創価学会代表訪中団リポート㊤ 北京・天津編2024年6月9日

  • 池田先生の初訪中50年 次の50年へ信義のバトンは青年に

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 池田先生の初訪中50周年を記念する創価学会代表訪中団が5月26日から6月2日まで、中国人民対外友好協会、中日友好協会の招きで北京、天津、ウルムチ、トルファン、深圳を訪れ、各地で多彩な交流を行った。その模様を上下2回に分けてリポートする。(記事=濵﨑正、写真=宮田孝一)

より強く長く輝く友好の「金の橋」を

 「池田先生の初訪中50周年の節目に、創価学会が若者中心の訪中団を送られたことは、特別な意義を持っています」
 
 中国人民対外友好協会の楊万明会長は強調した。
 
 5月26日午前11時半(現地時間)、好天の北京首都国際空港に着いた創価学会代表訪中団は、その足で同日午後、盧溝橋近くの中国人民抗日戦争記念館へ。献花、黙とうした後、総団長の原田会長らが対外友好協会を表敬した。その席での、楊会長の発言である。
 
 今回の約100人の訪中団は青年が中心。
 
 振り返れば50年前の初訪中も、団員の平均年齢は35歳。団長の池田先生自身も46歳の若さだった。1974年5月30日、香港から深圳へ、第一歩を踏みしめながら、先生の胸には二つの思いが去来していた。
 
 アジアの民に幸福の光を送りたいと熱願した戸田城聖先生の弟子として、その道を継ぎ、広げゆく決意。そして、松村謙三氏をはじめ、日中友好の扉を開き、池田先生に後事を託した先人たちへの誓いである。
 
 会見で楊会長は重ねて語った。「『水を飲む時、井戸を掘った人を忘れてはならない』と言いますが、今日の中日友好は数多くの先人の心血と智慧によって実現したものです」
 
 「池田先生は国交正常化の実現、平和友好条約の深化に大きな貢献をなされた。先生は亡くなられましたが、その精神は私たちの心に息づいています。中日友好の発展、正常化への貢献を、中国は決して忘れることはありません」
 
 「(訪中した青年が)友好の使命を受け継ぎ、未来へ奮闘されることを祈ります。先生の築かれた『金の橋』がより強固に、永続し、輝かしいものになることを念願します」
 
 こうして、50年の歴史を継ぎ、次の50年を開く8日間の旅は始まった。

周総理と桜花の縁

若き周恩来総理の像が向学の志高き後輩たちを見守る(同27日、天津の南開中学で)

若き周恩来総理の像が向学の志高き後輩たちを見守る(同27日、天津の南開中学で)

 訪中団は27日朝、天津へ向かった。北京からは高速鉄道でわずか40分。中国北方最大の貿易港で、旧租界の歴史的建築群が旅情を醸す。だが何より、学会の日中交流史においては周恩来総理ゆかりの町として、格別の縁が刻まれる。
 
 50年前の74年12月5日に池田先生と一期一会の出会いを結んだ周恩来総理。その総理が日本留学の前後に学んだ町が天津だった。
 
 天津迎賓館で原田会長ら団の首脳を迎えた張玲副市長も、天津と日本との深いつながりを語り、「中国で日本とは初となる友好都市関係を神戸市と結んだのも、周総理の引き合いで実現できたものです」と紹介。「創価学会の力で、若者同士の交流を活発にしていただきたい」と期待を述べた。
 
 訪中団が天津で訪ねたのは、午前に周恩来鄧穎超記念館、午後には、総理が日本にたつ前に学んだ南開中学と、帰国後に入学した南開大学。いずれも、これまで創価学会、創価大学・学園と交流を重ねてきた。
 
 記念館で訪中団は、敷地内に立つ3本の桜を、今回の天津訪問の「記念樹」とする銘板の除幕式に臨んだ。
 
 プレートには2024年5月27日の日付と共に「賡続友好 面向未来(友好を続けよう、未来に向かって)」と刻まれている。

周恩来鄧穎超記念館には、北京にあった周総理夫妻の自宅「西花庁」がそのまま再現されている(同27日、天津で)

周恩来鄧穎超記念館には、北京にあった周総理夫妻の自宅「西花庁」がそのまま再現されている(同27日、天津で)

 桜は、周総理夫妻と池田先生の友情の象徴だった。
 
 50年前の会見で、桜の咲く頃に日本をたった思い出と、再び訪れたい願望を語った周総理。だが、がんに全身を侵されていた総理は「実現は無理でしょう」と言わざるを得なかった。
 
 その思いを汲んだ池田先生の提案で、創価大学に迎えた6人の留学生らの手で、1975年秋、「周桜」が植えられた。
 
 79年4月、来日した鄧穎超夫人との会見の席に先生は、一冊のアルバムを持参した。「周桜」と、創大に新たに植えた2本の桜――「周夫婦桜」の写真である。
 
 夫妻が長年暮らした北京・中南海の西花庁には以前、2本の桜があったが、1本が枯れてしまった。「2本の桜のもとで、一緒に写真を撮り残さなかったことが心残りです」と、先生は鄧夫人から聞いていたのである。
 
 先生と夫人の出会いは8度。西花庁には80年と90年の2度訪れている。天津の記念館には、その西花庁が建物の大きさや内装、庭の木々に至るまで、そのままに再現されている。
 
