〈記念特集〉 永遠の原点「5・3」に刻まれた創価の歴史2024年5月3日

  • 元初の五月三日から希望に燃えて正義の師子吼を!

“青年会長”の誕生に歓喜が爆発――1960年5月3日、32歳の池田先生が第3代会長に就任。祝賀会終了後、青年たちが駆け寄り、先生を胴上げした(東京・墨田区の日大講堂〈当時〉で)

“青年会長”の誕生に歓喜が爆発――1960年5月3日、32歳の池田先生が第3代会長に就任。祝賀会終了後、青年たちが駆け寄り、先生を胴上げした(東京・墨田区の日大講堂〈当時〉で)

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第1回北海道体育大会「若人の祭典」での戸田先生と池田先生。恩師が5月3日の会長就任式で掲げた「75万世帯」の達成へ、弟子は常に先頭に立った(1957年8月、札幌・美香保グラウンド〈当時〉で)。※モノクロ(白黒)写真を、デジタル技術を使ってカラー化した

第1回北海道体育大会「若人の祭典」での戸田先生と池田先生。恩師が5月3日の会長就任式で掲げた「75万世帯」の達成へ、弟子は常に先頭に立った(1957年8月、札幌・美香保グラウンド〈当時〉で)。※モノクロ(白黒)写真を、デジタル技術を使ってカラー化した

 戸田先生が逝去して2年後となる60年(同35年)5月3日、広宣流布の大誓願を受け継ぎ、池田先生が第3代会長に就任。4年後の恩師の七回忌までに、300万世帯を成し遂げようと訴えた。
 この師子吼に同志の心は燃え上がり、怒濤の前進を開始。62年(同37年)11月、早くも300万世帯が達成される。
 池田先生の力強いリーダーシップで広布の勢いは大きく加速し、今、創価の連帯は世界192カ国・地域に広がった。
 池田先生は呼びかけた。「さあ、元初の五月三日から、大いなる希望に燃えて、正義の師子吼を轟かせゆくのだ。今再び、異体同心の団結で、新たな一歩前進を開始しよう!」
 5月3日とは、師匠との誓いに立ち返る「永遠の原点の日」であり、新たな広布の峰へ決然と出発する日である。
 

【1951年】戸田先生が第2代会長に就任

会長就任式で話す戸田先生

会長就任式で話す戸田先生

 1951年(昭和26年)5月3日、戸田城聖先生が第2代会長に就任。生涯の願業として「75万世帯の弘教」を宣言し、学会の大前進が始まった。
 だが、ここまでの道は過酷を極めた。戦後の経済の混乱は戸田先生の事業に大きな打撃を与えた。新たに着手した信用組合も暗礁に乗り上げ、50年(同25年)8月に業務停止に。責任の波及を懸念した戸田先生は、学会の理事長を辞任する――。その苦境の師を支えたのが若き池田先生だった。社員が次々と去る中、戸田先生の会社に残り、孤軍奮闘した。“負債を全て返し、先生に会長になっていただくのだ!”と心に決めた。
 目標は5月3日。戦時中、創価教育学会の最後の総会が43年の5月2日に行われたことから、その“次の日”を、新生・創価学会の出発に――そう祈りを定めた、と池田先生は語ったことがある。
 そして51年3月、信用組合が解散。戸田先生の会長就任への道が開かれたのである。

【1958年】池田先生が「七つの鐘」の構想を発表

世界広布は青年の熱と力で!――師弟の誓いに燃えて、対話拡大に率先する友

世界広布は青年の熱と力で!――師弟の誓いに燃えて、対話拡大に率先する友

 1958年(昭和33年)4月2日、第2代会長・戸田先生が逝去。一部のマスコミは、指導者を失った学会は“空中分解”すると中傷した。
 そうした中、悲しみに沈む同志へ新たな希望を送ろうと、当時、青年部の室長だった池田先生は、5月3日の春季総会で「七つの鐘」構想を発表した。これは戸田先生が生前、“学会は創立以来、7年ごとに大きな前進の節を刻んできた”と語っていたことから着想したものであった。
 壮大な未来への指標に同志の胸は躍った。
 その後、「第五の鐘」の目標である会員300万世帯を達成。「第六の鐘」で750万世帯を超え、「第七の鐘」が鳴り終わる79年(同54年)までに、日本の広宣流布の基盤が確立されていく。

