〈闘魂TALK〉 解説編 テーマ:日興上人2024年6月25日

学会は遺誡のままに信心を貫く

 池田先生は、「日興遺誡置文」について、こうつづった。「日興上人が、大聖人に直結した不二の信心を貫くために定められた、永遠不変の規範にほかならない。思えば、この御遺誡のままに信心を貫いてきたのが創価学会であった」(小説『新・人間革命』第2巻「錬磨」の章)。創価学会は日興上人を範として世界広布を進めてきた。ここでは、日蓮大聖人の教えと御精神を継承された真の弟子「日興上人」について述べる。

日蓮仏法を正しく継承

 日蓮大聖人は、御入滅直前の弘安5年(1282年)10月8日、6人の本弟子(六老僧)を定められた。しかし、日興上人を除く五老僧は次第に大聖人の仏法から違背してしまい、日興上人ただお一人が、大聖人の仏法を正しく継承された。
 
 大聖人滅後、御遺言に基づき、弟子たちで身延の墓所を守る輪番制が定められた。しかし、日興上人を除く五老僧はそれを反故にし、参詣もしなかった。
 
 日興上人は、「師を捨つべからずと申す法門を立てながら、たちまちに本師を捨て奉り候わんこと、大方世間の俗難術なく覚え候」(新2167※新規収録)と、墓所をないがしろにするのは師の大聖人を捨てることにほかならず、世間の非難に言い逃れはできないと厳しく批判された。
 
 この頃、大聖人の門下への幕府の圧力は強まっていたと推測される。大聖人を迫害した平左衛門尉頼綱は、内管領(執権北条氏嫡流の家臣の長)として、絶大な権力を誇っていた。極楽寺良観も、鎌倉の三つの大寺院の別当(寺社の事務を統制する最高責任者)に任命されている。
 
 その中で、3度目の蒙古襲来の危機感も高まっていた。幕府は軍事力とともに神仏の加護で外敵を撃破しようと、蒙古調伏の祈禱をするよう、全国の寺社に命令。大聖人の教団も国家の安寧を祈るよう迫られていたと考えられる。
 
 五老僧は、“蒙古調伏の命令に従わなければ、住房を破壊する”という幕府の脅しに屈して、「天台沙門」と名乗る申状を幕府に提出し、天台宗としての異国調伏の祈禱を行った。
 
 一方、日興上人は、幕府や朝廷への諫暁をたびたび行われている。その申状では「日蓮聖人の弟子 日興」と誇り高く名乗られ、日蓮大聖人の「立正安国論」にそえられたのだ。
 
 また、身延の地頭・波木井実長が、五老僧の一人・日向の影響を受けて、謗法を犯すようになり、日興上人は日向や実長を諫められた。しかし彼らは受け入れず、かえって増長する一方だった。日興上人は、やむなく、身延の地を離れることを決意される。その時の心情を、次のようにつづられている。
 
 「身延山を罷り出で候こと、面目なさ、本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても、聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わんことこそ詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子ことごとく師敵対せられ候いぬ。日興一人、本師の正義を存して本懐を遂げ奉り候べき仁に相当たって覚え候えば、本意忘るることなく候」(新2171※新規収録)
 
 ご自身こそが大聖人の正法正義を守って、広宣流布の大願を遂げていくのだとの自覚を語られている。日興上人は、不知恩で師敵対の五老僧らと決別し、真正の弟子の道を選び取られたのである。

大聖人を末法の教主と

 日興上人と五老僧との決定的な違いは何だったのか。
 
 1点目に、日興上人が、日蓮大聖人を、上行菩薩の使命を果たされた末法教主として位置づけられた点である。
 
 「五人所破抄」で日興上人は、次のように仰せである。
 
 「先師聖人、親しく大聖の付を受けて末法の主たり」(新2185・全1610)、「日蓮聖人は、忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり」(新2186・全1611)、「彼(=天台)は薬王の後身、これ(=大聖人)は上行の再誕なり」(新2187・同)
 
