〈栄光の共戦譜〉第27回 1984年(昭和59年)「健康の年」2024年5月10日

  • 地道にして最高の平和への道を

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第27回は、「健康の年」と銘打たれた1984年(昭和59年)を掲載する。

「2・26」 ブラジル大文化祭

ブラジル大文化祭の公開リハーサルで、両手を高く掲げ、友を励ます池田先生(1984年2月、ブラジル・サンパウロで)

ブラジル大文化祭の公開リハーサルで、両手を高く掲げ、友を励ます池田先生(1984年2月、ブラジル・サンパウロで)

 「来たよ! 18年分の空白を全部埋めるから」――1984年(昭和59年)2月19日、ブラジルの地に降り立った池田先生は、力強く宣言した。
 74年(同49年)3月、先生はブラジル訪問を予定していた。しかし、一部の日系人による学会へのデマによって、誤解が生じ、ビザが発給されなかった。
 ブラジルの友は悔し涙を拭い、学会の真実を語り、地域・社会に信頼を広げていった。試練の逆風を飛翔する力へと変えたのである。
 友の奮闘によって、66年(同41年)3月以来、18年ぶりとなる師のブラジル訪問が実現。先生はフィゲイレド大統領はじめ要人と会談を重ねる一方、同志に励ましを送った。
 2月25日、先生はブラジル大文化祭の公開リハーサルに駆けつけた。2万人を超える友の“センセイ!”“ピケ! ピケ!”の大歓声が轟く。
 先生は両手を上げながら、場内をゆっくりと回った。しばらくすると、ブラジルSGIの愛唱歌「サウダソン・ア・センセイ(ようこそ、先生)」の大合唱が始まった。先生は語った。
 「これまでに、どれほどの労苦と、たくましき前進と、美しい心と心の連携があったことか。私は、お一人お一人を抱擁し、握手する思いで、感謝を込め、涙をもって、皆さんを賞讃したい」
 翌26日の大文化祭には、大統領がメッセージを寄せた。広範な平和運動への貢献をたたえ、「高貴なる理想が、実現されることを切望いたします」と期待した。
 先生にビザが発給されなかった74年からの試練の10年が、ブラジルSGIを鍛え、強くした。不屈の10年の歩みが、「師弟の道」を貫くブラジルSGIを築く礎となったのである。

「5・21」 “山光提言”を発表

鳥取・米子文化会館に居合わせた友と、池田先生が握手を交わす(1984年5月)。鳥取から島根への激励行の中、先生は「山光提言」を発表した

鳥取・米子文化会館に居合わせた友と、池田先生が握手を交わす(1984年5月)。鳥取から島根への激励行の中、先生は「山光提言」を発表した

 「島根、鳥取は、本来、『山陰』というよりも、『山光』というべき天地ではないか」。この発想を池田先生が抱いたのは、1973年(昭和48年)の島根訪問の折だった。
 11年後の84年(同59年)5月20日、池田先生は鳥取青年平和文化祭に出席。約4000人の青年の熱演一つ一つを見守り、呼びかけた。
 「どんなに苦しいこと、嫌なことがあっても、厳然とそびえる大山のごとく、信念の人間として生き抜いてほしい」
 翌21日、先生は島根へ向かい、島根文化会館で開かれた各部代表者会議で、歴史的な提言を発表した。
 「山陰地方というが、私は、昔からこの言葉には大変に抵抗があった」「私はここを、光り輝く地、つまり『山光』と申しあげたい」
 鳥取・島根の友に勇気と自信を送りたいとの思いで、先生が発表した「山光提言」は、同志の誇りである。提言が発表された「5月21日」は今、「山光の日」として、両県の友が広布の誓願を新たにする節目となっている。
 91年(平成3年)9月8日、池田先生が出席して第1回「山光総会・音楽祭」が米子文化会館で開催された。同年6月、鳥取が聖教新聞の拡大で日本一を達成。翌7月には、島根が日本一を成し遂げた。席上、先生は鳥取・島根の前進をたたえて語った。
 「お互いに、よきライバルでもある。“山光”の両県が中国全体に波動を広げ、推進力となっていることは、多くの人々の称賛の的である」
 「山光提言」発表から40周年。師への報恩を誓い、自他共の幸福と地域の発展に尽くす友の、新たな歴史を築くドラマが幕を開ける。

