代

 「枢軸時代」――ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、社会の変動を背景として、現代まで続く人類の精神基盤が築かれた紀元前の時代を、そう呼びました。
 すなわち、紀元前5世紀ころを前後して、インドで釈尊の仏教が誕生したことをはじめ、中国では孔子の儒教や老荘思想、中東ではキリスト教やイスラム教の原型である旧約思想、そしてギリシャでは哲学の諸思想など、後に普遍化する思想の種子が、世界同時多発的に芽吹いたのです。
 池田先生は、ローマクラブのホフライトネル博士との対談で、環境破壊や核兵器の問題など、現代文明が直面する数々の人類的危機を克服するためにも“「第2の枢軸時代」が切実に要請されている”と語りました。
 まさに旧来の価値観が揺らぎ、社会が大きく変動する今、人類を善導しゆく確たる“精神の基軸”が求められてやみません。こうした時代の要請に応える誇りを胸に、万人の生命に尊厳性を見いだす日蓮仏法の哲理を、日夜、語り広げているのが創価学会員です。
 人類の恒久平和の実現という、時代建設の使命に挑む私たちの足跡は、やがて、偉大な民衆運動として人類史に燦然と輝くに違いありません。