〈社会・文化〉 思慮の力と実践――徳倫理の現代的展開2024年5月21日

  • 答えの出ない医療・生命倫理の現場
  • 行為者の態度、心構えを問う
  • 開かれた包括的な人間理解

 アリストテレスを始祖とする「徳倫理」は、思慮の力と「生の充実」を重視する倫理学であり、そこには現代の倫理的課題に応え得る可能性が秘められている。『つなわたりの倫理学』(角川新書)の著者、村松聡・早稲田大学教授は、徳倫理から妊娠中絶やがん告知等の倫理的課題を考察している。村松教授に聞いた。

村松聡著『つなわたりの倫理学』(角川新書)

村松聡著『つなわたりの倫理学』(角川新書)

アリストテレスが考えた徳

 私たちが「徳」というとき、徳がある人や徳の高い人を考えるように、心の在り方や性格に関わる道徳論を連想するのが一般的ですが、アリストテレスが展開した徳倫理の基本にあるのは、人間はいかにすれば幸せな人生を歩めるかということであり、そのために必要な資質や心の姿勢をアリストテレスは徳と考えました。
 したがって、その起源において、徳は幸福と深い関わりを持ち、充実した「生」の展開を達成するための心構えと考えられ、私たちの想像する高潔で立派な徳のイメージに加え、普段は徳と考えていない、ユーモアのセンスなど、私たちの生活全般に及ぶものでした。
 一方、アリストテレスが想定した徳倫理には個人と社会の在り方は一致するとの前提がありました。この前提が歴史的に崩れ、徳倫理は衰退の道をたどります。
 ヨーロッパでは、宗教戦争の経験から、個人の徳と社会の規則の在り方に乖離が生まれます。一神教では信仰は個人の内面にとどまらず、個人の倫理を社会的ルールとして強く束縛します。宗教戦争の時代、異なる教義を持つ宗派間では社会的にも互いを認められなくなったのです。こうした反省から、公の規則では、個人の内面的な倫理に介入せず、プライバシー権を認める近現代社会が成立します。アリストテレスが考えもしなかった問題に、西欧は直面したと言うべきでしょう。
 さらに自律に基づく個人の在り方を考えるカントの義務倫理が18世紀後半から倫理思想の中核を占め、経済学と結びついた功利主義が倫理思想の一角を占めるなど、徳倫理は倫理思想の脇役へと追いやられていきます。
 しかし、徳倫理は、その原点に立ち返れば、「すべき(でない)」と縛る義務倫理や「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義にはない、何を幸せと考え、私たちは何をしたいのか、それを広く問う可能性に開かれています。拙著では、その徳倫理の可能性について展開しています。

アリストテレスの胸像=EPA時事

アリストテレスの胸像=EPA時事

原理主義に走らない柔軟さ

 多くの倫理学者と同じく私も当初、規範倫理的な考えから原理や原則を見つけ、倫理的課題に対する答えを得ようと考えていました。ところが、医療倫理や生命倫理の現場の課題に向き合うなか、原理や原則を厳密に守るだけでは、答えの出ない問題があることに気付きました。
 例えば、がん告知の問題。カント的義務論では正直な行為としての真実の告知が求められますが、それが思わぬ悲劇の結果をもたらす場合もあります。功利主義はどうでしょうか。告知について、最大多数の最大幸福をどう図るのか。それはネゴシエーション(折衝)の技術に陥る可能性もあります。
 私が徳倫理のアプローチが必要であると考えるのは、徳倫理の原理主義に走らない柔軟さ、たおやかな感性、応用の難しさを知る人間知が、現実に起きている問題に応えるための助けになると考えるからです。
 義務論的アプローチは、どのような行為が義務かを考える点で行為自体に焦点を当てます。一方、功利主義は行為の結果に焦点を当てます。これに対し徳倫理は行為者に注目し、その姿勢、心構えに焦点を当てます。
 人工妊娠中絶問題を例に挙げれば、徳倫理的アプローチは中絶行為の是非を問う二項対立に陥ることなく、行為の結果を損得で測ることもしません。問題に向き合う行為者の態度、心構えを問います。それが柔軟さの根源になっているのです。
 さらに徳には、さまざまな生の充実に対して開かれた包括的人間理解があります。それが現在の複雑な問題に向き合う行為者の態度や心構えに対する寛容さを生んでいると私は考えています。

米国では人工妊娠中絶の是非を巡り対立が続く(写真はワシントンの連邦最高裁前で中絶の権利を訴える人々)=時事

米国では人工妊娠中絶の是非を巡り対立が続く(写真はワシントンの連邦最高裁前で中絶の権利を訴える人々)=時事

考えるための「心の正中線」

 拙著では、伝統的な徳倫理の思想家であるフットとハーストハウスの論点から、安楽死や妊娠中絶を考える基準や原則を考察し、徳倫理の現代における復興者である、マッキンタイアの実践に基づく徳理解、ヌスバウムの潜在力アプローチにも言及しています。そして、私自身の「ささやかな試み」として、徳倫理のアプローチに基づいて必要な判断をもたらす際の思慮(フロネーシス)がどのようなものかを、四つの章で考察しました。
 私たちが現在、直面する複雑な倫理的状況において、「誠実に行為する」とはどういうことか、必ずしも明らかではありません。小さな噓をつくことで「誠実に行為する」ことを実現する場合もあります。私たちはいつも「よいことをしたい」と思っていますが、悪いことしかできない場面が人生には時として生じます。そのとき、道しるべとなる思慮、あるいは考えるための「心の正中線」になるものを示したいと思いました。
 そうした思慮の一つが、例えば拙著で挙げた「小悪選択」です。ただ、「小悪選択」を道しるべとしても、それはやむをえざる選択であり、なお抑制する心の在り方は必要です。「誠実に行為する」ために噓をつく場合もそれは同じです。
 道しるべを示せば、それで終わりではなく、どういう心の在り方でその道しるべに向かうのか、言葉にはできない躊躇や諦め、それら全てを含めて思慮すること、それが徳倫理のアプローチでは大切ではないかと考えています。

 むらまつ・あきら 1958年、東京都生まれ。横浜市立大学准教授等を経て現職。専門は近現代哲学、応用倫理学。著書に『ヒトはいつ人になるのか 生命倫理から人格へ』、『シリーズ生命倫理学2 生命倫理の基本概念』(共著)など。