〈いま願う―戦後79年― 信仰体験〉 きょう沖縄「慰霊の日」 凄惨な地上戦を生きて2024年6月23日

  • 平和の誓い 次代につなぐ
  • 「池田先生のことを
  • 一人でも多く語る。
  • それが弟子の恩返し」

来し方を語る慶山恵良さん

来し方を語る慶山恵良さん

 【沖縄県那覇市】79年前、沖縄で繰り広げられた凄惨な地上戦。慶山恵良さん(90)=副支部長=と、朝子さん(88)=地区副女性部長=夫婦は、その戦火を生き延びた。「戦争は人を狂わせる」。これからを生きる世代へ平和のバトンを託すべく、胸に秘めた過去の記憶を呼び起こす。

 戦中、二人は似た体験を経ている。「死体の上を歩いた」。それが、当時10歳前後だった少年、少女の身に起きた出来事だ。

 1945年(昭和20年)4月1日。

 この日、50万人を超えるアメリカ兵が押し寄せ、沖縄本島へ上陸を開始。11万発にもおよぶ砲弾が撃ち込まれ、その後も約3カ月にわたり、“鉄の暴風”と呼ばれる空襲や艦砲射撃が繰り返された。
 恵良さんは現在の名護市(県北部)の生まれ。米軍上陸の報に触れ、明日の命も知れぬ日々が始まる。
 空襲に備え、自宅そばの防空壕で身を潜めた。夜になると近くの山で木の実を集め、飢えをしのいだ。
 ある日、山へ向かう途中で米軍機に狙われた。とっさに身を伏せると、恵良さんのすぐそばを、音を立てて弾丸がかすめていった。

 一方、朝子さんは現在の那覇市(県南部)の生まれ。戦火が迫ると、おばを頼りにさらに南の方へ逃げることに。慕っていたおじがいた。「先に行きなさい」。嫌な予感がした。
 日中はガマ(自然壕)に隠れる。絶え間なく、戦闘機や銃撃の轟音が、ガマの中を不気味に響き渡った。
 日が落ちると、また先を目指した。夜でも照明弾によって居場所をさらされれば、米軍の銃撃の的になってしまう。生きた心地がしなかった。

 二人の周りでは、変わり果てた島民や日本兵の亡骸が、日増しに地面を覆い尽くしていった。その体にはうじ虫が湧き、雨季の湿気にさらされた例えようのない異臭が鼻を突く。足の踏み場もないほどの、おびただしい数。「踏んで進むしかなかった」(恵良さん)

 6月23日。組織的戦闘が終結。二人はそれぞれ、捕虜になった。
 恵良さんは収容所を出ると再び家に向かった。だが全て焼け落ち、跡形もなくなっていた。
 朝子さんのおばはマラリアで亡くなり、生き別れたおじも、ついに帰ってくることはなかった。

恵良さん㊨は結婚を後押ししてくれた義母への感謝をたびたびつぶやいた。苦楽を共に歩んだ妻・朝子さんと

恵良さん㊨は結婚を後押ししてくれた義母への感謝をたびたびつぶやいた。苦楽を共に歩んだ妻・朝子さんと

慶山さん夫婦の広布の舞台。沖縄の町並み

慶山さん夫婦の広布の舞台。沖縄の町並み

 失った家の再建、占領下での生活……戦後も辛酸をなめた。心はすさみ、恵良さんは街でよくけんかに走った。「ウーマクー」(沖縄の言葉でやんちゃ)と周囲から呼ばれた。「強気でいるしかなかった」

 二人は勤め先の沖縄県庁で出会った。
 朝子さんもまた、恵良さんを白い目で見ていた一人。ところが、「いつからか少し目つきが変わったの」。
 恵良さんが創価学会に入会したことを知った。“何かある”気がした。
 やがて交際に至り、1967年(昭和42年)に二人は結婚。「一緒に苦労してみないか」。恵良さんの言葉は、どこか胸に響くものがあった。

 恵良さんは健康食品の販売業を興す。競争は激しく、赤字が続いた。一進一退。還暦に差しかかった冬のある日。沖縄研修道場を訪れた池田先生と、出会いを刻んだ。
 同志を一人一人、抱きかかえるように励ます師の慈顔。恵良さんも直接、言葉を交わした。同じく戦火の悲惨さを知る師の声は、温かかった。
 貧しくとも、無二の仏法に連なった身。“人生を勝つ”。恵良さんは命に誓った。

 二人で折伏に歩いた。信仰に生きる恵良さんを周囲は笑った。何を言われても、もう拳は握らなかった。
 嘲笑は年を追うごとに、「あのウーマクーが!?」という感嘆に変わった。
 「池田先生は、“最も苦しんだ沖縄こそ、最も幸福になり、最も平和になる権利がある”と。その一点でした」

 還暦後には、那覇市内の老人会の会長に。
 同世代に、少しでも“独り”にならないように語らう時間をと奮闘した。
 「慶山さんがいるおかげで楽しいよ」。同志や地域住民の笑顔の真ん中に、いつしか恵良さんはいた。

夫婦で不戦の祈りを

夫婦で不戦の祈りを

沖縄戦の歴史と教訓をとどめる平和祈念公園(糸満市摩文仁)。きょう「沖縄全戦没者追悼式」が行われる

沖縄戦の歴史と教訓をとどめる平和祈念公園(糸満市摩文仁)。きょう「沖縄全戦没者追悼式」が行われる

 沖縄の広宣流布に、ただ駆けてきた。

 妻には苦労ばかりかけた。台所事情は、朝子さんいわく「必要な分だけ(笑)」。借金取りに追われた。3人の子育てもあった。その無垢な寝顔に、歯を食いしばった。ぜいたくとは、ずっと無縁だった。
 だが、夫の周囲に一人、また一人と友の輪が広がるのを、つぶさに見てきた。
 「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」(新1596・全1173)
 沖縄には「命どぅ宝」(命こそ宝)という言葉がある。戦争に踏みにじられたこの心を、再び肯定してくれたのが仏法であり、師との出会いだった。「御本尊と池田先生に巡り合えたから、私は幸せです」と朝子さん。

 ただ恵良さんには、気がかりが一つ。過去と向き合うことだ。どんなに深くしまい込んでも、記憶はふとした瞬間に心を苛む。あの日々を打ち明けることは、家族の間でさえほとんどなかった。
 だが師は命を懸けて、平和を訴え抜いていた。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」(小説『人間革命』第1巻「黎明」の章)
 この叫びは、沖縄の地で書き起こされた。不戦の祈りを、片時も忘れたことはない。「僕の人生も勝負はこれから」。だから百寿を見据え、語ると決めた。体に刻まれた戦火の痛みを、そして変毒為薬の哲学の偉大さを。

 「池田先生のことを一人でも多くの人に語り続ける。それが、弟子のせめてもの恩返しです」
 “島を幸福の楽土に”。焦土となった故郷の宿命転換へ、ひたと歩み抜いてきた半生。今、その平和の誓いを次代へとつなぐ。

 きょう6月23日は、沖縄「慰霊の日」。

●メモ

 【沖縄戦】1945年(昭和20年)3月26日、米軍が沖縄の慶良間列島に上陸し、やがて本島全土に侵攻。すさまじい砲撃や地上戦が行われ、多くの島民が巻き込まれる。約3カ月の戦闘で、住民、兵士を含む20万人以上が犠牲になった。