〈大慈悲の心音 門下への便り〉 南条時光④=完2024年6月25日

 20代を迎えた南条時光。「熱原の法難」での奮闘から間もなく、次々と試練の嵐が襲いかかりました。弟との死別、自身の大病……。それでも一歩も退くことなく、誓いのままに、敢然と立ち向かっていった時光の闘争の背景には、いかなる時も弟子を温かく見守り続ける日蓮大聖人の存在がありました。
 晩年の大聖人は、広布の命脈を継ぐ時光が苦境を開けるよう、“本物の信心”の姿勢をたたえるなど、励ましを送ります。師の慈愛の言葉に勇み立った時光は、眼前の課題を乗り越え、後継の人材へと成長していったのです。
 弘安5年(1282年)10月13日、妙法流布に生き抜かれた大聖人は、61歳の崇高な御生涯を閉じられました。大聖人の御入滅後、時光は、師匠と結んだ“心の絆”を、生涯、忘れることはありませんでした。
 正応2年(1289年)、大聖人の精神を守り伝えるため、謗法に染まった身延を離れた日興上人を、時光は上野郷の自邸に招きます。日興上人は隣接地で弟子の訓育に力を注ぎました。日興上人のもと、大聖人の大願の実現へ、同志の“団結の要”として純粋な信心を貫いた時光は、後に官職を得るなど、武士としても社会的な立場を確立しました。
 「時光を見習っていけ」――戸田先生の言葉の通り、師弟不二に生き抜いた時光は、門下の鑑として後世の人々に仰がれているのです。

生死の苦悩を越える仏法の哲理

御文

 故五郎殿も、今は霊山浄土にまいりあわせ給いて、故殿に御こうべをなでられさせ給うべしとおもいやり候えば、涙かきあえられず。(春初御消息、新1929・全1585)

通解

 亡くなられた五郎殿も、(兄の信心に包まれ)今、霊山浄土で父に頭をなでられているだろうと思えば、涙を抑えられない。

 ◇ ◇ ◇

 最愛の家族に先立たれる悲しみほど、深いものはありません。弘安3年(1280年)、時光夫妻に、家を継ぐ男児が誕生し、一家が祝福に包まれる中、思いもよらぬ試練が襲います。時光の弟・五郎が突然、16歳の若さで霊山に旅立ったのです。
 その直前、時光は五郎を伴って、身延の大聖人の元を訪れていました。大聖人は立派な若人に成長した五郎に対して、「あっぱれ、肝がすわった素晴らしい青年であることよ」(新1903・全1567、通解)と、限りない期待を寄せられていたのです。
 共に妙法流布に生き抜く未来を思い描いていた弟の早世に直面し、時光の悲嘆はいかばかりであったか。訃報に接した大聖人は時光に、「夢か夢か、幻か幻かと疑い、噓ではないのかと思った」(新1904・全1566、通解)と、時光に寄り添うように御心境をつづられています。
 後年に著された本抄では、“五郎が霊山で、父に頭をなでられているだろう”と励ましを送られています。かつて時光の父が亡くなった折、五郎は母の胎内にいました。生前、巡り合うことができなかった家族が、信心という一点でつながり、三世にわたって永遠に結ばれていく――。大聖人の慈愛の言々句々が、悲哀に沈む時光の心に希望の光を差し込んだことでしょう。
 今世での愛別離苦があっても、信心で結ばれた故人との生命の絆がある限り、いかなる苦難にも屈しない。日蓮仏法の深遠な生命観に基づいた価値創造の生き方は、生死の苦悩を乗り越える哲理として輝きを放っています。

愛弟子を思う師匠の師子吼

御文

 鬼神めらめ、この人をなやますは、剣をさかさまにのむか、また大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか。あなかしこ、あなかしこ。この人のやまいをたちまちになおして、かえりてまぼりとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。(法華証明抄、新1931・全1587)

通解

 鬼神どもよ。この人(=時光)を悩ますとは、剣を逆さまに飲むのか、自ら大火を抱くのか、三世十方の仏の大怨敵となるというのか。まことに恐れるべきである。この人の病をすぐに治して、反対に、この人の守りとなって餓鬼道の大きな苦しみから免れるべきではないか。

 ◇ ◇ ◇

 弘安5年(1282年)、24歳の時光は重い病を患いました。大聖人が亡くなられる8カ月前のことです。
 当時、大聖人も体調を崩されていましたが、時光の病状を案じられ、病身を押して本抄の筆を執られました。
 「鬼神めらめ」との叫びで始まる一節には、大聖人御自身が体を悪くされていることを微塵も感じさせないような、怒りにも似た覇気がほとばしっています。愛弟子を襲う死魔を打ち破ろうと、命を削る思いで鬼神を叱責する師匠の師子吼に触れ、病床の時光は、生命力を蘇らせたに違いありません。
 その後、更賜寿命を果たした時光は、大聖人滅後の50年を生き抜き、日蓮門下を陰に陽に支える“要の存在”として奮闘しました。
 師の心に呼応し、弟子が勝利を開く――。この師弟一体の前進こそ、創価の連帯に脈打つ不滅の魂なのです。