〈黄金の師弟旅〉第6回 青森・奥入瀬2024年6月21日

  • 難こそ誉れ! 我らは生命と幸福の開拓者

したたるような緑に囲まれた青森・奥入瀬の大自然(1971年6月、池田先生撮影)

したたるような緑に囲まれた青森・奥入瀬の大自然(1971年6月、池田先生撮影)

 イギリスの名門・グラスゴー大学の評議会議長だったJ・F・マンロー博士の凜とした声が、会場のビュート・ホールに響き渡った。
 1994年(平成6年)6月15日、同大学から池田先生への名誉博士号授与式が行われた。今月、30周年を迎えた。
 マンロー博士は「推挙の辞」を、一詩で結んだ。
  
 滝の如く 激しく
 滝の如く 撓まず
 滝の如く 恐れず
 滝の如く 朗らかに
 滝の如く 堂々と
 男は 王者の風格を持て
  
 この詩を作ったのは、池田先生である。
 71年(昭和46年)6月13日、先生は青森総合本部(当時)の約3000人の友と記念のカメラに納まった。「青森の日」の淵源である。
 翌14日朝、先生は奥入瀬渓流に足を運んだ。十和田湖から約14キロ続くその渓流は、原生林が茂り、銚子大滝や雲井の滝など、幾つもの滝が現れる。
 先生は白糸の滝の前で立ち止まり、カメラを向けた。後に、こうつづった。
 「自然の幾百千の歴史が織り成す、あまりにも美しい不思議な絶景に、私は深き感動を覚えた。こんなすばらしいところが日本にあったのかと驚いた」
 「あの滝の響きは、一瞬一瞬を勝ち抜いた、王者の勝鬨のように思えた」
 奥入瀬渓流の絶景に寄せて、先生は冒頭の詩を詠んだ。そして、7月4日、東京で行われた行事で発表した。その後、詩に曲がつけられ、「滝の詩」として歌われるようになる。

1971年6月13日、記念撮影会に臨んだ池田先生(青森市で)。撮影は全12回に分かれ、3時間に及んだ

1971年6月13日、記念撮影会に臨んだ池田先生(青森市で)。撮影は全12回に分かれ、3時間に及んだ

この栄誉を友と分かち合いたい

 71年6月14日、先生と奥入瀬で出会いを刻んだ樋口晴子さん(青森総県女性部主事)は笑顔で語る。
 「あの日、先生は手に持ったカメラで、私たちのことも撮影してくださいました。頂いた写真は、師弟の原点を確認する、大切な宝です」
 この折、先生が「誠実の二字が大事だよ」と語ったことを、樋口さんは心に刻んだ。
 92年(平成4年)、十和田圏婦人部長の任命を受けた。翌年、本紙の購読推進で、青森をリードする拡大を達成した。
 94年(同6年)8月22日、先生は北海道での諸行事を終え、青森へ。友が待ち望んだ15年ぶりの訪問だった。
 その行事の折、樋口さんたちは、東北研修道場を飾る花の準備に当たった。先生から書籍が届いた。表紙を開くと、こう記されていた。
 「万葉の 生花に 感謝 八月二十四日 青森」
 行事を陰で支える友を、サーチライトで照らすように探し、励ましを送る――先生の真心に、青森広布の伸展を誓った。
 師と共に、同志と共に、真っすぐに求道の道を歩んできた樋口さん。「誠実」の二字で、今も友の励ましに駆ける。
 同年8月26日、第1回「青森県総会」が同道場で行われた。先生は、グラスゴー大学での名誉博士号授与式の一幕を紹介。マンロー博士の詩の朗読を聞きながら、「この栄誉を、全世界の学会員、なかんずく、この15年間、懸命に戦ってこられた青森の同志と分かち合いたい」と思ったと述懐。そして、「開拓者の精神」について語った。
 「非難は、開拓者の証しなのである。誉れなのである。いわんや、私どもは、広宣流布という最高に崇高な『生命の開拓闘争』をしている。『幸福の開拓闘争』をしている。『難こそ誉れ』『難こそ安楽』である」

