おはようございます。部屋の温度は27℃。人生最悪の状態に遭遇したとしても、たくましく宿命転換させる仏法。苦難を乗り越える知恵を信仰で培うことだ。そこからたくましい生き方ができる。今日もお元気で!

 

【新連載】ライフウオッチ――事故で息子を亡くした母と同志の歩み2024年7月5日

山本美也子さんが「大きくなったね。私の背丈を超えたね」と。長男・寛大さんが事故の翌日にマラソン大会で走るはずだった公園では、同級生が植えた月桂樹が大きく成長した(福岡・駕与丁公園で)

山本美也子さんが「大きくなったね。私の背丈を超えたね」と。長男・寛大さんが事故の翌日にマラソン大会で走るはずだった公園では、同級生が植えた月桂樹が大きく成長した(福岡・駕与丁公園で)

 どんな人も避けられない「生老病死」の苦しみ。人生は時に、耐え難い困難や、答えの出ない事態に向き合わざるを得ないことがある。新連載「ライフウオッチ 生きて、生きて、生き抜くために」では、現代社会における生老病死の課題に直面する中で、池田大作先生が世界中に広げてきた生命尊厳の哲学が、同志の心にいかなる価値をもたらしているかを考えたい。今回は、2011年に飲酒運転事故に巻き込まれ息子を亡くした福岡市東区の女性部員と同志の歩みを追った。(記事=小野顕一、写真=種村伸広。ルポに関連する池田先生の指導を別掲します)
 

■悲惨な事故を起こさないために

 わが子の命を奪った飲酒運転事故がなくなる社会の実現へ、山本美也子さん(支部副女性部長)は「飲酒運転“ゼロ”」を呼びかけてきた。
 
 事故の前年である2010年に設立した、障がい者も健常者も仲良く暮らせる社会を目指すNPO法人「はぁとスペース」で、「STOP‼ 飲酒運転」と記されたステッカーを作成。飲食店や自動販売機、トラックなどに貼り出してもらうことで、飲酒運転の根絶に取り組んできた。

飲酒運転撲滅のステッカー。大小三つのハートが重なる

飲酒運転撲滅のステッカー。大小三つのハートが重なる

 その一方で山本さんは、学校や企業をはじめ、刑務所、少年院などに出向き、飲酒運転撲滅への講演を行っている。
 

■「あの電柱まで頑張ろう」

 2011年2月9日。山本さんの長男・寛大さんは、飲酒運転の車にひかれ、亡くなった。16歳だった。
 
 「涙が枯れるほど泣いて泣いて、仏前から立ち上がれなかったです」。山本さんは、静かに言葉を継いだ。
 
 長年、看護師として働き、白樺会(看護師の集い)の一員として、“命の現場”で奮闘してきた。「けれど、看護師だったのに、寛大に何もしてやれませんでした……」
 
 朝から晩まで、何を見ても、何をしても悲しさが募る。
 
 以前のように家族4人分の食事を作って、1人分が余っても悲しい。3人分作っても悲しい。寛大さんの思い出がある場所には近づけない。

 やっと足を踏み入れたスーパーで、買い物かごを手にしたまま座り込んでしまうことも。「あの電柱まで頑張ろう」。自分に言い聞かせて歩いた。
 
 体調を崩し、物事に集中できないことも増えた。記憶も飛びがちに。ミスが許されない仕事なのに、涙があふれて注射の目盛りがかすむ。2月をもって職場を辞めた。
 
 仕事柄、生死に関わる場面に立ち会い、嘆き悲しむ遺族に寄り添ってきたが、喪失の辛さは想像を絶していた。
  

<池田先生の指導から>

 人生に起きたことには必ず意味がある。また、意味を見いだし、見つけていく。それが仏法者の生き方です。意味のないことはありません。どんな宿命も、必ず、深い意味があります。
(指導選集『幸福と平和を創る智慧』第2部上巻)

 

■声のかけようもなかった

 山本さんの周りには、地区の同志がいつもそばにいた。
 
 事故の報を聞き、松永玉美さん(女性部副本部長)は、山本さんの元に駆けつけた。
 
 松永さん一家が福岡市東区に越してきた時、初めて訪ねてきた学会員が山本さんだった。背中には、まだ幼い寛大さんがおぶわれていた。
 
 ほどなく、付き合いは家族ぐるみに。松永さんの娘と寛大さんは同世代で、互いの家を行き来しながら、子育てや学会活動に励んできた。
 
 「でも、事故の直後は声のかけようもなかったです。どれほど苦しいか想像もつかないですし、ただ隣にいることしかできなくて……」

松永玉美さん㊨と山本美也子さんがにこやかに。話し出すと笑いが絶えない

松永玉美さん㊨と山本美也子さんがにこやかに。話し出すと笑いが絶えない

 痛ましい事故の後で、どう接していいか分からない。ただただ悲しく、かける言葉も見つからなかった。
 
 この時、松永さんら地区の同志は、聖教新聞の切り抜きを山本さんにそっと手渡している。そこには池田先生の指導が記されていた。
 
 「仏法では『悪象等は唯能く身を壊りて心を破ること能わず』と説いている。悪象等、すなわち、さまざまな事故などの災難によって命を落としたとしても、妙法を持ち抜いた人は、生命の絶対的な幸福の軌道が壊されることはないのである。必ず成仏して、すぐにまた生まれてくることができる」
 
