おはようございます。部屋の温度は20℃。青年が立ち上がれば世界は変わる。戦争のない世界を実現するためにも、勇気を出して平和へのスクラムを創るとき。あきらめとの戦い。今日もお元気で!

 

〈1974―2024 人類の宿命転換への挑戦〉 沖縄から始まった「反戦出版」2024年6月8日

1974年2月、沖縄・名護会館(当時)の完成を祝う郷土芸能文化祭「山原祭(やんばるまつり)」に出席した池田先生。その後、先生は出演した未来部の友らに、“高校生、中学生の諸君が、戦争を体験した方々がお元気なうちに話を聞いて、その証言を立派な本にして後世に残してはどうだろうか”と提案。未来部の友の聞き取りがまとめられ、76年6月23日、『血に染まるかりゆしの海』が発刊された

1974年2月、沖縄・名護会館(当時)の完成を祝う郷土芸能文化祭「山原祭(やんばるまつり)」に出席した池田先生。その後、先生は出演した未来部の友らに、“高校生、中学生の諸君が、戦争を体験した方々がお元気なうちに話を聞いて、その証言を立派な本にして後世に残してはどうだろうか”と提案。未来部の友の聞き取りがまとめられ、76年6月23日、『血に染まるかりゆしの海』が発刊された

 
 1974年、冷戦はデタント(緊張緩和)を迎えていた。ベトナム戦争期にアメリカとソ連がともに軍備拡張を進めたことで経済が圧迫され、対立の激化を避けようとする機運が生まれたためだ。米ソ間での核軍拡競争の勢いは一時的に低下に向かったものの、“恐怖の均衡”による平和の維持が、いかに危うく脆いものか。50年前の池田大作先生の思いと、それに呼応した青年部の平和運動に迫る。
 

誰にも侵されてはならない権利

 50年前の1974年、青年部が取り組んだ二つの平和運動が、社会で大きなうねりを起こしていた。一つは「反戦出版活動」、もう一つは「核廃絶一千万署名」である。
 
 その淵源は、いずれも池田先生の第35回本部総会(72年11月2日)でのスピーチにある。「世界のあらゆる国の民衆が、生きる権利をもっている。それは、人間として、誰にも侵されてはならない権利である。その生存の権利に目覚めた民衆の運動が、今ほど必要な時はないのであります。私は、その運動を青年部に期待したい」
 
 「人類の生存の権利を守る運動」を師から託され、青年部は立ち上がった。
 
 戦争の記憶を断じて風化させてはならない。戦争の真実を克明に記録し、伝え残していかねばならない――73年以降、青年部が全国各地で戦争体験者や被爆者への聞き取りを開始した。集まった証言は、シリーズ「戦争を知らない世代へ」として順次、出版。全国に先駆け、第1号として発刊されたのは、沖縄編『打ち砕かれしうるま島』だった。
 
 当時、沖縄で反戦出版の副責任者を務めていた桃原正義さん(沖縄総県総主事)は、次のように語る。
 
 「『鉄の暴風』ともいわれる、凄惨な沖縄戦です。経験した方々を訪ね、『当時の様子を教えてください』とお願いするのは、心苦しいことでした。しかし、先生の『生命尊厳の思想』を根本に、後世のためにも、戦争の実像を伝え、『平和の精神』を広げさせてください。そうお伝えしながら、一つ一つ、証言の聞き取りを行いました」
 

創価学会は平和反戦の集団なり

 証言の数々は73年8月から本紙の沖縄版で掲載された。その内容などをまとめ、74年6月23日、沖縄「慰霊の日」に出版されたのが『打ち砕かれしうるま島』である。
 
 池田先生は、青年部が“自発能動”の心で動き、「平和の心」を次代に伝えようと励む様子を誰よりも喜んだ。そして反戦出版の「沖縄編」の発刊に当たって、完成したばかりの同書に、こう記した。
 
