〈大慈悲の心音 門下への便り〉 南条時光③2024年6月16日

 文永11年(1274年)の日蓮大聖人の身延入山以来、弟子たちにも迫害の手が連続して及ぶようになりました。そしてついに、弘安2年(1279年)を頂点に、駿河国の熱原郷(静岡県富士市厚原とその周辺)で「熱原の法難」が起こったのです。
 当時、駿河国の富士方面における日興上人の折伏・弘教によって、天台宗などの僧侶や信徒のみならず、農民らが次々と大聖人に帰依していました。民衆の覚醒に恐れを抱いた滝泉寺の院主代(住職代理)の行智らは、大聖人に帰依した人々への圧迫を強めていきます。また、幕府の侍所の所司(次官)として軍事・警察を担当する平左衛門尉頼綱が、日蓮門下へのにらみをきかせていたのです。
 策謀を巡らせた行智は、日蓮門下が「農作物を刈り取って奪った」との虚偽の罪状で訴えます(新883・全852、趣意)。熱原の農民門下20人は不当に捕らえられ、行智と結託していた頼綱から激しい尋問を受けましたが、誰一人として信心は微動だにしませんでした。
 最終的に、3人の農民門下が斬首に処され、残る17人は追放処分となりました。入信間もない門下の決死の闘争は、信仰の真髄が信心歴とは関係ないことを物語っています。
 法難の渦中、門下を守ろうと力を尽くしたのが南条時光でした。その奮闘をねぎらい、大聖人は「上野賢人」とたたえられたのです。

妙法流布に生き抜く覚悟に奮い立つ

御文

 願わくは、我が弟子等、大願をおこせ。(中略)とにかくに死は一定なり。その時のなげきはとうじのごとし。おなじくは、かりにも法華経のゆえに命をすてよ。つゆを大海にあつらえ、ちりを大地にうずむとおもえ。(上野殿御返事〈竜門御書〉、新1895・全1561)

通解

 願わくは、わが弟子らは、大願を起こしなさい。(中略)ともかくも死は避けることができない。その時の嘆きは、現在の嘆きと変わらない。同じく死ぬのであれば、かりにも法華経のために命を捨てなさい。露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものと思いなさい。

 ◇ ◇ ◇

 「死は一定」とあるように、当時は疫病の流行や蒙古襲来等によって、誰にとっても死が眼前に迫る世相でした。同じく死を迎えるならば、限りある自身の生命を何のために使うのか――。
 日蓮大聖人は、障魔と敢然と戦う若き南条時光に、広宣流布の大願に立ち、魔との命懸けの闘争を貫いてこそ、仏の大境涯に連なることができると教えられたのです。“断じて妙法流布に生き抜け!”との覚悟を促された師の厳愛の叫びに、時光は心の底から奮い立ったことでしょう。
 また、弘安3年(1280年)7月、大聖人は時光に「しばらく苦しみが続いたとしても、最後には、必ず楽しい境涯になるのである」(新1901・全1565、趣意)と励ましを送っています。
 後に、弟・五郎が急死するなど、時光の前途は試練の連続でした。大聖人の万感の言葉が、どれほど勇気の源泉になったか計り知れません。広布への決定した一念で師と共に進む時、幾多の苦難を越える力がみなぎるのです。

師への最大の献身が成仏の道に

御文

 わずかの小郷におおくの公事せめあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし。(上野殿御返事〈須達長者御書〉、新1919・全1575)

通解

 わずかな所領なのに、多くの公事(=年貢以外の雑税や夫役など)を課せられて、自身は乗る馬もなく、妻子は身につける着物もない。

 ◇ ◇ ◇

 熱原の法難の折、大聖人門下の外護に心血を注いだ時光は、幕府から目をつけられ、さまざまな点で弾圧を受けるようになりました。
 弘安3年(1280年)12月のこのお手紙では、不当な負担を強いられたために、それほど豊かではなかった南条家の財政が、破綻にひんしていたことがうかがえます。
 しかし、師匠の薫陶を受けてきた時光の信心が揺らぐことはありませんでした。むしろ、窮乏生活の中で家計を削り、鵝目一貫文(銭1000枚相当)を大聖人に御供養したのです。
 苦境の渦中に、時光がお届けした赤誠の御供養は、自身が成しうる最大限の献身でした。大聖人は、その行動自体が、すでに成仏の道を歩んでいることになると教えられているのです。
 自身が最も大変な時に、師に思いをはせる弟子と、それ以上に弟子を思い続ける師。この師弟が織り成すドラマに連なり、私たちも今こそ師への誓いを果たす時と定め、広布の大道を歩んでいきましょう!