〈池田先生の中国初訪問50周年特集〉 友誼の「金の橋」を永遠に2024年5月27日

  • 平和のバトンを次の世代へ

総理のひじに手を添え、抱えるように握手を交わす池田先生。周総理は「どうしてもお会いしたいと思っていました」と語りかけた(1974年12月5日、北京の305病院で)

総理のひじに手を添え、抱えるように握手を交わす池田先生。周総理は「どうしてもお会いしたいと思っていました」と語りかけた(1974年12月5日、北京の305病院で)

 池田先生が1974年5月30日、中国に第一歩をしるしてから、まもなく50周年を迎える。先生は「平和友好の樹立は百年、千年の単位で腹をきめて取り組む作業」であると語り、万代にわたる信義と友誼の「金の橋」を建設するとの不動の信念を貫いてきた。ここでは、国交正常化提言から、初訪中、周恩来総理との会見が実現した第2次訪中まで、日中友好の道を開いた先生の足跡を紹介する。

【1968年9月8日】日中国交正常化提言

“日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合う時こそ、アジアに希望と幸せの陽光が降り注ぐ時代である”――第11回学生部総会で、「日中国交正常化提言」を発表する池田先生(1968年9月8日、東京・日大講堂で)

“日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合う時こそ、アジアに希望と幸せの陽光が降り注ぐ時代である”――第11回学生部総会で、「日中国交正常化提言」を発表する池田先生(1968年9月8日、東京・日大講堂で)

 1968年9月8日、池田先生は東京・日大講堂(当時)での第11回学生部総会で、日中国交正常化提言を発表した。
 
 当時は東西冷戦や中国の文化大革命、日本政府の反中国政策の影響などにより、日本の対中感情は悪化し、両国関係は冷え切っていた。提言を行えば、命に及ぶ危険さえ考えられる状況だった。しかし、先生は決断する。「私が、発言するしかない! 私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である」(小説『新・人間革命』第13巻「金の橋」の章)
 
 中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること等を盛り込んだ提言に対して、学会本部に嫌がらせや脅迫の電話が相次ぐなど、激しい非難の声が上がった。一方、中国文学者の竹内好氏が「光りはあったのだ」と評し、政界の重鎮・松村謙三氏が「百万の味方を得た」と述べるなど、日中友好に尽力してきた人々に大きな反響を巻き起こした。
 
 また、提言発表の報はただちに中国に届けられ、外交の全権を担っていた周恩来総理は、その内容を高く評価。72年9月に国交正常化が実現する過程で、公明党が両国の“橋渡し役”となった背景には、池田先生への中国側、とりわけ周総理の信頼が土台にあった。

【1974年5月30日~6月15日】中国に第一歩をしるす

日中友好の金の橋を永遠に!――北京への直行便がなかった当時、英国領だった香港から、境界線の鉄橋を歩いて中国に第一歩をしるした池田先生(1974年5月30日)

日中友好の金の橋を永遠に!――北京への直行便がなかった当時、英国領だった香港から、境界線の鉄橋を歩いて中国に第一歩をしるした池田先生(1974年5月30日)

 池田先生は1974年5月30日、中国を初訪問した。国交正常化から1年半以上がたっていたが、まだ北京へ飛ぶ直行便はなかった。池田先生と訪問団は、英国領だった香港の羅湖駅で列車を降り、境界線の鉄橋を歩いて渡り深圳に入った。
 
 中国では文化大革命が続いていたこともあり、訪問団のメンバーも緊張を隠しきれずにいた。しかし、先生は“ありのままに接していけばいいんだ”と励まし、自ら“人間外交”を展開していく。

深圳から列車で移動し、池田先生と訪問団が広州駅に到着。中国人民対外友好協会の関係者と言葉を交わす(1974年5月30日)

深圳から列車で移動し、池田先生と訪問団が広州駅に到着。中国人民対外友好協会の関係者と言葉を交わす(1974年5月30日)

 約2週間の行程で、北京、西安、上海、杭州、広州等を訪問。李先念副総理や中日友好協会の廖承志会長らと会見し、意見を交換した。さらに先生は教育機関や工場をはじめ、民衆の生活の場にも足を運んだ。
 
 ある時、一人の少女が尋ねた。“おじさんは、どこから来たのですか?”
 
 先生は答えた。“日本から来ました。あなたに会いに来たのです!”
 
 指導者とも、市井の人々とも変わらぬ誠実さで、友好を結んだ。
 
 北京での答礼宴で、池田先生は宣言した。「もはや言葉ではありません。私たちのこれからの行動を、見てください!」
 
 先生は15日に深圳から香港へ戻り、翌日に帰国して、歴史的な第1次訪中を終えた。

池田先生が「国際児童節(こどもの日)」の祭典に出席し、演技を観賞。先生は一瞬一瞬の出会いを大切にし、多くの市民に声をかけていった(同年6月、北京で)             

池田先生が「国際児童節(こどもの日)」の祭典に出席し、演技を観賞。先生は一瞬一瞬の出会いを大切にし、多くの市民に声をかけていった(同年6月、北京で)             

【1974年12月2日~6日】第2次訪中 周総理と語らい

 1974年12月2日、池田先生は再び中国へ渡った(第2次訪中)。先生は、同年9月の第1次ソ連(当時)訪問の際にコスイギン首相から預かった“ソ連は中国を攻めません”との言葉を胸に携えていた。
 
 北京に到着した先生は、中日友好協会の廖承志会長を通して、中国首脳にコスイギン首相の言葉を伝える。同月5日、鄧小平副総理との会談の折には、周総理の病状が重いことを知らされた。しかし同日、滞在最後の夜に廖会長から、「周恩来総理が待っておられます」と告げられる。先生は一度は丁重に辞退したものの、総理の強い意志を伝えられ、北京の305病院へ向かった。
 
 がん闘病中の総理は、医師団の反対を押し切って会見に臨んでいた。
 
 総理は「あなたが若いからこそ、大切にしたいのです」等と語り、約30分間の一期一会の語らいで友好の未来を先生に託した。
 
 池田先生は自ら10度訪中するなど、日中関係が波浪の時も変わらず青年交流、文化交流を貫いた。周総理から先生に託されたバトンは今、次代を担う青年の手に握られている。