青年部拝読御書「崇峻天皇御書」2024年5月3日

  • 〈研さんのために⑤〉

 青年部拝読御書「崇峻天皇御書」を学ぶ連載の第5回は、第5章を解説する。法華経の加護を示し、改めて四条金吾に具体的な振る舞いを指導される。

第5章 主君の信頼は法華経の故なるを示す
御書新版1595ページ4行目~1595ページ10行目
御書全集1172ページ14行目~1173ページ2行目

【御文】

 竜象と殿の兄とは、殿の御ためにはあしかりつる人ぞかし。天の御計らいに、殿の御心のごとくなるぞかし。いかに天の御心に背かんとはおぼするぞ。たとい千万の財をみちたりとも、上にすてられまいらせ給いては、何の詮かあるべき。すでに上にはおやのように思われまいらせ、水の器に随うがごとく、こうしの母を思い、老者の杖をたのむがごとく、主のとのを思しめされたるは、法華経の御たすけにあらずや。「あらうらやましや」とこそ御内の人々は思わるるらめ。とくとくこの四人かたらいて、日蓮にきかせ給え。さるならば、強盛に天に申すべし。また殿の故御父・御母の御事も「左衛門尉があまりに歎き候ぞ」と、天にも申し入れて候なり。定めて釈迦仏の御前に子細候らん。

【通解】

 竜象房とあなたの兄とは、あなたにとって悪人であった。それが、諸天のお計らいによって、あなたの思う通りになったのである。それなのに、どうしてあなたは諸天のお心に背こうと思われるのであろうか。
  
 たとえ千万の財を得たとしても、主君に捨てられてしまっては何の意味があるであろうか。すでに主君からは親のように思われ、水が器に従うように、子牛が母を慕うように、老人が杖を頼みにするように、主君があなたのことを頼りにされているのは、法華経の加護ではないか。
  
 「ああうらやましいことだ」と江間家に仕える人々には思われていることであろう。一刻も早くこの夜廻りの四人と語り合って、その結果を日蓮に聞かせていただきたい。そうすれば、強盛に諸天に祈ろう。
  
 また、あなたの亡きお父上、お母上の死後のことについても、私が諸天に「左衛門尉(=四条金吾)が、ご両親のことを非常に嘆いております」と、申し上げている。きっと釈尊の御前で(お父上・お母上に対して)さまざまな配慮があることであろう。
  

【解説】

 前章で日蓮大聖人は、四条金吾に対して、さまざまなご指導を重ねられた上で、「あなたは短気な人だからきっと聞き入れないでしょう。私が祈っても、力が及びません」と結ばれた。
  
 本章の冒頭にある「殿の兄」とは四条金吾の実兄のことを指している。金吾には、4人ないし3人ともいわれる男兄弟と、何人かの妹がいたことが知られている。竜の口の法難の際には、金吾だけでなく、兄弟たちも大聖人のもとに駆けつけたことは有名である。しかし本章に「竜象房とあなたの兄とは、あなたにとって悪人であった」とある通り、この頃には、兄は金吾に敵対するようになっていたようだ。また、弟たちとも必ずしも行動を共にするような状況ではなかったと思われる。金吾が主君から不興をかい、兄弟たちは信仰に疑いを持つようになっていたのかもしれない。
  
 そんな金吾に対し、大聖人は、「敵対していた人々が敗れ、主君も金吾を頼るこの状況は、すべて諸天の計らいであり、金吾の望んだ通りであろう。それなのになぜ、短気を起こし、諸天の心に背こうとするのか」との意を述べられている。
  
 続けて大聖人は、どれだけ財を得ても、主君から捨てられてしまっては何の意味もないと述べられる。御文の「上にすてられまいらせ」とは、主君の信頼を失という意味である。当時は封建社会であり、主君に捨てられるというのは、現代でいえば“社会的信用を失う”ということと同義である。つまり大聖人は、物質的な富よりも、一人の人間として、社会的な信用、信頼が大事であると、ここでは指導されているのだ。
  
 また、今どれだけ主君から信頼され、頼りにされているのかを「すでに上にはおやのように思われまいらせ、水の器に随うがごとく、こうしの母を思い、老者の杖をたのむがごとく」と具体的に述べられ、これもすべて信心を捨てずに実践してきた功徳であり、感謝し、大事にしなければならないことを強調されている。大聖人からの「短気ではいけない」との再三にわたる指導に、金吾も襟を正す思いであっただろう。
  
 続けて、大聖人は「とくとくこの四人かたらいて、日蓮にきかせ給え」と仰せである。この四人とは、「夜廻りの殿原」と称される4人の同志で、金吾の身辺警護にあたっている人物たちである。大聖人は、金吾に対して、彼らと仲良くし、金吾の屋敷に出入りしてもらえば、敵は人目をはばかって襲撃できないだろうと前章でも助言をされている。しかし、夜廻りの殿原と金吾との間で、人間関係がうまくいっていなかったようだ。この点についても大聖人は、“どんなに気に入らないことがあっても、仲良くていきなさい”と指示している。
  

