青年部拝読御書「崇峻天皇御書」2024年6月16日

  • 〈研さんのために⑥〉

 青年部拝読御書「崇峻天皇御書」を学ぶ連載の第6回は、第6章を解説する。師弟の絆を確認されるとともに、地獄をも仏国土にしていく確信を示される。

第6章 同じく地獄なるべしの事
御書新版1595ページ11行目~1596ページ1行目
御書全集1173ページ3行目~1173ページ9行目

【御文】

 返す返す今に忘れぬことは、頸切られんとせし時、殿はともして馬の口に付いてなきかなしみ給いしをば、いかなる世にか忘れなん。たとい殿の罪ふかくして地獄に入り給わば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらえさせ給うとも、用いまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし。日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそおわしまさずらめ。暗に月の入るがごとく、湯に水を入るるがごとく、氷に火をたくがごとく、日輪にやみをなぐるがごとくこそ候わんずれ。もしすこしもこのことをたがえさせ給うならば、日蓮うらみさせ給うな。
 この世間の疫病は、とののもうすがごとく、年帰りなば上へあがりぬとおぼえ候ぞ。十羅刹の御計らいか。今しばらく世におわして物を御覧あれかし。

【通解】

 なんといっても今でも忘れられないことは、(竜の口の法難の際)私が頸を斬られようとした時、あなたがお供をしてくださり、馬の口にとりついて泣き悲しまれたことである。このことは、どのような世になっても忘れることはできない。
  
 もし、あなたの罪が深くて地獄に堕ちるようなことがあれば、この日蓮に対して釈尊が「仏になりなさい」と、どんなに導いたとしても、私は従うことはない。あなたと同じく地獄へ入るだろう。日蓮とあなたがともに地獄に入るならば、釈尊も法華経も地獄にこそいらっしゃるに違いない。そうなれば、闇夜に月が出るようなものであり、湯に水を入れ、氷に火をたき、太陽に闇を投げつけるようなもので、地獄即寂光の浄土となるだろう。
  
 もし少しでも、これまで申し上げてきたことに背くなら、どのようなことになっても日蓮を恨んではならない。
  
 今の世間ではやっている疫病は、あなたの言う通り、年が改まれば身分の高い人々にまでも及ぶことだろう。あなたを助けるための十羅刹女の働きだろうか。今しばらくは、この世に生きて、世の中の様子をよく見なさい。
  
  

【解説】

 第5章では、四条金吾の置かれた状況を踏まえた上で、具体的な指導を重ねられた。
  
 第6章で日蓮大聖人は、金吾との師弟の原点を振り返られる。
 別の御書で、「だんなと師とおもいあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし」(新1566・全1151)と金吾に対して言われているように、日蓮仏法の根本は師弟にある。金吾が主君の信頼を取り戻し、勝利を揺るぎないものにするために、師弟不二の実践が不可欠だからこそ、大聖人は師弟の原点を明記されたと拝される。
  
 本抄御執筆の6年前、文永8年(1271年)9月、大聖人が竜の口に連行された際、急を聞きつけた金吾は馬の口に取り付き、大聖人が首を切られるなら、自分も腹を切って死ぬ覚悟で大聖人のお供をした。
  
 この時のことを大聖人は、「このことは、どのような世になっても忘れることはできない」と、金吾を最大にたたえられている。
  
 さらに「もし、あなたの罪が深くて地獄に堕ちるようなことがあれば、この日蓮に対して釈尊が『仏になりなさい』と、どんなに導いたとしても、私は従うことはない。あなたと同じく地獄へ入るだろう」とまで仰せである。
  
 大聖人が命に及ぶ大難を受けられた時に、どこまでも師匠と共にという一心で、金吾は自らも法華経に殉じようとした。文字通り命を懸けて、弟子の道を貫いたといえよう。今度は、弟子の苦境に際して、大聖人が最大の真心で応えられたのだ。
  
 仏法の師弟は、封建的な主従関係とは全く異なる。人間と人間、真心と真心の絆こそが日蓮仏法の師弟なのだ。
  
 当然、妙法への信心を貫けば、地獄に堕ちることなどない。その上で、万が一、地獄に入るようなことがあったとしても、私も共に地獄に入ろう、との限りない慈愛をつづられている。
  
 妙法流布に生きる師弟が共に地獄に行くならば、釈迦仏も法華経も地獄に随順するはずである。そうなれば、そこはもはや地獄ではなく、仏国土となる。
  
 このことを大聖人は、闇夜と月、湯と水、氷と火、太陽と闇の関係に譬えられている。
  
 池田先生は、大聖人が示されたこの地獄即寂光の法理を、その通りに身読したのが、牧口先生と戸田先生の師弟であると教えている。
  
 「牧口先生は、『寒さの絶頂』の獄中で綴られました。
 『心一つで地獄にも楽しみがあります』
 お供した戸田先生は語られました。
 『私は、仮に地獄に堕ちても平気だ。そのときは地獄の衆生を折伏して寂光土とする』
 これが信心の極意です」(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第4巻)
  