 師を「天台の末弟」のようにしか捉えていない五老僧に対し、日興上人は、大聖人を「末法の主」「上行菩薩の再誕」として深く尊崇された。
 
 創価学会もまた、末法において上行菩薩の使命を果たし、万人成仏の法を説き明かされた「末法の教主」である大聖人を、「末法の御本仏」と仰ぐ。

教学部任用試験の受験者を西方青年部長が激励(本年6月、神奈川・座間文化会館で)

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御本尊を明確に

 2点目に、日興上人は、大聖人が顕された文字曼荼羅の御本尊を信仰の対象とすることを明確にされた点である。
 
 日興上人は、「富士一跡門徒存知の事」で、五老僧との本尊観の違いを次のように示されている。
 
 「五人一同に云わく、本尊においては釈迦如来を崇め奉るべしとて既に立てたり。(中略)日興云わく、聖人御立の法門においては、全く絵像・木像の仏菩薩をもって本尊となさず、ただ御書の意に任せて妙法蓮華経の五字をもって本尊となすべし。即ち御自筆の本尊これなり」(新2180・全1605)
 
 五老僧が仏像に執着していたのに対して、日興上人は、大聖人の真意は文字曼荼羅の御本尊にあり、それを本尊として受持すべきであるとされた。そして、自ら文字曼荼羅の御本尊を書写し、多くの門下に授与されたのである。また日興上人には、大聖人が顕された文字曼荼羅に優劣をつける考えはなく、等しく尊重された。
 
 創価学会も、末法の衆生のために大聖人が顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した御本尊を、すべて「本門の本尊」としている。
 
 3点目に、「当門流においては、御書を心肝に染め」(新2196・全1618)と仰せのように、大聖人が著された著作や書簡を「御書」として大切にされたことも重要である(本連載5月1日付で詳説)。
 
 その御書を英語、中国語、スペイン語など10言語以上で刊行し、「本朝の聖語も、広宣の日は、また仮字を訳して梵・震に通ずべし」(新2190・全1613)という日興上人の言葉を実現し、日蓮仏法の人間主義を世界中に広めてきたのは学会にほかならない。

広布実践の規範

 「日興遺誡置文」の序文には「後学のために条目を筆端に染むること、ひとえに広宣流布の金言を仰がんがためなり」(新2195・全1617)と。広布を目指す門下の規範が示されており、学会の正義を明快に証明している。
 
 「富士の立義、いささかも先師の御弘通に違せざること」(同)。日興上人に連なり、「大聖人直結」「御書根本」の前進を貫いてきた団体は学会をおいて存在しない。
 
 「いまだ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべきこと」(新2196・全1618)。池田先生は、この一節について次のようにつづった。
 
 「日興上人のこの御遺誡を現実に実践してきたのは、創価学会だけではありませんか! それは、学会が日蓮大聖人に直結した唯一の団体であり、地涌の菩薩の集いである、何よりの証明であります」(小説『新・人間革命』第2巻「錬磨」の章)
 
 一方、「時の貫首たりといえども、仏法に相違して己義を構えば、これを用いるべからざること」(新2196・全1618)との遺誡が現実となり、大聖人の仏法に完全に違背したのが日蓮正宗である。法主信仰、僧俗差別などの己義を構えた上、広布破壊の破和合僧の大罪を犯した。
 
 池田先生は、青年に呼びかけた。「日興上人の生涯は、師恩に報い、大聖人の正義を宣揚されることで、日蓮仏法における師弟不二の極理を成就された一生であったといってよい。それゆえに、真実の『師弟の宗教』が完成したと拝される。弟子で一切が決まるのである。この『弟子の大道』こそが、広宣流布の永遠の勝利を約束する。この師弟不二の真髄を私は、あらためて後継の青年たちに託したい。師が持つ『戦う心』を生涯持ち続ける誓願こそが、創価を継承する条件にほかならないからだ」(『大白蓮華』2008年5月号)
 
 大聖人と共に難を忍び、広宣流布を進められた日興上人は、大聖人亡き後も、不惜身命の実践を貫き、師の広宣流布の御精神を誤りなく後世に伝え残そうと遺訓された。
 
 この日興上人の御精神と御闘争を現代に受け継ぎ、世界中に題目と御本尊と御書を弘めたのは、創価学会である。
 
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