1994年8月22日、青森・三沢会館を訪問した池田先生。地元の代表らを励ました

1994年8月22日、青森・三沢会館を訪問した池田先生。地元の代表らを励ました

東北研修道場で行われた第1回青森県総会(1994年8月26日)。池田先生は「東北は東北らしく、地道に、大誠実でいけばよい。最後は、その人が勝つであろう」と激励した

東北研修道場で行われた第1回青森県総会(1994年8月26日)。池田先生は「東北は東北らしく、地道に、大誠実でいけばよい。最後は、その人が勝つであろう」と激励した

壮年の有志が王者の合唱を

 2007年(平成19年)5月20日、マンロー博士が東北研修道場を訪問した。この日、奥入瀬渓流にも足を運んだ博士は、「滝の詩の如く誇り高く、熱情あふれる勇敢な滝です。流れる音は、まるでSGI会長の声のようです」と語った。
 青森常勝県の同志は、壮年部の有志で男声合唱団を結成。約3カ月の練習を経て、同道場で博士に「滝の詩」を披露した。
 その歌声を録音したCDを聞いた池田先生は、「いい歌だね」と称賛。合唱団に「滝の詩王者合唱団」との名を贈った。「滝の詩」は、24日に行われた本部幹部会で紹介された。
 「聖教新聞を配達していた時に、いつも歌を口ずさんで練習しました」と豊川勝敏さん(十和田圏・副本部長)は語る。
 「滝の詩」の合唱から5年後の12年(同24年)、豊川さんに宿命の嵐が襲いかかる。肺に腫瘍が見つかった。
 手術で切除できない腫瘍が残った。必死に唱題を重ねたが、経過観察では好転しない状況が続いた。
 17年(同29年)には、脳梗塞で倒れた。入院中、地区の同志が全快を祈ってくれていることを聞いた。
 弱気になっていた自分を猛省した。病魔克服の闘魂がふつふつと湧いた。“必ず信心で乗り越えてみせる”と誓った。
 19年(同31年)、ついに寛解を勝ち取った。脳梗塞の後遺症も残らなかった。豊川さんは同志への感謝を胸に、滝のごとく、使命の道をたゆまず進み続けている。
 松坂力さん(三沢圏書記長)は「マンロー博士の前で合唱したことは、忘れられない思い出です」と振り返る。
 1984年(昭和59年)、三沢市にあった父親のレストランを受け継いだ。経営者として多忙な日々。仕事と活動の両立に悩んだ。
 マンロー博士が東北研修道場を訪れた時も、その思いが心の片隅にあった。だが、「滝の詩王者合唱団」への先生の数々の激励に、“すべてやり切る”と腹を決めた。
 経営者としての忙しさは変わらなかったが、心が変わった。時間をやり繰りし、対話拡大にも励んだ。
 2013年(平成25年)、支部長の任命を受けた。「幸福責任者」との決意で、一人一人の同志と会い、心の絆を結んだ。
 16年(同28年)、レストランの経営が行き詰まり、店をたたむことに。苦渋の決断だったが、“新たな道に進もう”と、食肉加工会社に再就職した。
 松坂さんは今、「滝の詩王者合唱団」で副団長を務める。09年(同21年)からは、松坂さんの提案で、地域の市民合唱祭に出演。音楽を通して、会の内外を問わず、友好と信頼の輪を大きく広げている。
 先生はつづった。
 「いよいよ青年の世紀だ。それは、青き人材の森――『青森の世紀』である」
 池田先生と共に、たゆまず、恐れず、朗らかに、堂々と、前へ前へと進んでいく――それが「青森の心」である。

東北研修道場にある「滝」の詩が刻まれた碑

東北研修道場にある「滝」の詩が刻まれた碑