 地獄の苦しみの淵にあろうと、師弟不二の精神で困難に挑めば、わが胸中に仏の生命が厳然とあらわれ、いかなる逆境もはねのけることができる。今、この場所を、理想の環境へと必ずや転換することができる。
  
 続いて、師弟の道を貫いてきた金吾に対して、「もしすこしもこのことをたがえさせ給うならば、日蓮うらみさせ給うな」と仰せである。この頃の金吾は、主君の信頼が回復しつつあるものの、周囲の嫉妬が激しさを増す渦中にあった。一瞬の油断から短気を起こしてしまえば、危機的な状況に陥ってしまう金吾に対して、自身の弱さに負けて不二の道から外れることのないよう、大聖人はあえて厳しく戒められたと拝される。
  
 師弟共戦を貫く中にこそ、真の勝利が開かれるのだ。
  
  

【池田先生の指針から】

 勝利への要諦は、どこまでも、法を体現し弘通する師匠の「心」と、わが「心」を合致させることです。
  
 師匠の指導をないがしろにして、揺れ動く自分の心を基準にすれば、険しい仏道修行を成就することはできないからです。
  
 「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」(全1088・新1481)です。「師弟の心」を忘れてしまえば、わが一生成仏はありません。
  
 (『勝利の経典「御書」に学ぶ』第4巻)
  
   

【コラム】「地獄」の捉え方の違い
自身の胸中に寂光の都を築く

 今回の研さん範囲で、大聖人は四条金吾に対し、“あなたが仮に地獄に堕ちるようなことがあれば、一緒に地獄へ入ろう”“日蓮とあなたが地獄へ入るならば、地獄即寂光の浄土となろう”と仰せになっている。これは大切な弟子に対する深いご慈悲であると拝されるが、そもそもこの時代の「地獄」とはどういう概念のものなのか。今回は地獄について考えてみたい。
  
 「悪いことをした人は、死んだら地獄に行く」。多くの人が幼少期から社会通念として自然と身につけてきた考え方だろう。しかし、その根源を探れば、宗教的な教えに基づいていることがわかる。
  
 「地獄」とは「地下の牢獄」を意味し、「奈落」と同義である。語源は古代インドの文語であるサンスクリット(梵語)の「ナラカ」と言われており、日本へは仏教とともに伝わり、漢字に音写したのが「奈落」だとされる。広辞苑には「現世に悪業をなした者がその報いとして死後に長大な苦しみを受ける所」と書かれている。
  
 この地獄観は決して仏教に限ったものではなく、世界各地に存在する。キリスト教では、神に背を向けた不信仰な者が永遠の苦しみを受ける場所とされており、聖書にも繰り返し記されている。イスラム教では、罪人たちは死後、地獄である「ジャハンナム」に投げ込まれ、永遠に苦しむことになる。ジャハンナムは7階層に分かれ、生前に信仰していた宗教によって、どこに落ちていくか区別されるそうだ。ヒンドゥー教では輪廻転生を説くが、悪人はナラカへ落ち、罪に応じた苦しみを受けて生命を浄化し、次の生への準備をするとされる。国や宗教は違えど、「人間が死後に受ける制裁の場所」という点では驚くほど類似していることがわかる。
  
 仏典には八熱地獄、八寒地獄など多くの地獄が説かれている。生命の状態を10種に分類した「十界」においても、「生きていること自体が苦しい」という最低の境涯である「地獄界」が存在する。法華経以外の仏典では、十界とはそれぞれ固定化した境涯として捉えられている。
  
 しかし法華経においては、その考え方を根本的に破り、十界のおのおのの生命に十界が具わり、どのような衆生も正しい縁に応じて仏界を現し、成仏できるという「十界互具」が示される。つまり「生きていること自体が苦しい」という地獄界の状態でも、法華経によって仏界を現じ、今世のうちに幸せになることが可能なのだ。
  
 日蓮大聖人は、「浄土というも、地獄というも、外には候わず。ただ我らがむねの間にあり。これをさとるを仏という。これにまようを凡夫と云う。これをさとるは法華経なり。もししからば、法華経をたもちたてまつるものは、地獄即寂光とさとり候ぞ」(新1832・全1504)と述べられている。大聖人の仏法において「地獄」とは、ただ単に、死後に罰を受ける場所ではない。自身の中にこそあり、その自身の生命はダイナミックに変革する可能性を秘めているのだ。地獄の捉え方が根本的に異なることがわかる。
  
 かつて池田先生は、「いかなる地獄の苦しみの淵にあろうと、わが胸に仏の命を厳然と顕現していける。今いる現実のこの場所で、妙法を唱え抜き、断じて寂光の都を築いていくのだ。絶対に誰人たりとも、自他共に永遠に崩れざる幸福の境涯を開いていけるのだ。そのための信心である」(『随筆 対話の大道』)とつづった。
  
 どのような状況であろうと、この信心と自身の一念ですべてを開いていける。この“希望の哲学”が、言語や文化の違いを超え、創価学会が世界に広がり続けている一つの要因であろう。我々もまた、いついかなる時も自身の生命を輝かせ、今いる場所をより良い場所へと照らしていきたい。
  
 (男子部教学室 米光久)