【1960年】池田先生が第3代会長に就任

会長就任式に臨む池田先生の胸に、香峯子夫人が「會長」の胸章を挿す

会長就任式に臨む池田先生の胸に、香峯子夫人が「會長」の胸章を挿す

 恩師の逝去後、総務として奔走する池田先生に正式な会長就任の要請があったのは、1960年(昭和35年)3月30日であった。先生は大阪事件の裁判が続いていたことなどから一度はそれを固辞するも、理事たちの再三の要請に、ついに受諾。同年4月19日、緊急の全国代表幹部会で、先生の会長推戴が伝えられ、会場は歓喜に包まれた。
 晴れ渡る5月3日、東京・墨田区の日大講堂で第3代会長就任式が挙行され、壇上に立った池田先生は力強く師子吼した。「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」
 先生は就任5カ月後に、北南米を訪問。師から託された世界広布へ第一歩をしるす。

創価の人間主義の連帯は今や、192カ国・地域に広がる

創価の人間主義の連帯は今や、192カ国・地域に広がる

【1969年】創価大学に建学の精神を示す

豊かな自然に囲まれた創価大学のキャンパス(東京・八王子市)

豊かな自然に囲まれた創価大学のキャンパス(東京・八王子市)

 1969年(昭和44年)5月3日の本部総会で池田先生は、深刻な社会問題となっていた大学紛争に触れ、新時代の大学像について言及した。
 建設が進む創価大学の基本理念として「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」とのモットーを発表。併せて、学内運営における学生参加の原則や通信教育などの展望も示した。
 創大はこの建学の精神を掲げ、71年(同46年)4月2日、東京・八王子市に開学。69カ国・地域、260大学(3月末現在)と交流を結ぶなど、五大陸から学生が集い来る“世界市民の学びや”へと発展を遂げている。

【1970年】「広宣流布は流れそれ自体」と明言

師から託された広布後継のバトンを握りしめ、朗らかに前進する宝の未来部

師から託された広布後継のバトンを握りしめ、朗らかに前進する宝の未来部

 750万世帯を達成して迎えた1970年(昭和45年)5月3日、会長就任10周年を刻む本部総会が開かれた。
 池田先生は来たる21世紀を展望し、広宣流布は「流れの到達点ではなく、流れそれ自体」であり、“妙法の大地に展開する大文化運動”であるとの広宣流布観を示した。続いて、学会と公明党の関係について触れ、組織的に双方を明確に分離することを表明。さらに、仏法の人間主義の思想を基調とした社会建設の重要性を強調した。
 また学会の組織形態を、紹介者と新入会者のつながりで構成される従来の「タテ線」から、地域を基盤とする「ヨコ線」へ移行すると発表した。

【1979年】神奈川で「共戦」と揮毫、5日には「正義」と

2009年4月に行われた全国代表協議会の席上、1979年5月3日に大書した「共戦」の書を初めて披露する池田先生。「真実の同志――それは、私と心一つに、広宣流布へ戦う皆様方である」「未来に生きる皆さんは、私との『共戦』の人生を歩み抜いてほしい」と訴えた(東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)

2009年4月に行われた全国代表協議会の席上、1979年5月3日に大書した「共戦」の書を初めて披露する池田先生。「真実の同志――それは、私と心一つに、広宣流布へ戦う皆様方である」「未来に生きる皆さんは、私との『共戦』の人生を歩み抜いてほしい」と訴えた(東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)

 第1次宗門事件の渦中だった1979年(昭和54年)4月24日。池田先生は、宗門の悪僧らによる理不尽な攻撃から大切な会員を守るため、一切の責任を負って第3代会長を辞任した。
 そして5月3日、創価大学での本部総会に出席。これが実質的な“会長辞任式”となった。終了後、先生は神奈川文化会館へ。「共戦」と揮毫し、脇書に記した。「生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の同志あるを 信じつつ 合掌」と。2日後の5日には「正義」と筆を走らせ、脇書に「われ一人正義の旗持つ也」と書きとどめた。
 後年、この時の真情をつづっている。“私は断じて戦う。たった一人になっても。師弟不二の心で断固として勝利してみせる。正義とは、どこまでも広宣流布の大道を進み抜くことだ!” 

