音楽隊結成70周年 妙音を轟かせる広布の楽雄2024年5月6日

創価グロリア吹奏楽団による「青年よ広布の山を登れ」の記念演奏動画はこちらから

 1954年(昭和29年)5月6日、池田先生の提案で音楽隊が結成された。3日後の9日、隊員十数人で初出動。「音楽隊の日」の淵源である。現在、吹奏楽、管弦楽、マーチング、合唱、軽音楽、和太鼓など100以上の団体が所属。名実共に、日本を代表する青年音楽団体へと発展した。また、世界30以上の国と地域でも、音楽隊が活躍している。結成70年の歩み――それは、池田先生と魂の共鳴を響かせ続けた共戦の足跡である。

魂と魂の共鳴音

 優れた宗教があるところ、必ず偉大な文化、芸術が生まれる――それは、池田先生の信念である。
 1954年(昭和29年)、青年部の室長に就任した池田先生は、音楽隊の結成を提案した。先生は結成への思いを記している。
 「力強い音楽の調べは、広宣流布に進む同志の心を、どれほど鼓舞し、勇気づけるか計り知れない」
 「熟慮に熟慮を重ね、音楽隊は絶対に必要だと結論した」
 周囲は「音楽が広宣流布に何の関係があるのか」と難色を示した。しかし、戸田先生は愛弟子を信頼し、「大作がやるんだったら、やりたまえ!」と賛同した。戸田先生と池田先生の「師弟」の呼吸によって、音楽隊は結成されたのだ。
 同年5月6日に誕生した音楽隊は、3日後の9日、5000人を超える青年の集いに初出動する。
 楽器は借り物。整った施設もない。楽譜を読めない友もいた。しかも、当日は激しい雨。それでも、十数人の隊員たちは、ずぶ濡れになりながら、学会歌を演奏した。
 音楽隊の熱演に合わせ、池田先生は指揮を執った。池田先生と“魂と魂の共鳴音”を響かせることから、音楽隊の歩みは始まったのである。
 池田先生は音楽隊に一つの提案をした。タイケ作曲の行進曲「旧友」の演奏である。その思いを、「君たちこそ、永久に信仰と音楽で結ばれた『旧友』である意義を訴えたかった」とつづっている。後に音楽隊の友が「旧友」を披露すると、先生は最大にたたえた。
 57年(同32年)、北海道、関西で音楽隊が誕生。翌58年(同33年)には、九州でも結成された。

「行こう! ついていらっしゃい」――音楽隊の行進の先頭に立つ池田先生(1958年3月16日、静岡で)

「行こう! ついていらっしゃい」――音楽隊の行進の先頭に立つ池田先生(1958年3月16日、静岡で)

出陣の銅鑼の如く

 大阪を流れる堂島川の河岸で、音楽隊の有志が、無実の罪で大阪拘置所に勾留されていた池田先生に届けとばかりに、学会歌を演奏した。
 1957年(昭和32年)7月17日の早朝、彼らは東京から夜行列車で大阪に到着した。
 誰かに指示されたわけではない。自分たちで発案し、自分たちの意志で、勇んで大阪まで駆けつけたのである。
 メンバーは、旧・関西本部で勤行を終えた後、中之島の大阪市中央公会堂へ向かい、演奏を開始した。先生は述懐している。
 「その日(57年7月17日)は早くから、音楽隊が、あらん限りの音を出して、学会歌を演奏してくださっていた」
 「それはまた不当な拘置への怒り、即時釈放の叫びを込めた響きであった。こうした同志の真心を、私は生涯、忘れることができない」
 58年(同33年)3月16日、“広宣流布の記念式典”の終了後、池田先生は音楽隊に「参加した友を、お送りしよう」と提案。先生自ら、行進する音楽隊の先頭に立った。笑顔で演奏する隊員が続いた。池田先生と音楽隊による“異体同心のパレード”だった。
 バスで帰途に就く青年たちを見送ると、先生は音楽隊長に依頼した。
 「申し訳ないが、もう1曲、演奏してくれないか。2階に戸田先生がおられる」
 音楽隊は、戸田先生が愛した「星落秋風五丈原」を演奏した。戸田先生への感謝と誓いあふれる旋律を聴きながら、池田先生は胸中で恩師に叫んだ。
 “青年部は、弟子たちは、意気軒高です。ご安心ください!”
 翌59年(同34年)4月、戸田先生の一周忌法要で、音楽隊・鼓笛隊は池田先生と共に、恩師の墓前へ向かい、「星落秋風五丈原」を演奏。墓参した友の報恩の歌声が高らかにこだました。
 先生は語った。
 「音楽隊、鼓笛隊の音が響いているうちは、創価学会は大丈夫です」
 この万感の期待のまま、音楽隊は同志に勇気を送る希望の調べを奏でていく。60年(同35年)5月3日、池田先生の第3代会長就任式も、音楽隊の勇壮な演奏が轟いた。
 就任式を終え、池田先生の退場に合わせて、演奏されたのが「威風堂々の歌」だった。出陣の銅鑼のごとく、力強い音律が会場に響いた。

音楽隊の演奏に合わせて池田先生が学会歌の指揮を(1999年3月、東京牧口記念会館で)

音楽隊の演奏に合わせて池田先生が学会歌の指揮を(1999年3月、東京牧口記念会館で)

かけがえのない戦友

 1964年(昭和39年)、池田先生は月刊誌「第三文明」8月号に、「音楽隊に」を起稿。現在の「音楽隊訓」である。先生は訴えた。
 「苦しい同志に、悩める同志に、希望を与え、勇気を与える、音楽隊の使命を、全うしていただきたい」
 音楽隊の友が、この一節を何度もかみ締め、“自分たちにできることは何か”と問うたのが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災の時である。
 東北音楽隊の友は、震災発生から23日後、宮城・石巻市の中学校で演奏会を行った。自らも被災しながら、「音楽隊の使命」を果たそうと、立ち上がった友もいた。
 震災から2年が経過した13年(同25年)、音楽隊は「福光の春コンサート」を開催。翌14年(同26年)3月には、「希望の絆」コンサートを初めて開いた。現在まで、東北をはじめ、激甚災害などで被災した全国79市区町村で、のべ7万8000人以上が鑑賞している。
 15年(同27年)5月6日、「音楽隊結成の日」に寄せて、池田先生は指針を贈った。
 「音楽隊は、皆、私のかけがえのない戦友である。いかなる嵐にも絶対に怯まぬ、不敗の楽団なのである」
 いかに時代が変わろうとも、音楽隊の魂は「師弟」である。師の心をわが心として、友は心を磨き、技術を磨き、師弟の凱歌を奏で続ける。

1978年5月、東京・八王子市の創価大学で行われた、第1回音楽隊総会。池田先生は観客席からグラウンドへ足を運び、音楽隊員を激励した

1978年5月、東京・八王子市の創価大学で行われた、第1回音楽隊総会。池田先生は観客席からグラウンドへ足を運び、音楽隊員を激励した

(指針「音楽隊ありて創価の凱歌あり」より)

私の心を誰よりも知る君たちの力奏に合わせて、学会歌の指揮を執ってきた一回一回が、忘れ得ぬ師弟のセッションなのだ。