 金吾は、正義感が強い一方で、妥協が苦手であり、短気で感情が顔に出やすいところがあった。そのため、相手の至らない点を受け入れられずに衝突したり、根回しや配慮が足りずに軋轢が生じたりしたことがあったのだろう。広宣流布を妨げようとする魔は、そうした同志間の摩擦や亀裂を狙ってくる。だからこそ、一時の感情に流されず、お互いに心を合わせ、団結する意思が重要であると教えられている。
  
 「異体同心」こそ仏法の実践の肝要である。だからこそ大聖人は、「夜廻りの四人と語り合って、その結果を日蓮に聞かせてください。そうすれば、強盛に諸天に祈ろう」と念を押されているのだ。
  
 本章の最後では、四条金吾の亡き父母についてもふれられ、激励をされている。大聖人は以前にも金吾に対し、家族のことを通して手紙を書かれている。
  
 文永8年(1271年)には、前年に亡くなった金吾の母親の追善に際して、母親の生前の信心を最大に称えるとともに、強盛な信心の功徳は自身のみならず、一族を包み込み、家族と共に成仏の道を歩めることは疑いないことを教えられている。
  
 本章を通して、大聖人がどれほど門下のことを大切にされ、細かな一つ一つのことを心配し、手を打たれ、指導・激励されているかがよくわかる。また一時的な激励のみで終わらず、大聖人自ら、いつ何時も金吾のことを祈り切られていることが伝わってくる。
  
 「一人を大切に」――それは、その場限りの励ましや、単なるスローガンではない。一度励ました人が立ち上がり、結果が出るまで、勝利するまで、寄り添い、励まし抜き、祈り切るということである。これはまた、人材育成の急所でもあろう。
  
 現代に生きる私たちもまた、「目の前の一人を大切にする」という仏法の人間主義の振る舞いを貫き、人材のスクラムを幾重にも拡大してきたい。
  

【池田先生の指針から】

 学会員の振る舞いこそ、「現代の菩薩の実践」「生きた仏の行動」として高く評価される時代に入っております。
  
 「人の振る舞い」とは、いわば、地球文明の新しい人間像を示した行動の哲学です。人間主義の実践者、行動者を世界が待望しています。
  
 「一人を大切」にする私たち学会員の振る舞いこそ、新時代の人格のモデル、模範として各国・各地域で賞讃されているのです。
  
 (『勝利の経典「御書」に学ぶ』第4巻)
  
  

〈コラム〉「腹あしき」という言葉
人生は、“性格をどう生かすか”で決まる

 「腹あしき(腹悪しき)」という「短気、怒りっぽい」を意味する言葉。日蓮大聖人は崇峻天皇御書の中で金吾に対して4回用いて厳しく戒められている。この言葉は古くから使われている。
  
 今年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公である紫式部が書いた日本最古の長編小説『源氏物語』にも、「腹あし」の言葉が出てくる。「若菜・下」に次の一節がある。「さすがに腹あしくてものねたみうちしたる、愛敬づきてうつくしき人人ざまにぞものし給ふめる」。現代語訳は「とはいえおこりっぽくて嫉妬を少しなさるところは、愛敬があってかわいい性格でいらっしゃるようである」(『源氏物語(五)』岩波文庫)。光源氏の息子である夕霧が、妻・雲居雁が子育てに追われ風情もなくなってしまったが、怒りっぽくて嫉妬するところがかわいらしいと思いを巡らせる場面である。
  
 現代の感覚だと「腹」と「悪」の組み合わせは、おなかの調子が良くないという意味に捉えられそうだが、この「腹」は物理的な腹ではなく、「腹が立つ、腹を決める」と同じように心や感情を表している。『日本国語大辞典』(小学館)によると、「腹悪し」は「心が荒く腹立ちやすい」の意という。
  
 日蓮大聖人は金吾本人には、金吾を思うがゆえに厳しいことを仰せになっている。だが、門下の富木尼に贈った手紙には「(金吾は)極めて『負けじ魂の人』で、自分の味方(信心の同志)を大切にする人です」(新1309・全986、趣意)と、情に厚く一生懸命という金吾の良い面を最大にたたえられている。門下一人一人の幸福をどこまでも考え抜かれ、人間としての成長を促される大聖人のまなざしには、“どこまでも自分らしく、短所を長所に変え、人生に勝利していける”との御確信が拝される。
  
 池田先生は『希望対話』の中で「性格が人生を決めるのではない。性格を、どう生かすかで決まる。つまり、『どう生きたか』という中身で決まるのです」とつづっている。
  
 先述の紫式部は内向的で繊細だったそうだ。内裏の生活と人間関係が合わず、引きこもったこともあるという。だが、その繊細さが人の機微や世の流れを読み取り、今日に至るまで、多くの人を魅了する登場人物や物語を書き上げる力となったのではないだろうか。苦悩の中を生き抜いた紫式部の思いが、いつの時代も人々の心を動かすのだろう。
  
 自分の個性をマイナスだと捉えず、プラスに前へ前へと貫く中で、活路が開けていくことを確信したい。
  
 (男子部教学室  髙橋一政)