 山本さんは、仏前の経机に切り抜きを置き、来る日も来る日も祈りを重ねた。

松永さん㊧と山本さん。話は尽きない

松永さん㊧と山本さん。話は尽きない

■涙と笑いの座談会

 四十九日が明け、山本さんは座談会に足を運んだ。
 
 一言だけ話そうとしたが、声が震えて言葉にならない。
 
 瞬く間に、会場はすすり泣く声でいっぱいに。手で口元を覆い、嗚咽をこらえる女性がいれば、人目をはばからずむせび泣く壮年もいた。皆、寛大さんのことを、「寛ちゃん、寛ちゃん」と、わが子のようにかわいがってきた。
 
 「でも、座談会が終わる頃には、みんな、涙を流しながらも笑えていたんです」と山本さんは言う。細かい内容は覚えていない。けれど、“何をしても責められない”という温かな雰囲気に救われた。事故以来、取材の対応や裁判の準備などが続き、心の休まる暇がなかった。
 

<池田先生の指導から>

 かける言葉も失うような絶望と悲嘆の底にある友の傍らにも、わが同志は寄り添ってきました。ただ伝わる手の温もり、ただ一緒に流す涙だけが唯一の対話だったこともあるでしょう。しかし、決して希望を捨てなかった。いかなる人も、苦難に負けない底力を、逆境をはね返す底力を、そして、宿命を使命に変える底力を持っていると信じてきたのです。
(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第22巻)

 

■飛び込んできた言葉

 悲しみは日に何十回と押し寄せる。そのたび、地区の同志と共に、たくさん泣いて、たくさん笑った。
 どれほど絶望し、悲しみを募らせただろう。
 ほんのわずかずつ、山本さんに笑顔の時間が増え、日常の生活が戻りはじめた。
 
 そうした中での、ある日の唱題。仏前に置いていた切り抜きが目に入り、池田先生の言葉が心に飛び込んできた。

山本さんが心の支えとした池田先生の言葉㊧と聖教新聞の切り抜き

山本さんが心の支えとした池田先生の言葉㊧と聖教新聞の切り抜き

 “そうだ。寛大は永遠に生きている。だから大丈夫。悲しんでいるだけじゃ、何も変わらない。寛大と一緒に、私にできる使命を果たしていこう”
 
 2月の葬儀の日、山本さんは、ある誓いを立てていた。
 
 素直で明るい寛大さんは、クラスでも人気者だった。
 
 「俺たち、友達がたくさんいるじゃん」が口ぐせで、事故に遭った日も親友と遅くまで話し込んでいた。葬儀には1500人が参列し、斎場の外まで列が続いた。
 
 「寛大がいたから学校に通えた」「私が病気だった時、寛大君が夜遅くまで息子に付き添ってくれた」――。
 参列した人から寛大さんの思い出を語られるたび、山本さんは息子がこんなにも人のために生きていたのかと知った。
 
 “私にできることをしなければ、同じ悲しみの犠牲者がまた出てしまう……”
 
 そんな思いを感じ、葬儀の挨拶に立った山本さん。口をついて出たのが、「命を守るために、飲酒運転撲滅の活動をします」との言葉だった。
 

■「こんな状況だけど……」

 そうは言ったものの、心が追いつかない。
 
 初めて飲酒運転撲滅を訴えた、ある学校の講演では、生徒たちを前に最初から最後まで泣き続けてしまった。
 
 「それだと、聞いている人もきついですよね。やっぱり私自身もきちんと話していきたいし、池田先生・奥さまは“幸せだから、ほほ笑むのではない。ほほ笑んでいくことが幸せの因になる”って、おっしゃっていますよね。“幸福は笑顔から”って。だから私も、こんな状況だけど笑顔を忘れずにいきたい、思いやりで社会を変えていきたいって思ったんです」
 
 そんな山本さんを、ずっとそばで見てきた一人が川内早苗さん(副白ゆり長)。地域に何か貢献できればと、10年以上にわたって山本さんと読み聞かせサークルを開いてきた。今は、はぁとスペースで活動を共にする。

