民衆の中へ――池田先生と吉川英治を巡って㊦2024年6月4日

  • 希望の曙光は庶民から生まれる

師弟の愛読書

1987年5月1日、東京・青梅市の吉川英治記念館を訪れた池田先生。文豪が家族と暮らした旧宅、筆を執った場所などで足跡をしのんだ

1987年5月1日、東京・青梅市の吉川英治記念館を訪れた池田先生。文豪が家族と暮らした旧宅、筆を執った場所などで足跡をしのんだ

 「私は、吉川『三国志』を読みかえすたびに、今でも恩師の声を聞く思いがする」――文豪・吉川英治氏が執筆した『三国志』への、池田先生の述懐である。
 吉川氏の『三国志』は人気を博した。今日の日本の三国志関連の作品に、多大な影響を及ぼしている。
 戸田先生、池田先生の師弟の愛読書でもある。湖南文山が訳した『通俗三国志』を読んでいた戸田先生は、吉川氏の『三国志』を、新聞連載の時から愛読した。池田先生は25歳の時、3度目の読了をしている。
 1955年(昭和30年)春から9月にかけての半年間、『三国志』は、男子部の人材育成グループ「水滸会」の教材となった。ある時の水滸会の集いで、劉備玄徳、関羽、張飛の間で結ばれた「桃園の義」が話題になった。
 水滸会員からは、「人間の縁の不思議さ、宿命のようなものを感じます」などの意見が出た。一人一人の発言を聞いていた恩師は語った。
 「大事なことは、3人がともによく互いの短所を知って、補いあっていけたから、団結できたのです。したがって、まず3人の性格上の違いを、よくみていかなければならない。どこに短所があるか、長所は何かを知っていくことが、互いに相手の人物を理解する基本となるものだ」
 戸田先生は3人の中で、関羽を最も好んだという。信義を重んじる生涯を貫いたからだ。『三国志』を通して、指導者論、人間観、歴史観を自在に展開し、池田先生と何度も師弟の語らいを重ねた。
 恩師の逝去後も、池田先生は何度も『三国志』をひもとき、思索を重ね、同志と論じ合った。60年(同35年)2月22日、初の鳥取指導へ向かう車中でも読んだ。3月14日にも、同書を読み進めたことを日記に記している。
 「三十年の桃園の義――美たり、劇たり。わが学会の同志も、かくありたし。かくあらねばならず。胸に響くものあり、胸に誓いし人ありや。恩師の慈愛、厳愛の遺言の数々を忘れじ。同志よ、友よ、夢寐にも忘れ給う勿れ。
 遺弟よ、剛毅に起て、進め。実践と達成のために、われと進め。勇敢に、今こそ勇敢に」

記念館を訪れた池田先生は、吉川氏の夫人・文子氏と語らった(1987年5月1日)

記念館を訪れた池田先生は、吉川氏の夫人・文子氏と語らった(1987年5月1日)

