〈闘魂TALK〉 日蓮大聖人は釈尊とどう違うの?2024年5月21日

 三代会長が築いた創価学会の歴史や教学を学ぶ連載「闘魂TALK」。今回は、ヤング男子部世代である部長・蓮人さんの疑問に、総区副青年部長の先輩・幸助さんが答えます。

Q 日蓮大聖人は釈尊とどう違うの?

A 成仏の道を開かれた「末法の教主」

 蓮人 仏教の「仏」って、一般には釈尊のことですよね。日蓮大聖人も「末法の御本仏」であることを考えると、同じ「仏」である一方で、何がどう違うんですか?
 
 幸助 鋭いね。共通しているのは、「仏」=「教主」という点だよ。
 
 蓮人 教主? 確かに御書には「ただ法華経ばかり教主釈尊の正言なり」(新54・全188)とあるように、「教主釈尊」という言葉がたくさん出てきますよね。
 
 幸助 「教主」とは、すなわち「衆生を導く教えを、責任をもって説く主体」のことだね。
 
 蓮人 釈尊も大聖人も衆生救済の教えを説いたという点では同じ「教主」に位置づけられるんですか?
 
 幸助 そう。釈尊は、生老病死という根源的な苦悩から人々を解放するため、さまざまな教えを説いた。それが後世、経典にまとめられた。
 
 蓮人 その中でも法華経は、仏の覚りの真実を伝える経典であると、教学試験の時にも習いました。
 
 幸助 大乗仏教の真髄であり、一切衆生の成仏が示された教えだね。
 
 蓮人 だから大聖人は、御書で何度も「教主釈尊」と呼ばれているわけですか。じゃあ、法華経で僕たちも成仏できるんですね。
 
 幸助 そこがポイントなんだよ。法華経には、仏の滅後に、正法がやがて形骸化し(像法)、また末世に衰滅するとも説かれているんだ。
 
 蓮人 釈尊滅後に法華経の弘通を託されたのが、上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩でしたよね。
 
 幸助 その通り。大聖人は、末法の初めに上行菩薩が出現し、釈尊が付嘱した南無妙法蓮華経を弘めると、多くの御書で仰せになっている。
 
 蓮人 「観心本尊抄」にありますよね。9月の青年部教学試験1級に向けて先に勉強しました。
 
 幸助 すごい求道心! 大聖人は末法のどんな機根の人でも成仏できる南無妙法蓮華経を覚知された。その上で「日蓮は広・略を捨てて肝要を好む。いわゆる、上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(新156・全336)とある通り、題目こそ釈尊が上行菩薩に託した法とされたんだ。

求道の息吹あふれるインドの教学研修会(本年3月、インド創価学会本部で)。同国の会館等にも中継された

求道の息吹あふれるインドの教学研修会(本年3月、インド創価学会本部で)。同国の会館等にも中継された

仏教正統の系譜に連なる創価学会

 蓮人 それを実際に弘められたのが大聖人ということですね。
 
 幸助 「日蓮は日本国の諸人にしゅうし父母なり」(新121・全237)と仰せの通り、大聖人は仏がそなえる三徳を具備されている。だからこそ、末法の衆生救済の方途を示された大聖人は「末法の教主」であり、「末法の御本仏」として仰ぐんだ。末法に入り、大聖人に教主が“交代”したとも言えるね。
 
 蓮人 釈尊に始まる万人成仏の教えが法華経を通して伝わり、末法に大聖人が南無妙法蓮華経の三大秘法を確立されたことで、今の僕たちもありのままの姿で、成仏を目指して仏道修行を実践できる。この仏教正統の系譜に連なっているのが創価学会なんですね。
 
 幸助 一方、日蓮正宗(日顕宗)は、大聖人を久遠実成の釈尊より先に存在した仏だとして神秘性をことさらに強調し、御書に完全に背き、当代の法主を“現代における大聖人様”などと言わせた。
 
 蓮人 “法主絶対論”ってやつですね。
 
 幸助 そう。「唯授一人の血脈の当処(=法主)は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします(中略)この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」(能化文書、1991年7月)など、耳を疑うような数々の邪説を広言してきた。法主を絶対化して尊崇するなど、御書のどこにも記されていない邪義だ。
 
 蓮人 日蓮仏法とは到底言えませんね。
 
 幸助 日興遺誡置文に「時の貫首たりといえども、仏法に相違して己義を構えば、これを用いるべからざること」(新2196・全1618)とあり、法主(貫首)といっても絶対ではないと仰せだ。法主を権威で飾り立てる日顕宗は、宗祖だけでなく日興上人にも違背する邪教団であることは明白だ。
 
 蓮人 大聖人の仰せのままに民衆救済を実践する学会の中で、僕も地涌の菩薩の使命に生きます!
 
(「闘魂TALK」の解説編はこちら