〈パイオニアの誇り〉 オーストラリア ミチアキ・ヨシザワさん、メン・ゴーさん2024年4月30日

 各国・地域の広布の礎を築いてきた、開拓者たちの師弟共戦の軌跡と信仰体験に迫る「パイオニアの誇り」。今回は、オーストラリアのメルボルンとパースの友を紹介します。

メルボルン ミチアキ・ヨシザワさん

ヨシザワさん㊨と妻のキヨコさん

ヨシザワさん㊨と妻のキヨコさん

「師の心」胸に広布の原野を開拓

 日本で飛翔会(働き学ぶ2部学生の集い)の1期生として薫陶を受け、男子部時代には創価班の一員として、池田先生のスピーチを伺う機会に恵まれました。第1次宗門事件の渦中にあって、私たち青年部に対して“世界広布を頼む!”と何度も語られる師の姿に、胸を熱くしました。
  
 1980年、仕事の関係でオーストラリアを訪れた際、シドニー会館を訪問。地元の同志と勤行した時、“オーストラリア広布の役に立ちたい!”と決意。82年、奇跡的に永住権を取得でき、ビクトリア州の州都メルボルンに移住しました。鉄板焼きの料理人として働き、すぐに免税店に転職。86年には、妻のキヨコと結婚し、彼女も日本から渡豪してくれました。
  
 当時、メルボルン支部には三つの地区がありました。地区といっても、メンバーに会うためには、車で何時間も走らなければなりません。
  
 最初は、男子部の活動者は数人でした。私の言葉の端々に、“日本ではこうなんだ”という傲慢な気持ちが表れていたのでしょう。よくメンバーから、“ここはオーストラリアだ”と言われました。それでも、互いに尊敬し合い、一つの行事の成功を目指して団結する中で、皆で信心を磨いていきました。支部総会で、男子部・学生部ら20人による組み体操を成功させたことは金の思い出です。
  
 池田先生はかつて、「オーストラリアで一人を折伏するということは、日本で100人を折伏することに匹敵するんだよ」と語られました。オーストラリアは個人主義が強く、一人一人が自分の考えを持ち、自分の行動に責任を持たなければならない社会です。もともとは白豪主義の国で、国民のほとんどがキリスト教徒でした。ですから、日本の草創期のように大きく折伏が進むということはありませんでした。
  
 その中にあって、草創の同志は、地道に一人また一人と対話を重ね、信頼を広げていきました。青年部も、海外からの留学生がメルボルンに定住するようになるなど、徐々に増えていきました。

男子部や留学生など多くのメンバーが集った支部総会(1984年11月)

男子部や留学生など多くのメンバーが集った支部総会(1984年11月)

 壮年部に移行した後、地区部長を務め、メルボルンを中心とするビクトリア方面の副方面長として広布のために駆けました。副方面長を終えた後、もう一度、地区部長として、メルボルンの中心部から西側の郊外にまたがる地域を担当。特に郊外は、最初は数人のメンバーしかいませんでしたが、海外からの移住者も増え、新しいグループ長(日本のブロック長・白ゆり長)が次々と誕生し、地区から支部に発展しました。
  
 仕事の面では現在、念願かなって、公共バスの運転手として働いています。子どもたちも信心を継承し、長女はアメリカ創価大学を卒業しました。男子部時代に立てた“世界広布のために!”との師匠との誓いに生き、妻と一緒に人生を大きく開かせていただき、感謝の思いでいっぱいです。
  
 82年に渡豪した際には、距離的に池田先生から離れてしまったと感じた時期もあります。しかし、オーストラリアの草創の同志に脈打つ師弟の心に、信心の偉大さを学ぶことができました。先生の励ましを受け、先生の思いに応えたいと、広布の原野を開拓する同志と一緒に活動する中で、自分の中でも、師匠の存在をより近く感じられるようになりました。
  
 池田先生は、オーストラリアで初めての支部を「メルボルン支部」と名付けてくださいました。その意味を深くかみ締め、未来を担う青年たちに先生の心を伝えていけるよう、私自身がもう一度生まれ変わった決意で、自身の人間革命に挑戦していきます。

パース メン・ゴーさん

遠く離れていても通い続ける

 母国マレーシアで、最初の夫との関係に苦しんでいた時、友人から日蓮仏法の話を聞きました。座談会に参加し、苦難を乗り越えたメンバーの体験に感動。唱題の実践で、宿命を転換していけることに勇気づけられ、1975年に入会しました。
  
 池田先生の御書講義を研さんし、幸福は自分の外にあるのではなく、自身の中から生み出していくものだと学びました。「冬は必ず春となる」(新1696・全1253)との御文を抱き締め、強くなりたい、幸せになりたいと、学会活動に真剣に取り組みました。
  
 酒好きで女遊びに走る夫の素行の悪さは変わりませんでした。信心する前は、夫が「出ていく!」と言った時、「何をしてもいいから、お願いだから出ていかないで」と懇願する私がいました。彼が「離婚したい」と言った時、それを受け入れられる強さを、そして、誰かに依存するのではなく、幸福は自身の力で開いていくのだとの信念を得られたことが、私の初信の功徳でした。
  
 イギリス留学を経て、現在の夫と再婚。親族が西オーストラリア州の州都パースに住んでいたため、私たち夫婦も87年にパースに移住しました。
  
 当時のパースは1地区で、メンバーは100人ほどだったと記憶しています。地区部長をしていたヒロシ・イトウさんが、“広布のために”と広い仏間のある自宅を建て、そこで毎月、会合をしていました。91年には支部に発展し、私も子育てをしながらグループ長、地区婦人部長、そして支部婦人部長と、広布のために奮闘してきました。

1990年6月に行われたパースの婦人部の集い

1990年6月に行われたパースの婦人部の集い

 メンバー一人一人と友情を大切に育み、ゆっくりですが着実に会員も増えていきました。パースへの移住者も増え、やがて個人宅では一堂に会することができなくなり、地域のコミュニティーセンターを借りて会合を行うように。そして2005年、念願の西オーストラリア会館が完成したのです。私が西オーストラリア方面の婦人部長を務めている時でした。
  
 その後、2007年から21年まで副理事長として、オーストラリア広布のために尽くす中、日本での研修会で、池田先生にお会いすることができました。現在は、グループ長として、また、パースから遠く離れた場所に住むメンバーの担当として活動しています。
  
 メンバーに会いに行くには車で数時間かかるため、朝早くに出発して、帰宅は夜になります。インド洋に浮かぶクリスマス島へは、飛行機を使って会いに行きます。そうした地域にはわずかなメンバーしかいませんが、皆さん、地域で広布を進めたいと真剣です。一緒に池田先生の指針を学び、語り合って、互いに決意を新たにしています。
  
 実は、副理事長を終えた時、遠く離れたメンバーの激励の担当をさせてほしいと、当時の理事長に、自分からお願いしました。私が75歳を超えていたので、心配されたのでしょう。“婦人部の後輩の方と一緒になら”ということで、私の後任の方面婦人部長だったマユミ・ミヤゾノさんと、二人三脚で活動しています。
  
 日蓮仏法をどう生活の中で実践し、応用していくのかを、池田先生が教えてくださったからこそ、私はこんなにも幸福な人生を歩むことができています。その恩に報いるには、先生の願いであり誓いである世界広布のために、弟子として尽くしていく以外にない。どんなに離れていても、そこにメンバーがいる限り、通い続けて、全力で励ましていくことが、自身の報恩の道だと決意しています。

  
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