〈ONE GOSHO この一節とともに!〉 華果成就御書2024年6月23日

  • 師弟は弟子で決まる

男子部教学室編

 師弟不二の実践とは、どのような行動を指すのか。今回は「華果成就御書」を拝し、師匠への報恩の道を貫かれた日蓮大聖人のお心を学びます。

御文

よき弟子をもつときんば、師弟仏果にいたり、あしき弟子をたくわいぬれば、師弟地獄におつといえり。師弟相違せば、なに事も成すべからず。(新1211・全900)

通解

 よい弟子をもつならば師弟はともに成仏し、悪い弟子を養うならば師弟はともに地獄に堕ちるといわれている。師匠と弟子の心が違えば、何事も成就することはできない。

背景

 本抄は弘安元年(1278年)4月、日蓮大聖人が、安房国(現在の千葉県南部)の清澄寺で活動する若き日の兄弟子・浄顕房と義浄房に送られたお手紙です。この2年前、大聖人が仏門に入られた際の師匠であった道善房が死去。三回忌に当たり認められたと考えられます。
 本抄で大聖人は、正法を弘めゆく御自身の功徳が、必ず師・道善房の身の上に還っていくと仰せです。
 道善房は、大聖人の折伏を受け、法華経の信仰を持つように見えたものの、結局は念仏への執着を断ち切れませんでした。このような師に対しても、大聖人は大慈悲の心で報恩感謝の念を示されています。そして、仏法の真髄である師弟の道に触れられ、師弟の心が相違してしまえば、何ごとも成し遂げられないと強調されています。

解説

 本抄で大聖人は、稲が「二度、華果成就するなり」(新1210・全900)と仰せです。最初の華果成就とは、稲が成長し、花を咲かせ、穂が垂れるほど豊かに実ること。2度目は、実った稲は刈り取られるが、米の精(大本の生命力)は消えずに大地に収まるがゆえに、残った株から新たな芽が伸び、再び稲が実ることを指します。
 師弟の関係に置き換えた場合、師匠という大地から弟子という草木が成長し、花が咲き、実がなる(成仏する)ことが、最初の華果成就となります。米の精が大地にかえるのと同じように、弟子の功徳が師匠に還って師匠も成仏させゆくことが、2度目の華果成就となります。
 また、「草木は大地がなくては生長することはできない」(同、通解)などの比喩を用いて、弟子を慈しみ育んでくれる存在への感謝を記されています。旧師・道善房に対する、大聖人の限りない報恩の心が伝わってきます。
 しかし、道善房は大聖人に帰依しながらも、最後まで念仏への執着を捨て切ることができませんでした。そうした師匠に対しても、大聖人は、御自身が妙法を弘通された功徳が、必ず還っていくと述べられています。
 今回の拝読御文では、「華果成就」の原理から、“よき弟子”をもてば師弟共に成仏することができる一方で、邪道に迷う“あしき弟子”であれば、自身が成仏できないゆえに、師弟共に地獄に堕ちてしまうと説かれています。
 大聖人は師匠をも救い切っていく、真の「弟子の道」を歩み抜かれました。ゆえに、同じ師匠を持つ兄弟子の浄顕房と義浄房にも、「よき弟子」として生き抜く弟子の姿勢を教えられているのです。
 師弟の命運の一切は、師匠ではなく、「弟子」によって決まる――この日蓮仏法の真髄を生涯を懸けて貫いた池田先生は、牧口先生、戸田先生の遺志を継ぎ、世界広布の道なき道を開きました。一人の真正の弟子による不惜身命の闘争によって、両先生の名を冠した公園や通りが世界中に誕生するなど、先師・恩師の正義と真実が宣揚されたのです。創価三代の師弟に連なる地涌の陣列は、今や192カ国・地域で躍動しています。
 池田先生は語りました。
 「戸田先生は、よくおっしゃっていた。『よき弟子になったとき、師弟が定まる。師弟とは弟子の自覚の問題である』と。師匠を求めて、弟子が懸命に成長していくとき、生命と生命、魂と魂は響き合い、秘められた限りない力が開かれていく」
 誉れ高き池田門下である私たちも、胸中の師匠と対話しながら、「よき弟子」との自覚で広布の実践に挑む時、無限の可能性を引き出すことができます。
 「新時代の山本伸一」との自覚を胸に、目前に迫った「全国青年部幹部会」の配信行事に大結集するとともに、弘教で勝ち飾りゆく「11・18」へ、新たな広布拡大の歴史を築いていきましょう。