 訪中団が建物に入ると、壁の一角に、総理夫妻の絵が掲げられていた。中国の建国40周年を記念して、池田先生が89年の秋に贈った等身大の肖像画である。
 
 最後となった90年の会見でも、この絵が語らいを見守った。夫人は池田先生に会うために、わざわざ入院先から戻っていた。
 
 「私は、この部屋で、外国の友人を迎えるたびに、この絵を見せて、周総理の思い出や、総理と池田先生との友情のことを紹介しています。私の一生のなかでも、こんなに素晴らしい贈り物はありません」
 
 そして別れ際、「私は、生前の総理の池田先生への心情をよく知っておりますので」と、総理愛用のペーパーナイフと夫人愛用の筆立てを先生に贈った。
 
 入院中の総理が池田先生との会見を強く望んだ時、反対する医師団を「恩来同志が、そこまで会いたいと願うのなら、言う通りにしてあげてください」と諭したのが鄧夫人であった。
 
 今回の滞在中、団員は各地で、友情の証しに「桜花縁」を歌った。先生が鄧夫人に贈った詩に、曲をつけた歌である。
 
 〽我も称えん 心の庭に友誼の桜は永遠なりと――
 
 桜と共に、友情を未来につなぎゆく誓いを、団員は天津の地でかみしめた。

友情半世紀の重み

北京大学の郝平党委書記との語らい。青年・学生交流への期待を共有した(同28日、同大学の臨湖軒で)

北京大学の郝平党委書記との語らい。青年・学生交流への期待を共有した(同28日、同大学の臨湖軒で)

 天津訪問を終えた訪中団を待っていたのは、さらに濃密な北京での1日だった。28日午前、名門・北京大学を訪問した。池田先生は7度訪れ、3度の学術講演。先生に中国初の名誉教授を贈った大学である。
 
 50年前の初訪中でも先生は同大学を訪ね、5000冊の図書の贈呈を約束している。
 
 その図書が届いたので式典に招待したいと北京大学から連絡があり、赴いたのが74年12月の2度目の訪中。そこで周総理との出会いが実現した。
 
 北京大学を初めて訪れた際、先生が大学の首脳と会見したのは、臨湖軒という、前身の燕京大学時代からある由緒ある建物。未明湖のほとりにあるので、その名が付いたという。
 
 28日午前、郝平大学党委書記が原田会長ら団の首脳を迎えたのも、この臨湖軒。湖を渡る風はさわやかで、鳥のさえずりが聞こえる。50年の友好史を振り返りつつ、郝党委書記は「北京大学を永遠のパートナーと位置付けていただき、これからも末永い交流を続けていきたい」と語った。
 
 続いて同大学で行われた中日友好青年交流会では、創大に最初に学んだ6人の留学生の一人で、駐日中国大使を務めた程永華氏(中日友好協会常務副会長)が基調講演。〈6月5日付2面に詳報〉

中国人民政治協商会議の朱永新副主席と訪中団が会見。原田会長をはじめ、多くの青年を含む40人の団員で臨んだ(5月28日、北京の釣魚台国賓館で)

中国人民政治協商会議の朱永新副主席と訪中団が会見。原田会長をはじめ、多くの青年を含む40人の団員で臨んだ(5月28日、北京の釣魚台国賓館で)

 午後には、中国人民政治協商会議の朱永新副主席と原田会長ら代表の会見が、釣魚台国賓館で行われた。
 
 「池田先生が中日に金の橋を架けられたことに感謝します。先生は両国に友好の橋を架け、盤石にするために心血を注いでこられた。この金の橋を受け継ぎ、より強固になるよう大事に繕うことが、両国の人民に幸福をもたらします」
 
 会見では、民間交流の大きな流れをつくることこそ、政治経済という船を動かす道との点で一致した。
 
 出席した団員は40人。会長ら団首脳のほかに、多くの青年団員が含まれていた。内容もさることながら、この事実自体が、訪中団の意義を物語っていた。
 
 北京最後の夜を飾ったのは、学会の主催による答礼宴である。
 
 池田先生と対談集を編んだ王蒙元文化部長、程永華元駐日中国大使、74年に深圳で池田先生を迎えた中日友好協会の殷蓮玉理事、周秉徳氏をはじめ周総理の親族の方々、北京大学に中国初の池田思想の研究会を立ち上げた賈蕙萱氏――半世紀の友好史を彩る来賓が顔をそろえた。
 
 そのもとに青年団員が次々と駆け寄り、歓談と記念撮影の輪ができる。50年の歴史と未来が交錯する麗しい光景が広がった。

晴れにも雨にも

池田先生が訪中の第一歩を記した深圳。半世紀前は小さな漁村だったこの地は、中国をリードする企業が立ち並ぶ人口2100万の大都市に(6月2日)

池田先生が訪中の第一歩を記した深圳。半世紀前は小さな漁村だったこの地は、中国をリードする企業が立ち並ぶ人口2100万の大都市に(6月2日)

 新疆ウイグル自治区のウルムチ、トルファンを巡った訪中団は6月2日午前、先生の訪中第一歩の地・深圳の屋外で解団式を行った。深圳は雨続きで、1日には台風も広東省に上陸したというのに、この時ばかりは、不思議にも空が涙をこらえてくれた。
 
 「晴れの日も 雨にもかわらぬ 友誼かな」
 
 50年前の旅の最後、池田先生は色紙にしたためて中日友好協会の友に贈った。その言葉のままに、大局観に立ち、勇気をもって、両国関係が困難な季節にも友好を訴え、行動し、信義の道を貫いてきた。
 
 これからも日中関係は晴れの日ばかりではないだろう。一衣帯水の隣国だが、その水が波立つこともあるかもしれない。その時、先人の築いた原点に返り、友情を貫いていけるか。
 
 次の50年への平和のバトンは、池田門下の青年の手に託された。