おはようございます。部屋の温度は28℃。師匠を持ち、自身の人生を最高のものにした生き方。生涯を師弟の道に生きることのできる人は幸福だ。今日も颯爽と!今日もお元気で!
 

〈ストーリーズⅡ 池田先生の希望の励まし〉 第2回 この世のダイヤモンド2024年7月7日

  • 私がいなくても立派にやり遂げるのが「本物の弟子」である

幸せになってみせる

 アメリカ・シカゴの会場に、池田大作先生の力強いピアノの音色が響く。弾き終えた後も、先生の指は鍵盤から離れなかった。さらに、もう1曲、演奏が続いた。
 師弟分断の謀略の嵐が吹き荒れていた1980年10月12日、アメリカを訪問していた先生は、シカゴ文化祭に出席。終了後、アメリカ広布20周年を記念する総会に臨み、教学研さんの重要性を訴えた。
 夕刻には、シカゴとニューヨークの交流交歓会が行われた。先生はあいさつの後、アメリカの友の奮闘に感謝し、ピアノを奏でた。
 一連の行事を役員として支えた一人が、ジョージ・スタップチャックさん。西海岸のカリフォルニアから駆け付けた。
 元々、ジョージさんは結婚した折、信心に猛反対だった。その彼が師を求め、師と共に人生を歩むことを自らの誇りとした。ジョージさんが地涌の使命に目覚めたドラマには、妻・マリコさんの祈りがあった。
  
 戦時中、マリコさんは広島の呉で育つ。終戦の時、8歳だった。空襲で破壊された街。家庭も暗かった。ギャンブルに明け暮れる父を憎んだ。
 11歳からパチンコ玉を洗って、日銭を稼いだ。学校にも満足に通うことができず、文字が読めなかった。
 生きることは地獄――その日々を耐えに耐え、20歳を過ぎた頃、母と一緒に山口・岩国で食堂を開いた。
 常連に、アメリカ海軍の兵役に就いていたジョージさんがいた。マリコさんは、片言の英語で話すようになった。
 その後、ジョージさんと結婚。幸せを夢見た。ところが、夫も父と同じようにギャンブルにのめり込む。
 自分の運命を呪った。絶望に打ちのめされていた時、近所の人から仏法の話を聞く。64年、信心に人生を懸けようと決めた。
 ジョージさんは猛烈に反対した。だが、マリコさんの心は固かった。「入会した日、決めたんです。何があっても御本尊を持ち、絶対に宿命転換をして幸せになってみせるって」
 67年、夫と共に、アメリカのニュージャージー州へ移ることに。車もなく、英語もうまく話せない。それでも、マリコさんは勇気を奮い起こし、出会う人々に、仏法の素晴らしさを語っていった。
 最初は信心の話をしても、聞いてもらえないことがほとんどだった。「クレイジー(どうかしている)」と言われることもあった。
 そうしたことがあるたびに、マリコさんは“この人に会うために、私はアメリカに来た”と決め、誠意を尽くした。やがて、信心する人が一人また一人と誕生。夫のジョージさんも、少しずつ信心に理解を示すようになり、71年に入会した。
 翌72年5月20日、ジョージさんは長男のジョージ・ジュニアさん、長女のキャシー・キングさんを連れて、世界平和文化祭が開かれるロサンゼルスの会場に向かった。

1980年10月12日、アメリカ・シカゴ市内で行われた交流交歓会で池田先生がピアノ演奏を披露。代表の友に和歌を贈った。前年4月、先生は第3代会長を辞任。絆を引き裂く障魔に立ち向かう誓いに満ちた一日となった

1980年10月12日、アメリカ・シカゴ市内で行われた交流交歓会で池田先生がピアノ演奏を披露。代表の友に和歌を贈った。前年4月、先生は第3代会長を辞任。絆を引き裂く障魔に立ち向かう誓いに満ちた一日となった

