〈翻訳者に聞く〉 酒寄進一さん(ドイツ文学者)2024年5月1日

  • 新訳「若きウェルテルの悩み」が好評

 文豪ゲーテの出世作にして代表作『若きウェルテルの悩み』が、みずみずしい現代語訳でよみがえった――ドイツ文学者の酒寄進一さん(和光大学教授)による新訳が、光文社古典新訳文庫から刊行され、好評を博している。
 
 児童文学からミステリーまで数多くの訳書で知られる酒寄さん。
 同文庫からの古典新訳はヘッセ作『デーミアン』とビュルガー作『ほら吹き男爵の冒険』に続き、本書が3作目。
 「3作とも10代に読みました。私がドイツ文学の翻訳で身を立てようと志す以前、私の読書経験の原点にあるような名作を、まさか自分が訳すことになるとは。翻訳者冥利に尽きます」
 

◆初版が映すゲーテ出世作の普遍性

 本書最大の特色は、原作の初版(1774年刊)を底本にしたこと。
 邦訳のほとんどが改訂版(87年刊)を底本とし、本国ドイツを含めて〈ウェルテル〉と言えば改訂版の内容が認知されている。
 だが、出版後に“一大ウェルテルブーム”を巻き起こしたのは、25歳のゲーテがほとばしる情熱のまま執筆した初版だった。
 そのことを酒寄さんが知ったのは、潮出版社刊『ゲーテ全集』第6巻(1979年初版)所収、神品芳夫氏訳の「若きヴェルターの悩み」を読んだ80年代後半のことという。
 「衝撃でした。留学中に原書でも読んでいたのに、神品訳からは別作品のような印象を受けたのです。“〈ウェルテル〉は失恋・悲劇がメインながらも、自然への憧憬、人間関係や社会のひずみとの葛藤などを描いた、もっと普遍性のある小説だ”と。本書も、このことを共有したいと思い、神品訳と同じく初版を底本にしたのです」
 

光文社古典新訳文庫・858円

光文社古典新訳文庫・858円

◆神品芳夫氏の〈初邦訳〉から45年

 本年2月11日、神品氏は92歳で死去。
 酒寄さん訳の本書は同月20日に発刊された。
 「運命的なものを感じます。本書を読んでもらいたかったですね。私の場合、初版と改訂版の比較研究がドイツで進み、見開きで両版が読める『対比版』を参照しながら訳出できました。神品さんの場合、ドイツでも初版を読むのが難しかった時代に、潮の全集で初版の初邦訳をされたのは大変な功績だと思います」
 「神品さんとは京都で一度だけ、お目にかかりました。あの時、なぜ〈ウェルテル〉を話題にしなかったのか。悔やまれます」
 

◆自己中心的になり破滅する精神の変容

 酒寄さんの捉える〈ウェルテル〉の魅力とは。
 「人間、誰しも何かしら悩みを抱えます。挫折したり壁にぶつかったりした時に読むと、〈ウェルテル〉からエールがもらえる。そんな小説だと思います」
 「また、本書の解説でも詳しく触れましたが、自分の周りに配慮できていた作中主体が、だんだん自己中心的になり、破滅する作品でもある。これは邦訳してしまうと分かりづらいのですが、ドイツ語では言葉遣いの変化によって精神の変容を映しゆく小説であることが分かります。そして何より、自然描写が素晴らしい。色彩豊かな原作らしさを意識して訳しました」
 

◆次の手紙までの“間”も味わいたい

 加えて、書簡体小説ならではの楽しみ方もあるという。
 「じっくり読んでほしい作品です。例えば、手紙の日付、5月4日や12月21日など、その日に読むとか。実際、ドイツで2年前に実行しましたが、温度や空気感などと共に内容が迫ってきた。〈再現〉までせずとも、次々読まずに1日置いて読んでほしい」
 「次の手紙が3、4日後にタイムラグをもって書かれる意味まで、ゲーテは設定しているように思います。“一行一行ゆっくり”という意味ではない、スロー・リーディング(遅読)をお勧めします」