「9・30」 世界平和文化祭 「10・2」 SGI総会

池田先生が海外の友と和歌山・白浜町へ。途中、停車した駅で、駆けつけた友に窓越しに手を振り、魂の原点を結んだ(1984年10月)

池田先生が海外の友と和歌山・白浜町へ。途中、停車した駅で、駆けつけた友に窓越しに手を振り、魂の原点を結んだ(1984年10月)

 1983年(昭和58年)9月、池田先生が関西のリーダーたちに、世界平和文化祭の構想を語った。
 「関西から、文化祭の新しいパターンをつくろう。これまでにない、“美声”“華麗”、そういうものを皆が待っているはずだ」
 「関西から一つの革命を起こそう」
 関西の青年たちは連日、師が語った“美しさ”“華やかさ”について議論を重ねた。その結論は、事実の上で世界広布を成し遂げてきた師の足跡を、そのまま表現する、ということ。そのために、師の戦いを継承する戦いを起こし、自分たちの“生命の輝き”として表現しようと誓い合った。
 文化祭まで2カ月となった84年(同59年)7月。先生は関西青年部の代表と懇談。後日、「新世紀へ乃前進」と大書し、贈った。
 同年9月30日、海外57カ国・地域の友が参加して、阪神甲子園球場で第4回「世界平和文化祭」が行われた。電飾で人文字を描く「ヒューマン・アーツ」、ダンスや組み体操などが舞台を彩った。この日の夜、先生は兵庫の関西戸田記念館(当時)で詩を詠んだ。
 「私の人生にあって/これほど 見事な/これほど 優雅な/そして これほど雄大な/地上最高の文化の華を/見たことはない」
 「日蓮大聖人の志向なされた/化儀の広宣流布 完成への/一つの象徴を/私は 垣間見る思いであった」
 10月2日、先生は和歌山・白浜町で開かれた第5回「SGI総会」に出席。席上、確信を語った。
 「われわれの信心活動は地道にして遠回りのようであるが、最高に世界平和の貢献につながっている」

◆年表◆
1984年

 【1984年(昭和59年) 健康の年】
  
 〈1月2日〉
 法華講総講頭に就任
  
 〈2月11日〉
 北・南米訪問(~3月18日。アメリカ、ブラジル、ペルー)
 ブラジルで第1回ブラジル大文化祭(2月26日)。ブラジルは18年ぶり3度目の訪問となった
 ペルー共和国から「ペルー太陽大十字勲章」を受章(3月1日)。第1回ペルー世界平和青年文化祭(3月3日)
 アメリカで第1回日米青年合同総会(3月11日)
  
 〈3月22日〉
 関西指導(~27日。大阪、兵庫)
  
 〈5月2日〉
 航空業務に携わる「空友会」のメンバーと記念撮影(創価大学)
  
 〈5月13日〉
 第1回福島青年平和文化祭
  
 〈5月18日〉
 鳥取・島根指導(~23日)
 第1回鳥取青年平和文化祭(20日)。島根の代表者会議の席上、「山陰」を光り輝く「山光」と呼ぶことを提案(21日)
  
 〈6月1日〉
 中部指導(~2日。愛知)
  
 〈6月2日〉
  関西指導(~4日。大阪)
  
 〈6月4日〉
 中国訪問(第6次。~10日)
 北京大学から名誉教授称号を受ける。「平和への王道――私の一考察」と題し記念講演(5日)。復旦大学から名誉教授称号を受ける。「人間こそ歴史創出の主役」と題し記念講演(9日)
  
 〈6月10日〉 関西指導(~18日。大阪、兵庫、和歌山)
  
 〈8月23日〉
 北陸指導(~28日。富山、石川)
 石川で第1回北陸平和文化祭(26日)
  
 〈9月2日〉
 第1回新潟青年平和文化祭
  
 〈9月9日〉
 第1回神奈川青年平和音楽祭
  
 〈9月27日〉
 関西指導(~10月4日。大阪、兵庫、和歌山)
 第4回世界平和文化祭(9月30日、兵庫)。第5回SGI総会(10月2日、和歌山)
  
 〈10月20日〉 山口・広島指導(~27日)
  
 〈12月3日〉
 ノルウェーの平和学者、ヨハン・ガルトゥング博士と会談(東京)。後に対談集『平和への選択』を発刊
  
 〈12月22日〉
 国際宗教社会学会会長のカール・ドブラーレ博士と会談(東京)
  
※1月、「地区制」が発足し「大ブロック」が「地区」となる