心に触れる喜び

 1925年(大正14年)から月刊少年雑誌を飾った吉川氏の冒険小説「神州天馬俠」。3年7カ月の連載で一度、氏の過労で休載した。
 「作者の都合により休載します」との編集部の通例の断りではなく、氏は11枚に及ぶ、休載をわびる原稿を書いた。読者を大切に思う氏への敬愛の投書が、編集部に殺到した。
 氏は数々の新聞小説を執筆した。その苦労をこう記している。
 「自動車にのって、旅行地の危険な道へかかる時でも、すぐ、万一の時は、新聞がと思う。怪我をしたら、口述でも、つづけなければ、などとつまらない、空想をよぶ」
 新聞小説の連載は、締め切りに追われる日々だ。小説の構想を練り、文献・資料を収集することも大変な労作業である。
 「この連載が、相当、自分を苦しめるであろう」――池田先生はその覚悟で、60年前の64年(昭和39年)12月2日、小説『人間革命』の執筆を開始した。
 海外訪問や地方指導の折にも、原稿用紙に向かった。体調を崩し、ペンを握ることすらできない日は、原稿を口述し、テープに吹き込んだ。小説につづった同志への励ましの言葉は、“心身を酷使する戦い”そのものであった。
 日本画の巨匠・東山魁夷画伯は、『人間革命』『新・人間革命』の表紙の装画を担当した。池田先生と交友を結んだ画伯は、晩年の吉川氏とも交流があった。
 文豪の逝去後、画伯はその生涯に思いを馳せ、「不死」と題する一文をつづった。
 「芸術の鬼であって、家庭の良き夫、良き父親であり、『人生の達人』といわれるほどの対人関係を保つということは、不可能というべきである。(吉川)先生がその不可能を可能にされたのは、誠実な人柄にもよるものであるが、何よりも、ご自身の骨肉を削っての実践ということであったと思う」
 「(吉川)先生は立派な作品を沢山、残してゆかれた。それらを読むことは、直接、先生の心に触れる喜びである。先生との交誼は、私にとっても終生、尽きる時はなく、年月を経てますます深まるのを感じる」
 文豪は晩年、東京・信濃町の病院に入院し、学会員が営む理髪店に来ることがあった。その店の主人に、学会の出版物を読み、友人からも話を聞き、学会に深い関心を寄せていることを語っていたという。

記念館訪問の折、芳名録に記帳する池田先生(1987年5月1日)

記念館訪問の折、芳名録に記帳する池田先生(1987年5月1日)

必ず朝は来る

 吉川氏の『新・平家物語』のラストで、阿部麻鳥の妻・蓬が「なんで、人はみな、位階や権力とかを、あんなにまで、血を流して争うのでしょう」と語る場面がある。この問いが、『私本太平記』を書く出発点といわれる。
 『新・平家物語』は週刊誌で、1950年(昭和25年)4月から57年(同32年)3月の7年間にわたって連載された。その完結後、1年もたたない58年(同33年)1月から、毎日新聞で『私本太平記』の連載を開始した。
 氏の言葉にこうある。
 「小さな山の頂へ、ドッカと胡坐をかいてしまうようなことになっては、もう人間もお仕舞である。進歩も発展も何も彼もなくなる」
 『私本太平記』の連載の終盤、氏は体調を崩した。だが、脱稿するまで入院を先延ばしにした。同書は、吉川文学の集大成といえよう。
 昭和女子大学の名誉教授であった松本昭氏は、毎日新聞の学芸部記者の時代、『私本太平記』を担当した。また、池田先生と対談集を編んだ作家・井上靖氏とも交流があった。
 松本氏は、創価の三代会長、吉川氏、井上氏が織りなすドラマの中心にあるのは、「権力の魔性の否定と人間の尊厳」であると述べ、「権力の魔性」を打ち破る民衆の連帯を、創価の「師弟」が築き上げたと指摘している。
 『私本太平記』の最終章は「黒白問答」とのタイトルで、足利尊氏のいとこで目が不自由な覚一らの対話で締めくくられる。覚一は、どんなに暗黒の時代が続こうとも、「必ず朝は来ます。朝の来ない夜はない」と宣言する。この場面を通し、池田先生は訴えた。
 「その曙の光は、どこから来るのか――それは、常に、たくましき庶民の中から生まれる。新しい時代には、新しい使命を担った新しい人間が出現してくる――これが、吉川文学の一つの結論であった」
 「“大衆こそ、大英知なり!”。これが『民衆の心』に生きた文豪の鋭い洞察である。民衆の中に、希望がある。知恵がある。未来がある」

吉川英治氏(青梅市の自宅で、朝日新聞社提供)

吉川英治氏(青梅市の自宅で、朝日新聞社提供)

【引用・参考文献】池田大作著『吉川英治 人と世界』(六興出版)、『完本 若き日の読書』(第三文明社)、『私の人間学㊤』(読売新聞社)、吉川英治著『吉川英治全集』46・52、『三国志』『私本太平記』(講談社)、『われ以外みなわが師』(大和出版)、復刻版・吉川英治全集月報『吉川英治とわたし』(講談社)、松本昭著『教師よ、最高の芸術家よ』(アールズ出版)

㊤は5月17日付に掲載