〈栄光の共戦譜〉第28回 1985年(昭和60年) 「開拓の年」2024年6月19日

  • 学会と共に歩む「人間の王者」に

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第28回は、「開拓の年」と銘打たれた1985年(昭和60年)を掲載する。

2・3~6
7年ぶりの愛媛訪問

愛媛の大洲会館を訪れ、難に耐え忍んだ友を励ます池田先生(1985年2月4日)

愛媛の大洲会館を訪れ、難に耐え忍んだ友を励ます池田先生(1985年2月4日)

 “厳寒”を越え、愛媛広布の“春”を告げるような暖かな日だった。1985年(昭和60年)2月3日、池田先生は7年ぶりに愛媛を訪問した。
 愛媛文化会館(現・松山文化会館)での記念撮影の折、先生は大洲の功労者を見つけると、「明日は大洲に行くよ」と力強く語った。
 大洲には、四国の“第1次宗門事件発祥の寺”の一つである神力寺があった。衣の権威を笠に着た悪侶らが、学会への罵詈雑言を繰り返し、脱会者づくりに躍起になった。その中で、大洲の友は師と心を合わせ、広布拡大の上げ潮を築き、見事な勝利の実証を示してきたのである。
 先生は県代表者会で強調した。
 「愛媛・松山の広布が、さらに深く、強く推進され、前進していく時、四国全体が大きく伸展していく原動力となると確信する。その意味で『信心の王国・愛媛たれ』と申し上げておきたい」
 「『日々新たに』『日々求道』の、常に自らを成長させゆくリーダーであっていただきたい」
 さあ、きょうは大洲に行こう!――4日、先生は松山から大洲へ向かった。大洲会館には、地元の友をはじめ、八幡浜、東宇和(当時)、宇和島など、南予の友の笑顔であふれた。南予圏(当時)の4本部合同地区部長会で、参加者と勤行・唱題した後、先生は語った。
 「大洲の皆さまのますますのご健勝とご一家の繁栄、無量無辺に功徳が広がり、折伏の道が開けゆくよう、御祈念させていただきました」
 「『仏法は勝負』である。仏と魔との戦いである。皆さまは信心で勝った。まぎれもなく勝利したのである」
 大洲の友の「勝利」を高らかに宣言した後、こう訴えた。
 「深き縁に結ばれた同志として、友が苦しんでいる時は、その苦しみを分かち合い、唱題していこうと励まし合いながら、真実の和合の前進をしていただきたい」
 「広布に邁進し、『法華弘通』を念じゆく心こそ、最大に三世にわたり福徳を輝かせゆく因となる」
 さらに、2月4日を「大洲の日」に、と提案。現在、「愛媛牧口西予県の日」として、友が師弟勝利の前進を誓う節目となっている。
 地区部長会の終了後、前日の記念撮影で声をかけた大洲の功労者宅を訪問。隣には、神力寺があった。先生は、悪侶と戦い抜いた功労者を、心から励ました。第3代会長辞任の後から開始された功労者宅の訪問は、この日、500軒目を数えた。その後、神力寺は廃寺となり、跡形もなくなった。
 翌5日、先生は愛媛文化会館で行われた支部長会に出席。「始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり」(全1182・新1616)との御聖訓を拝し、励ましを。後に随筆に、「生涯、広宣流布の大願に生き抜き、学会と共に歩み続ける人が『仏の使い』である。『人間の王者』である」とつづった。
 愛媛の地に師弟共戦の原点が刻まれた4日間の激励行。先生は友に詠み贈った。
 「暖かな 心の如く 愛媛なる この地愛さむ 共戦嬉しく」
 「広宣の 王者の城を 築かむと 愛媛の友は 金の汗ふき」

10・20
第6回世界青年平和文化祭

第6回「世界青年平和文化祭」のフィナーレ(1985年10月20日、広島県立体育館〈当時〉で)

第6回「世界青年平和文化祭」のフィナーレ(1985年10月20日、広島県立体育館〈当時〉で)