はぁとスペースで活動を共にする川内早苗さん㊧と

はぁとスペースで活動を共にする川内早苗さん㊧と

 常にほほ笑みを絶やさない山本さんを、川内さんは「人前で悲しいそぶりは一切見せなくて。いつも笑顔でニコニコされています」と。
 
 「ただ、毎年、事故があった2月が近づくと、思い詰めた表情の山本さんを目にする時もあります。悲しみが消えることはないんだなって。でもそんな時、山本さんは『だからこそ笑顔になろう!』って。いつも周囲の人に『絶対できるけん!』って、応援してくれるんです」
 
 葬儀の挨拶で、「飲酒運転撲滅の活動をします」と話した理由について、山本さんはこう振り返る。
 
 ――川内さんたちと参加してきた婦人部ヤング・ミセス(当時)の会合で学んだ、池田先生とアメリカの未来学者ヘイゼル・ヘンダーソン博士との語らい。そこで胸に刻んだのは、博士の生涯を通じて語られた、「子どもを守る一人の母の思いから、社会は変わっていく」との信念だった。

はぁとスペースにある「まちかど図書館」で

はぁとスペースにある「まちかど図書館」で

 「心のどこかに、その時の言葉が残っていたんだと思います。息子を失って、もう私が母として寛大にできることはなくなってしまった。けれど、他の命を守ることならという気持ちが生まれた。そうした思いが、あの決意につながったのかもしれません」
 
 飲酒運転撲滅の活動を始めた当初は、思いが先走り、体も心も無理を重ねてしまった。そんな時、川内さんは、いつもホッとできる雰囲気をつくり、山本さんの意思を尊重しつつ、温かく包んでくれた。
 
 山本さんは述懐する。
 「“何を言ってもいい”安心感がある中で、本人がどうしたいかを最大に気遣い、勇気づけてくれる。それって、得難い“グリーフケア”になっていると思うんです」

はぁとスペースでの和やかなひととき

はぁとスペースでの和やかなひととき

■新しい物語を築く

 大切な存在を失った悲しみを「グリーフ」といい、悲しむ人に寄り添い、心身を回復させていく取り組みを「グリーフケア」と呼ぶ。ケアといっても、専門家による治療のみを指すわけではなく、誰もがその役割を担い得るという。
 
 深い悲しみから立ち直っていくため提唱された一つに、「意味再構成」理論がある。
 
 大きな喪失の後、「それでも生きる意味」をどう見いだし、新しい人生の物語を築いていくか。そこには信仰の役割も大きいと指摘される。
 
 学会では、「生死不二」や「宿命転換」の法理をはじめとする日蓮仏法の智慧、池田先生の思想、そして同志の励ましを支えに、生きる意味の“再構成”が促されている。
 
 グリーフケアにおいては、周囲の人と悲しみをどのように分かち合えるかが重要という。
 都市化やつながりの希薄化で悲嘆を表出できる相手や機会が減り、悲しみを癒やしにくくなりつつある現代にあって、学会のどの地区にも息づくケアの文化は、深い悲しみを抱えた人にも希望と安心をもたらすに違いない。
 

■一緒に前を向いていけたら

 2012年、山本さんら被害者遺族が福岡県議会に働きかけ、全国初の罰則付き飲酒運転撲滅条例が制定された。
 
 かつて最も飲酒運転が多かった福岡県で、2017年には飲酒運転事故の死者がゼロに。記録が残る1956年以来、初めてのことだった。
 
 飲酒運転撲滅への講演は、1300回を超えた。同県の飲酒運転の違反者数は、この数年で再び増加傾向にある。目指すのは飲酒運転ゼロだ。

飲酒運転撲滅を訴える山本さん(先月22日、福岡県糸島市内で)

飲酒運転撲滅を訴える山本さん(先月22日、福岡県糸島市内で)

 そうした活動のさなかで、山本さんは、事故や犯罪に限らず、家族を失い、悲嘆に沈む人の心に寄り添ってきた。
 
 「深い悲しみは、消えることも減ることもありません。でも、誰かがそばにいれば、いつかまた前に進めます。残された人が、どう生き、幸せをつかんでいけるか。やり場のない気持ちや感情も大切にしながら、一緒に前を向いていけたらと思っています」
 
 悲哀に打ちひしがれ、立ち上がることすらできなかったあの日――。
 それでもなお、寛大さんと共に、同志と共に踏みしめてきた歩みは、社会の宿命転換の道ともなって、大きく笑顔を広げている。

先月22日、福岡県糸島市に設置された飲酒運転撲滅のモニュメント。飲酒運転撲滅のPR活動で活躍した寛大さんの愛犬・こゆきちゃんの姿も

先月22日、福岡県糸島市に設置された飲酒運転撲滅のモニュメント。飲酒運転撲滅のPR活動で活躍した寛大さんの愛犬・こゆきちゃんの姿も

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 <ファクス>03-5360-9613
 

■参考文献
 坂口幸弘著『増補版 悲嘆学入門』(昭和堂)
 J・W・ウォーデン著『悲嘆カウンセリング改訂版:グリーフケアの標準ハンドブック』山本力監訳(誠信書房)