〈小説『人間革命』起稿60周年――生命の刻印 間断なきペンの闘争〉第6回 桂冠詩人は詠う2024年6月14日

  • 子よ大樹と 仰ぎ見む

友へのメッセージ

 池田先生がこれまでに詠んできた詩は、世界の指導者・識者への献詩、全国・全世界の同志への詩など、約600編に及ぶ。
 多忙なスケジュールの合間を縫って、時には口述筆記の形で、ペンの闘争は続いた。
 なぜ、これほど多くの詩を詠むことができたのか――その問いに、先生は答えている。
 「特別なことは何もありません。その人をなんとか励ましてあげたい。前向きに力強く生きてほしい、という思いです。その思いで贈り続けてきた結果です」
 1969年から翌70年にかけて学会批判の嵐が吹き荒れた。「言論・出版問題」である。
 多くの評論家は、学会の「衰退」を予測した。しかし、先生は未来を見据え、21世紀を担う若人たちに励ましを送り続ける。この70年の12月5日に詠んだ詩が「青年の譜」である。
 「われには われのみの使命がある/君にも/君でなければ 出来ない使命がある」
 詩は翌6日の男子部総会で発表された。全国の青年たちの心に刻まれていく。
 経済苦で学校に行けず、文字の読み書きも十分にできなかったある男子部員は、御書や聖教新聞を書き写しながら、読み書きを覚えた。「青年の譜」もそうだった。
 また、ポリオ(小児まひ)の後遺症がある女子部員は、「青年の譜」の一節を胸に、自身の宿命転換に挑戦し、青春勝利のドラマを演じた。
 この詩は長年にわたり、会の内外を問わず、感動の輪を広げた。インドの詩人クリシュナ・スリニバス博士もその一人である。
 79年7月、初めて先生と対談した博士は語った。
 「詩には常に呼びかけるもの(メッセージ)がなければなりません。また永遠性がなければなりません」「詩は境涯です。偉大な詩は、偉大な人間からしか生まれません!」
 博士は「世界芸術文化アカデミー」の事務総長を務めていた。81年7月、同アカデミーは先生に、世界最高峰の詩人に贈られる「桂冠詩人」称号の授与を決定。「傑出せる詩作」とたたえた。
 先生は述懐している。
 「いただいた『桂冠詩人』の称号も、私の胸には『詩歌で人の心を癒やせ』『詩によって友に〈生きる力〉を与えよ』との天啓のごとく鳴り響いた」
 この頃、第1次宗門事件の嵐が続き、同志の心には暗雲が立ちこめていた。

1979年7月13日、池田先生はインドの詩人・スリニバス博士と対談(神奈川文化会館で)

1979年7月13日、池田先生はインドの詩人・スリニバス博士と対談(神奈川文化会館で)

“反転攻勢”の凱歌

 「桂冠詩人」称号の授与が決定した後、池田先生が初めて作詞した学会歌は、「紅の歌」である。
 「『先生』と呼ぶな」「師弟を語るな」「指導を載せるな」――1979年4月、先生の第3代会長辞任以降、宗門の悪僧と退転・反逆者らは、創価の師弟を分断しようと謀略を巡らせた。
 しかし、どのような迫害に遭おうとも、先生はあらゆる知恵を尽くして、友の心を鼓舞していく。
 81年11月10日、先生は「香川の日」記念幹部会に出席すると、師子吼を放った。
 「もう一度、私が指揮を執らせていただきます!」
 本格的な反転攻勢の開始である。師の宣言にいち早く呼応した四国青年部は、自分たちの心意気を込めた歌を制作し、12日夜、先生との懇談会に臨んだ。
 先生は「黎明の歌」と名付けられた歌詞を丹念に見ながら、「少し直してもいいかな」と、皆の了承を得て手直しをした。
 「1行目が勝負だよ。太陽が、ぱっと広がるような出だしでなくてはいけない」
 「もう太陽が昇ったんだから黎明ではない」「『紅』だ」
 青年と対話を重ねながら、歌詞に“師弟の魂”が込められていく。歌詞の二番「子よ大樹と 仰ぎ見む」では、“みんなが大きくなるのを私が下から仰ぎ見るという意味なんだよ”と語った。
 師匠と弟子の真剣勝負の推敲は二十数回にも及んだ。歌が完成したのは14日。翌日、四国指導を終えた先生は、出発間際の高松空港で語った。「四国の皆さんには、とりわけ三番の歌詞が重要です」
 2005年4月15日、その三番の歌詞「老いたる母の 築きたる 広布の城をいざ 護り抜け」に、「父」を加えて、「老いたる父母」と生まれ変わった。
 先生は、「二十一世紀を担う青年に、広布後継の魂を伝え抜くためには、偉大な『父』への敬意も込めたかった」と記している。
 くしくも翌16日には、八王子の東京牧口記念会館で、四国の友が集い、記念大会を開催することになっていた。
 大会の席上、全国に先立って、「紅の歌」に加筆されたことが発表された。
 先生はメッセージを寄せ、「四国の父母の築いた広布の城を護りゆく、後継の四国青年部の成長も、まことに頼もしい」とたたえた。友の歓喜の声が会場にあふれた。
 さらに「紅の歌」誕生から35周年を刻んだ2016年10月、四国青年部は“永遠に師匠と共に!”との誓いを込めて、二番の「父の滸集いし」を「師の滸集いし」として歌いたいと先生に願い出た。
 先生は「同じ意義だから」と、熱き青年の志に真心で応え、歌詞に新たな命が吹き込まれた。