【1980年】関西の地で「五月三日」と大書

子どもたちを励ます池田先生(1980年5月3日、関西文化会館で)

子どもたちを励ます池田先生(1980年5月3日、関西文化会館で)

 会長辞任から1年後の1980年(昭和55年)、池田先生は関西の地で5月3日を迎えた。大阪市の関西文化会館で開かれた「5・3」記念の勤行会に出席。愛する同志を抱きかかえるように励ました。また、随所で友と記念撮影し、固い握手を交わした。
 その日の夜、先生は大阪・豊中市で「五月三日」と大書した。脇書には、戸田先生の第2代会長就任の「昭和二十六年」、池田先生の第3代会長就任の「昭和三十五年」など学会の節目となる「五月三日」を列記。さらに「昭和五十八年」「西暦二〇〇一年」と、“未来の五月三日”をしたためた。これには、“この時を目標に、必ず新たな創価学会の大発展の流れを!”との誓いが込められていた。
 そして5月3日について、「此の日は わが学会の原点也」と書きとどめ、“反転攻勢”への助走を開始した。

【1988年】初の「創価学会母の日」を記念する式典

1988年4月27日の第1回全国婦人部幹部会で、広布に生き抜く創価の女性をたたえ、池田先生が“5月3日を「創価学会母の日」に”と提案した(東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)

1988年4月27日の第1回全国婦人部幹部会で、広布に生き抜く創価の女性をたたえ、池田先生が“5月3日を「創価学会母の日」に”と提案した(東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)

 1988年(昭和63年)4月27日、東京・信濃町での第1回全国婦人部幹部会に出席した池田先生は、学会の重要な節目である5月3日を、“婦人部(当時)を最大にたたえ、顕彰する日としてはどうか”と提案。「創価学会母の日」が制定された。
 同年5月3日に開催された「5・3」の記念式典。先生は初めて迎えた「創価学会母の日」を心から祝福し、「広布のため、日夜、弘教に奔走されている皆さま方こそ、無量の功徳を満喫しゆく“幸の王者”であってほしい。胸を張って闊歩しゆく“人生の勝者”であってほしい」と呼びかけた。
 以来36星霜。「5月3日」は、広布に奮闘する全世界の“母”に感謝し、たたえる日となっている。

【2001年】アメリカ創価大学が開学 

オレンジ郡アリソビエホ市の丘に広がるアメリカ創価大学のキャンパス

オレンジ郡アリソビエホ市の丘に広がるアメリカ創価大学のキャンパス

 2001年(平成13年)5月3日、米カリフォルニア州オレンジ郡アリソビエホ市にアメリカ創価大学(SUA)が開学した。それは、戸田先生が第2代会長に就任して50周年となる日だった。
 創立者の池田先生は開学式にメッセージを贈り、祝福。「私は皆さま方に、賭けております。未来の一切を託しております」と期待を寄せた。
 幅広い教養と人間性を育むリベラルアーツ(一般教養)の大学としてスタートしたSUA。卒業生は1700人を超え、名門大学の大学院への進学をはじめ、法曹や教育など多彩な舞台で活躍する。
 そして今、創価の学びやは世界7カ国に広がる。マレーシアでは本年、創価インターナショナルスクール・マレーシアが開校。創価教育の光が人類の未来を明るく照らす。

【2021年】平和の世紀の太陽「女性部」が発足

創価の太陽・女性部。幸のスクラムを広げ、地域や社会に希望を送る

創価の太陽・女性部。幸のスクラムを広げ、地域や社会に希望を送る

 2021年5月3日、婦人部・女子部結成70年の歴史を昇華して、「女性部」が発足した。これは女性の社会進出、ライフスタイルや価値観の多様化という時代の変化を踏まえつつ、一人一人が力を発揮し、永遠に広布の「未来の門」を開くためのもの。
 池田先生は、その新出発を祝賀し、「安心して、いよいよ明るく誇り高く、いよいよ仲良く朗らかに、世界第一の『桜梅桃李』のスクラムを組んで、『女性の希望の世紀』すなわち『生命尊厳と平等そして平和の世紀』を創り光らせていってください」と限りない期待を寄せた。
 きょうで結成から3周年。今月、女性部総会が列島各地で行われる。同部の友は、平和の世紀を開きゆく誓いに燃え、使命の道を駆けゆく。