「命ある限り」の誓い

 文化祭の開始前、先生を乗せた車が会場に到着した。一目でも会いたいと待っていたジョージさん親子を見つけると、歩み寄った。
 先生は親子と握手を交わし、キャシーさんを抱き上げた。
 この時の喜びを、ジョージさんは手記につづっている。「先生との強い絆を感じ、例えようもない温かさ、真心の深さに胸を打たれました。この日から、先生と共に、世界広布に人生をささげようと決めたのです」
 8年後の1980年7月、マリコさんは3人の子どもと一緒に来日。神奈川研修道場で師との出会いを刻んだ。
 次女のキンバリー・ハーマンさんは6歳だった。母が慕う先生の姿を、目で追った。
 一人一人を励ます先生のもとに、水が運ばれてきた。先生はその水を、近くにいたキンバリーさんに差し出す。周囲を気遣う先生の真心は、6歳の少女の心を感動で包んだ。
 この日、先生は一家と語らいの時間を持った。妹のキンバリーさんには将来の夢などについて尋ね、励ましを。また、姉のキャシーさんが手にしていたポストカードに、こう記した。
 「強き信心と 幸せの家庭は 此の世のダイヤモンドなり」
 師の言葉は一家の指針となった。ジョージさんとマリコさんは誓い新たに、アメリカ広布の伸展に尽くした。師弟一筋の大道を進み、2005年、ジョージさんは霊山へ旅立った。
 2年後の07年6月、キンバリーさんは全米青年部長の任命を受けた。同月、東京牧口記念会館で行われた本部幹部会。席上、先生はアメリカ青年部の新出発を祝福。キンバリーさんに、「私と最初に会ったのは、いつだったか覚えていますか?」と語りかけた。
 「6歳の時です!」。キンバリーさんは応え、先生に語った。「池田先生が私の永遠の師匠であると決めたのは、その時でした!」
 この誓いのまま、キンバリーさんは友の激励と対話拡大に駆ける。キャシーさんは全米女子高等部長を務め、現在はアメリカ創価大学副学長の重責を担い、大学建設に奔走する日々だ。
 マリコさんはこれまでに、390世帯を超える弘教を実らせている。先月も、3人の友人と一緒に座談会に参加した。
 「今の目標は400世帯の弘教を達成すること。年を重ねても命ある限り、池田先生への報恩を果たしていきます」――マリコさんは使命の道を進み続ける。

池田先生がキャシー・キングさん㊧とキンバリー・ハーマンさん㊥に声を掛け、励ましを送る(1980年7月22日、神奈川研修道場で)

池田先生がキャシー・キングさん㊧とキンバリー・ハーマンさん㊥に声を掛け、励ましを送る(1980年7月22日、神奈川研修道場で)

2007年9月の本部幹部会で、池田先生がアメリカ青年部長のキンバリー・ハーマンさんと握手を(東京牧口記念会館で)

2007年9月の本部幹部会で、池田先生がアメリカ青年部長のキンバリー・ハーマンさんと握手を(東京牧口記念会館で)

「苦楽をば わけあい進むが 師弟道」

 滋賀県湖南市の平松地域には、国の天然記念物「平松のウツクシマツ自生地」がある。戸田貞夫さんは、滋賀の青年部長に就任して間もない時、松の木々を目に焼き付けた。池田先生が若き日に訪れた場所だったからである。
 1958年10月13日、先生は恩師・戸田先生の遺族を滋賀に招待した。恩師の逝去から半年。同行した友は、「ご遺族に少しでも喜んでいただこうとされていた。それはまるで、戸田先生に仕える池田先生の姿そのものでした」と回想している。
 報恩の誠を尽くす若き池田先生の姿に思いをはせ、戸田さんは弟子としての決意を深めた。
  