 「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています。それが戸田先生に対する弟子の誓いなんです」――広島に寄せる池田先生の思いだ。
 1985年(昭和60年)10月20日、核兵器なき平和の連帯を誓う文化祭が広島県立体育館(当時)で行われた。世界46カ国・地域の青年たちが熱演を繰り広げた、第6回「世界青年平和文化祭」。7月にハワイで行われた第5回に続く祭典である。
 同年5月の岡山訪問の折、池田先生は岡山に「限りなき前進の岡山」、広島に「永遠の平和・広島」とのモットーを贈った。この「永遠の平和」の心を、文化祭で表現しようと創意工夫が重ねられた。
 文化祭はもともと、前年の84年(同59年)に行われる予定であった。だが、85年が被爆40年に当たることから、開催日が変更になった。
 池田先生は青年たちの熱演に、喝采を送った。フィナーレでは、世界の青年がスクラムを組み、文化祭のテーマソング「ピース フォーエバー」を大合唱。その後方には、「永遠の平和 広島」の人文字が鮮やかに浮かび上がった。
 祭典は来賓をも感動で包んだ。「この若者たちの姿の中に“永遠の平和”がある。震えるほど感動した」「フィナーレの出演者が爆発的な歓喜の中で歌い踊る姿は、まさに圧巻で圧倒される思いでした」などの声が寄せられた。
 文化祭の終了後、先生は詠んだ。
 「万歳と 叫びおくらむ 広島の 平和の凱歌は 朝日と昇らむ」
 翌21日、先生は広島市の平和記念公園に足を運んだ。原爆投下の目標とされた相生橋に立ち、原爆ドームを望む。また、原爆慰霊碑に向かい、追悼の祈りをささげた。
 この日、世界の青年たちも慰霊碑で献花を行った。さらに、原爆病院を訪れ、被爆者と対面。欧州の女性は「核兵器は断じて許せない! “被爆者の生”が百千万の理論をはるかに超えて、そのことを教え、訴えていることが痛いほど分かり、憤りすら感じました」と述べた。
 先生は述懐している。
 「私は心強かった。偉大な使命感に燃えた、民衆の『平和の連帯』の世界的拡大こそ、悪魔の兵器の暴走を止める最強の力だからである」
 22日、第6回「SGI総会」第1日の行事が広島文化会館で行われた。先生は、“リーダーは、信心のことにおいては当然、峻厳でなければならない。しかし、その他の面に関しては、メンバーを大きな慈愛で包んでいっていただきたい。心から讃嘆し、励ましていける人であってほしい”と望んだ。
 23日、会場を岡山文化会館に移し、「SGI総会」第2日の行事が開かれた。先生は「一面、広布は“正法の流れ”自体であり、現在の源流から、万年への流れをつくっていかなければならない。そのために後事を託し譲っていける後継者を、次々と立派に育てていくことが大事となる」と強調した。
 民衆の連帯による世界平和の流れを広げ、重要な学会精神が語り残された、85年の広島・岡山訪問。その歴史は、中国広布を担う青年に受け継がれていく。

◆年表◆
1985年

 【1985年(昭和60年) 開拓の年】
  
 〈1月20日〉
 関西指導(~25日。大阪、京都、兵庫)
  
 〈2月3日〉
 愛媛指導(~6日)
 大洲会館初訪問
 功労者宅を訪問、会長辞任後500軒目となる(4日)
  
 〈3月6日〉
 中華全国青年連合会の胡錦濤主席(後に国家主席)、中華全国学生連合会の李克強秘書長(後に首相)らを歓迎(東京)
  
 〈3月14日〉
 関西指導(~18日。大阪)
  
 〈4月9日〉
 創価女子短期大学第1回入学式。「『理想』『鍛え』『教養』の人に」と語る(東京)
  
 〈4月13日〉
 四国・関西指導(~5月1日。徳島、香川、愛媛、兵庫、大阪、奈良、和歌山)
 ’85徳島青年平和文化祭(14日)
 愛媛青年平和文化祭(21日)
 第1回奈良青年平和文化祭(28日)
 和歌山青年平和文化祭(29日)
  
 〈5月18日〉
 東北指導(~21日。秋田、岩手)
 第1回秋田青年平和合唱祭(19日)
 第1回岩手県記念代表者会議(20日)
  
 〈5月24日〉
 中部・中国・関西指導(~28日。愛知、岡山、兵庫)
 第2回岡山青年平和文化祭(26日)
  
 〈6月9日〉
 国際人道問題独立委員会のサドルディン・アガ・カーン共同議長、緒方貞子副議長らと懇談(東京)
  
 〈7月1日〉
 ハワイ訪問(~9日)
 第5回世界青年平和文化祭(4日)
  
 〈7月13日〉
 平和学者でカナダ・トロント大学平和科学研究センター所長のアナトール・ラパポート博士と会談(東京)
  
 〈8月18日〉
 第1回栃木青年平和文化祭
  
 〈9月8日〉
 第2回新潟青年平和文化祭
  
 〈9月16日〉
 第1回静岡青年平和文化祭
  
 〈9月23日〉
 ’85第1回千葉青年平和文化祭
  
 〈9月29日〉
 第1回埼玉青年平和文化祭
  
 〈10月6日〉
 三重・関西指導(~11日。三重、大阪)
  
 〈10月19日〉
 中国・関西指導(~28日。広島、岡山、大阪)
 第6回世界青年平和文化祭(20日、広島)
 第6回SGI総会(22日、広島。23日、岡山)
  
 〈11月29日〉
 インドのラジブ・ガンジー首相を迎賓館に表敬訪問し会見(東京)
  
 ※7月、青年部の反戦出版「戦争を知らない世代へ」シリーズ全80巻が完結。戦争の悲惨さを語り継ぐ約3200人の証言を収録
  
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