 「創価学会は/平和反戦の/集団なり/此の書その証なり」「平和の 点火/いまここに燃ゆ/君よ この松明を/生涯にわたって/持ち進め走れ」
 
 その後、沖縄では79年6月23日までに、計5冊の戦争証言集を出版した。76年に発刊された第3集『血に染まるかりゆしの海』は、先生の提案を受けて、未来部のメンバーが聞き取りを行い、出来上がったものである。
 

沖縄の青年部と婦人部(当時)が編さんした反戦出版物。これらに加えて2020年、沖縄未来部員が戦争体験の聞き取りをしてまとめた証言集『私がつなぐ沖縄のククル(心)』が発刊された

沖縄の青年部と婦人部(当時)が編さんした反戦出版物。これらに加えて2020年、沖縄未来部員が戦争体験の聞き取りをしてまとめた証言集『私がつなぐ沖縄のククル(心)』が発刊された

 
 第1集が発刊される4カ月前(74年2月)。先生は本土復帰後、初めて沖縄を訪問し、名護会館(当時)で未来部員を激励。その際、戦争体験の聞き取りを提案している。
 
 「お父さんやお母さんのためにも、戦争反対のためにも、事実の記録を、今から少しずつ聞いてまとめてみてはどうか」「(記録は)残っているようで断片的ですね。また(記憶は)変形されてくる。生き証人もあと十年経つとわからなくなる。忘れてしまう。だから今やりましょう」
 
 桃原さんは振り返る。
 「先生が、あえて未来部を聞き手にされた深意には、“平和の松明を継ぐのは君たちなんだ”という期待があったように思えてなりません。反戦出版をはじめ、あらゆる平和運動は、次代につなげてこそ真に価値あるものになると、先生は私たちに教えてくださったのだと思うのです」
 

戦争の記憶を風化させない

 本土復帰前の沖縄はアメリカの施政権下に置かれ、ピーク時は1300発にも及ぶ核兵器があったといわれる。後に分かることだが、那覇の近くで核弾頭を搭載したミサイルが誤って発射される事故もあり、沖縄の人々は常に被爆の危機と隣り合わせだった。
 
 桃原さんは語る。
 「沖縄は『戦後』にあっても、いまだ“戦争のただ中”にありました。小説『人間革命』の『戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた』との言葉は、この頃、私たちが肌身で実感していた思いでした。先生は本土復帰前の沖縄の地に立たれ、『ひめゆりの塔』『沖縄師範健児之塔』では朗々と題目を唱え、不戦の誓いを立てられました。『人間革命』の執筆を沖縄で開始してくださった先生の心には“悲惨を味わい、慟哭に沈んだ沖縄の大地から、平和を、人類の宿命転換を、必ず成し遂げる”という、誓願があったのではないでしょうか」
 
 反戦出版の運動は、その後、全国に広がり、「戦争を知らない世代へ」シリーズ(80巻)は74年から約11年かけて刊行された。婦人部編(全20巻)やジュニア版などの関連本を含めると、総計100冊を超え、証言者は約4000人に上った。戦争の実像を、被害者だけでなく、遺族や加害者など、あらゆる視点から捉え、今日に伝えている。さらに、この反戦出版活動は、76年の「反戦反核展」へと発展し、現在、日本はもとより世界各地で行われている平和展示活動の源流となっている。
 

戦争体験の証言などを集めた反戦出版シリーズ

戦争体験の証言などを集めた反戦出版シリーズ

 
 先生と対談を重ねた、米ジョン・デューイ協会元会長のジム・ガリソン博士〈注1〉は、軍人の父を持ち、沖縄に暮らした経験がある。2022年10月に沖縄を訪れた際、ひめゆり平和祈念資料館や学会の沖縄研修道場を見学した後、戦争の記憶を風化させないために大切なこととして、青年部の代表に、こう語った。
 