 戸田さんは生後すぐ、右目の視力を失った。左目の視界もぼやけた。生まれて50日で父を失い、小学生の時に母は結核で亡くなった。その結核が、18歳の戸田さんを襲った。
 死を覚悟した療養所で、信心の話を聞いた。「絶対に治る」との紹介者の確信に希望を見いだした。療養所に入って1年半後、無事に退院した。
 その後、兄が経営する呉服屋で28歳まで働き、聖教新聞社関西支社へ。ラジオ・テレビ欄の編集を担当した。
 73年、池田先生と大阪の同志との記念撮影が行われた。終了後、先生は戸田さんに声をかけた。
 「君のことは、全部知っているよ」
 世界広布の指揮を執る多忙な日々の中で、一人一人のことを胸中に深くとどめ、励ましを送る師の真心に、戸田さんは感動で胸がいっぱいになった。
 翌74年、滋賀の青年部長の任命を受け、84年には滋賀県長に。先輩から「車を運転できない君が、なんでこんな道を覚えているのか」と驚かれるほど、滋賀の隅々を回った。
 先生は何度も戸田さんに励ましを送り、自らの行動をもって、リーダーとしての在り方を示した。その中で、戸田さんが「あの日の感動は忘れることができません」と語る原点がある。
 81年11月25日、先生は滋賀の功労者宅を訪問。功労者の妻は、くも膜下出血で闘病中だった。
 「来たよ! もう大丈夫だよ! 一緒に勤行をしよう!」
 同行していた戸田さんは、先生の勤行の声の力強さに圧倒された。三障四魔から同志を断じて守ろうとする師の慈愛を、生命の底から感じた。
 自分が縁した人を必ず幸福にしてみせるとの「気迫」と「執念」――リーダーの姿勢を、戸田さんは学んだ。
  
 85年8月2日、戸田さんはじめ滋賀の代表の友が、長野研修道場にいる先生のもとに集った。同年10月27日に開催を予定していた「第1回滋賀青年平和文化祭」のテーマソングを聴いてもらうためである。
 先生を囲むようにして、滋賀のメンバーが椅子に座る。ラジカセから流れるテーマソングを聴くと、先生は力を込めた。
 「いい曲だ。満点だ!」
 さらに、先生は文化祭の主な場面の演技台本に目を通した。続けて、「実践三項」の原案を手に取った。
 ①日々新たな歓喜の唱題
 ②勇気ある折伏の実践
 ③御書と『人間革命』の研さん
 一読すると、こう変えてはどうかと提案した。
 ①日々歓喜の唱題
 ②勇気ある素晴らしき人生
 ③御書の研さん わが身の研さん
 師が示した指針は、文化祭に出演する友が、自身の人間革命に挑む勇気の源泉となった。“先生の前で、最高の演技を”――練習は熱を帯びた。
 10月26日、前日リハーサルの後、“先生が出席されない”と伝えられた。涙を流す出演者もいた。だが、先生の伝言が紹介されると、皆が奮い立った。
 “私の弟子ならば、私がいないときにこそ本領を発揮するのだ”
 “私がいなくても立派にやり遂げるのが「本物の弟子」である”
 “行かないのも指導である。私の弟子らしくやりなさい”
 師の厳愛を胸に、出演者は歌い、舞った。文化祭は大成功で終わった。来賓は絶賛の声を惜しまなかった。
 師弟の精神とは、出会いの有無ではなく、師を求め、師への誓いを果たそうと戦う中に脈動する――文化祭を通して、滋賀の友は心に刻んだ。
 池田先生はかつて、戸田さんに「苦楽をば わけあい進むが 師弟道」と詠み贈った。師の行動に連なる覚悟と実践――弟子の本領を発揮するのは、今この時である。

1977年5月11日、滋賀文化会館(現・草津文化会館)を訪問した池田先生。戸田さん(前列左から2人目)が共に歩く。先生は開館記念勤行会で、折伏精神について語った

1977年5月11日、滋賀文化会館(現・草津文化会館)を訪問した池田先生。戸田さん(前列左から2人目)が共に歩く。先生は開館記念勤行会で、折伏精神について語った

大津市の滋賀文化会館から琵琶湖を望み、池田先生がカメラを向けた(1995年10月)。この滋賀訪問の折、先生は未来部の友と一緒にラジオ体操を。「未来よりの 使者 君達に託さむ 二十一世紀の 晴れ舞台」と贈言した

大津市の滋賀文化会館から琵琶湖を望み、池田先生がカメラを向けた(1995年10月)。この滋賀訪問の折、先生は未来部の友と一緒にラジオ体操を。「未来よりの 使者 君達に託さむ 二十一世紀の 晴れ舞台」と贈言した