「紅の歌」の歌詞を推敲する池田先生(1981年11月、香川・高松市で)

「紅の歌」の歌詞を推敲する池田先生(1981年11月、香川・高松市で)

私は君達を信ずる!

 「『なぜ山に登るのか』『そこに山があるからだ』と、かつて、ある著名な登山家は言った……」
 大分平和会館の管理者室で、池田先生の口述が始まった。一言も漏らすまいと、青年たちが必死に書き取っていく。
 先生が「桂冠詩人」として、初めて詠んだ長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」――その誕生の瞬間である。
 「紅の歌」誕生から1カ月後の1981年12月8日、先生は激励の舞台を大分へ移した。
 「青年の年」と定められたこの年は、男女青年部の結成、さらに恩師の「青年訓」発表から30周年の節目。青年たちは新しい「正義の詩」を掲げ、21世紀への師弟の前進を開始したいと考えていた。
 10日朝、先生は青年部のリーダーらと懇談。夜に行われる大分県青年部幹部会で、新たな決意を込めた“正義の詩”の発表を、と願っていることを聞くと語った。
 「よし、ぼくが作って贈ろう!」
 “未来を託す青年に新たな指標を”と、口述は続けられた。さらに、青年部幹部会の開始時刻になっても、推敲は続いた。清書が間に合わず、朱色に染まった原稿が読み上げられることになった。詩は「全て君達に託したい」との一節で締め括られていた。
 会合終了は午後8時を過ぎていた。一分一秒を争う中で、長編詩は翌日の本紙3面に全文が掲載された。改行は最低限で、体裁も整えられていない。だが、「青年が待っている。苦労し抜いてきた友に応えたい」との、師の魂がほとばしっていた。
 目標登攀の日と詠われた「二○○一年五月三日」を約2年後に控えた1999年3月22日、先生は“新たな21世紀の指標”としてこの詩に筆を入れ、青年たちに贈った。当時の真情を記している。
 「新しき勝利の歴史を開くのは、青年しかいない。『先駆』こそ、青年の誉れの使命である。『先駆』とは、燃えたぎる真剣と情熱の心である」
 先生は長編詩で詠んだ。
 「私は 君達を信ずる!/君達に期待する!/それしか広宣流布はできないからだ!」

大分県青年部幹部会の席上、長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」が発表された(1981年12月10日、大分平和会館で)

大分県青年部幹部会の席上、長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」が発表された(1981年12月10日、大分平和会館で)

青年の譜(「池田大作全集」第39巻所収、抜粋)

 天空に雲ありて
 風吹けど
 太陽は 今日も昇る
 午前八時の青年の太陽は
 無限の迫力を秘めて
 滲透しつつ 正確に進む
  
 己れの厳しき軌道を はずさずに
 天座のかなた 蒼穹狭しと
 王者赫々と
 太陽は ただ黙然と進む
  ◇◆◇
 幕は落ちた 第二の十年
 線上より 広く面上にうつり
 高く聳えゆく
 二十一世紀の結実の文化の作業をするのだ
 それは 君達の踏む檜舞台!
 誇り高き 初登場だ!