 「歴史を学ぶことは重要である一方で、戦争を美化した歴史を学ぶことに意味はありません。本日私が見たように、戦争体験者の苦しみの視点から残された記録を学ぶことが重要です」
 
 「私の父は、太平洋戦争や朝鮮戦争で功績をあげた軍人でしたが、そのことを決して話そうとしませんでした。心的外傷に苦しみ、毎晩、酒を飲み、若くして亡くなりました。私が反戦を誓った原点です。戦争体験者にとって、語るのは容易ではありません。だからこそ、歴史を継承する創価学会の取り組みは素晴らしいと思うのです」
 

米ジョン・デューイ協会会長(当時)のジム・ガリソン博士と和やかに語り合う池田先生(2008年8月、長野研修道場で)

米ジョン・デューイ協会会長(当時)のジム・ガリソン博士と和やかに語り合う池田先生(2008年8月、長野研修道場で)

 
 もう一つの青年部の取り組みである、核廃絶署名が始まったのは、1973年の夏のこと。当時、青年部で平和運動を進める中心者の一人だった村井康一さん(東京・品川総区総主事)は述懐する。
 
 「この時期、『仏法を社会に開く流れ』を、先生が本格的につくってくださいました。それは換言すれば、広宣流布が進んで、日本・世界が具体的にどう変わっていくかを社会に示す戦いでもあったのではないかと思います。その一つの指標として、先生はソ連のコスイギン首相との会見(74年9月)で、平和・文化・教育に貢献しゆく潮流を示してくださいました。この三つの潮流を、具体的実践として結実させていく。それが、いつの時代にあっても、青年部が率先して果たすべき使命であると、先生は教えてくださったのです」
 
 広島や長崎から始まった署名運動は全国に広がり、およそ1年を経て、学会本部のある東京・信濃町に集められた。
 
 74年9月8日、第2代会長・戸田城聖先生の「原水爆禁止宣言」17周年を迎えたその日に、宣言の地である神奈川・横浜で「反戦平和集会」が開かれ、そこで「一千万署名」を達成したことが正式に発表された。
 
 村井さんは、当時の心境を語る。「一千万署名ができたことで、大きな達成感がありました。ですが、同時に、『この集まった署名簿をどうすればよいか』と悩んでいました。そこへ先生が、『弟子のやってきたことに、画竜に点睛を入れてあげたい。それが師匠の戦いである。署名簿の一部だけでも、私が直接、国連に届けてあげたい』と、おっしゃってくださいました。署名達成の4カ月後(75年1月)、先生はアメリカの国連本部を訪れ、当時の事務総長と会談し、その場で届けてくださったのです」
 

無力感と戦い 一歩を踏み出す

 戸田先生は「原水爆禁止宣言」で、核兵器は世界の民衆の生存の権利を脅かすものであり、その使用を絶対に許してはならないと訴えた。そして、この「思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命である」と強調している。この恩師の叫びを、池田先生は「わが誓い」として受け継ぎ、対話を通じて世界に広げてきた。
 
 その池田先生の行動に呼応して、青年部も核兵器の脅威と非人道性を訴える活動を続けてきた。「原水爆禁止宣言」40周年の97年には、核時代平和財団などが進める「アボリション2000」に賛同し、3カ月間で1300万もの核廃絶の署名を集めている。
 

青年部が中心となって核廃絶を目指す国際キャンペーン「アボリション2000」を支援し、1300万人の署名を国連本部に提出した

青年部が中心となって核廃絶を目指す国際キャンペーン「アボリション2000」を支援し、1300万人の署名を国連本部に提出した

 
 この青年部の取り組みに対し、核時代平和財団のデイビッド・クリーガー博士〈注2〉は述べた。「青年たちは、自分の時間とエネルギーを割いて、人類の直面する重大な問題を直視して、署名運動に取り組まれました。運動を続けるなかでは、人々に拒絶されたり、嘲笑されることも少なくなかったと思います。しかし、それを乗り越えて、署名を一つずつ集めてくださった」
 
 その博士の言葉を受けて、池田先生が語ったのが、次の言葉だった。
 「核廃絶は、かなりの困難がともなう作業ですが、絶対に不可能なものではない。立ち上がる人が一人でもふえれば、核廃絶への道は確実に広がっていくのです。そのためには、『自分には何もできないのではないか』という無力感と戦い、行動の第一歩を踏み出す『勇気』を必要とします。厳しい現実に真正面から立ち向かう『勇気』こそ、私たち世界市民が『武器』として持たなければならないものです。『勇気』とは人から人へと確実に伝わるものです。青年が正義の声をあげれば、世界は必ずや良い方向へと向かっていくはずです」
 
 ここで池田先生が言われた「勇気」――それこそが、74年の時も、97年の時も、変わることなく青年部に脈打っているものだった。
 

広島では青年部が企画・運営し、各界の識者を招いて、平和の心を発信する「広島学講座」を開催している

広島では青年部が企画・運営し、各界の識者を招いて、平和の心を発信する「広島学講座」を開催している

 
 現在も、その「戦争のない世界」「核兵器のない世界」を目指す青年部の挑戦はやむことはない。本年3月の「未来アクションフェス」で、「青年意識調査」の結果が発表された。これは、昨年11月20日から本年2月29日まで、日本在住の青年世代を対象にネットや対面でのアンケート調査の形式で行われ、11万9925人が回答したもの。
 
 参画したSGIユースの西方・大串の両共同代表は、次のコメントを発表した。
 「未来に希望を持てない人の方が多く、若い世代ほど『平和な世界を実現できない』と思っている傾向がある――この調査結果を悲観的・固定的に捉えて、諦めてしまうのか。それとも、ここに『社会と世界の“伸びしろ”があり、限りない“変革の可能性”がある』と捉えて、具体的な行動を起こすのか。同調査において、社会に『貢献したいと思う』『どちらかと言えばしたいと思う』との回答が93%を占めたことを踏まえ、この青年の思いを具体的な行動へと結び付けられるかどうかが“鍵”となります。今回のフェスは“ゴール”ではなく、核兵器や気候危機の問題解決に向かって、一人一人が『行動変容』を起こす“スタート”にほかなりません。今いる場所から、『行動の連帯』を広げていきたいと念願します」
 
 74年当時の青年部の取り組みから半世紀――。仏法の生命尊厳の思想を体した若い世代の使命は、ますます大きなものとなっている。

長崎では、青年部の発案で「平和案内人」と呼ばれるボランティアガイドのもと、長崎市内の被爆遺構や原爆資料館などを回る「ピースウオーク」の取り組みを続けている。児童・生徒と保護者らが見学し、平和の心を受け継いでいる

長崎では、青年部の発案で「平和案内人」と呼ばれるボランティアガイドのもと、長崎市内の被爆遺構や原爆資料館などを回る「ピースウオーク」の取り組みを続けている。児童・生徒と保護者らが見学し、平和の心を受け継いでいる

 
 
〈注釈〉

 注1=ジム・ガリソン 1949年、アメリカ生まれ。バージニア工科大学名誉教授。ジョン・デューイ協会会長、教育哲学協会会長などを歴任。2014年、池田先生とラリー・ヒックマン博士とのてい談集『人間教育への新しき潮流』を発刊している。
  
 注2=デイビッド・クリーガー 1942年、アメリカ生まれ。ハワイ大学、サンフランシスコ州立大学助教授などを経て、82年に「核時代平和財団」を創設。同財団の会長として、核廃絶の国際キャンペーン「アボリション2000」などを推進。2001年、池田先生との対談集『希望の選択』を発刊。23年12月7日に逝去した。
 

【引用・参考文献】『民衆こそ王者――池田大作とその時代』第9巻、同第10巻(潮出版社)

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