〈ONE GOSHO この一節とともに!〉 妙法尼御前御返事(一句肝心の事)2024年4月28日

  • 同志と学び語り合う

男子部教学室編

 栄光の「5・3」から青年の月・7月へ――今回は「妙法尼御前御返事(一句肝心の事)」を拝して、教学を学び語り合う重要性を心に刻んでいきましょう。

御文

 末法のきょうこのごろ法華経の一句一偈のいわれをも尋ね問う人はありがたし。(新2098・全1402)

通解

 末法の今日において、法華経の一句一偈の意義を尋ね問う人はまれであり尊い。

背景

 本抄は、弘安元年(1278年)7月、日蓮大聖人が57歳の時に身延で著されました。
 「妙法尼」に当たる人物は、数人いたと考えられています。本抄を頂いた妙法尼が、かつて大聖人に「南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏になることができるのでしょうか」(新2098・全1402、趣意)と質問したことに対しての御返事です。
 大聖人は、法華経を受持する人は即身成仏(衆生がこの一生のうちに、その身のままで仏の境涯を得ること)の人であることを示され、一句一偈である南無妙法蓮華経の題目こそ法華経の肝心であり、題目に仏の功徳と修行の実践が含まれることを教えられています。
 さらに、竜女の即身成仏こそ法華経の偉大な功力の証明であり、疑ってはならないと示されています。

解説

 本抄では悪世末法の時代に、法華経の一句一偈(偈とは経典の中で詩句の形式を用いて、仏の徳を賛嘆したり、法理を説いたりしたもの)の意義を質問する人は尊いと仰せです。
 また、妙法尼が法華経について疑問を立て、質問をしたこと自体が、大変にまれな善の行いであると、最大にたたえられています。
 掲げた御文に続き、なぜ質問することが素晴らしいのか、「六難九易」の法理を通して教えられています。
 「六難九易」とは、仏の滅後に法華経を受持し弘通することの難しさを、六つの難しいこと(六難)と九つの易しいこと(九易)との対比をもって示したもので、法華経見宝塔品第11に説かれています。
 九易とは、「須弥山をとって他方の無数の仏土に投げ置く」ことや「足の指で大千世界を動かして遠くの他国に投げる」ことなど、いずれも不可能な事例を指します。
 一方、六難とは、①悪世のなかで法華経を説く、②法華経を書き、人にも書かせる、③悪世のなかで、しばらくの間でも法華経を読む、④一人のためにも法華経を説く、⑤法華経を聴受してその義趣(意味)を質問する、⑥法華経をよく受持することです。
 妙法尼の質問は、六難の「意味を質問する」に当たり、須弥山を投げたり、大千世界を蹴り上げたりすることよりも、さらに難しいことなのです。ゆえに、大聖人は妙法尼が質問したことを喜ばれ、大変に尊いことであると励まされています。
 私たちの日々の生活では、多くの場面で悩みや苦しみに直面します。一つ一つの課題にどのように向き合えば、乗り越えていけるのか、迷う時もあるでしょう。また、学会活動に励む中で、疑問に思う点や教学に関して分からないことが出てくることもあるでしょう。妙法尼の質問の背景にも、切実な悩みや疑問があったかもしれません。
 そんな時に支えとなるのが、学会の先輩や同志の存在です。自分の悩みを相談したり、素朴な疑問を率直に質問したりしてみましょう。“こんなことを聞いていいのかな”と遠慮する必要はありません。
 また、質問を受ける側も「分からないことはありませんか」「よくぞ聞いてくれました」と共に学び合う姿勢が大切です。
 池田先生はつづっています。
 「大聖人には、なんでも聞ける自由な雰囲気があったのでしょう。なんでも話せる。なんでも聞ける。にぎやかに語り合う雰囲気があるところは、明るいし、楽しい。進歩がある。それが、広布前進のリズムなのです」
 6月には教学部任用試験(仏法入門)が実施されます。新たに教学研さんを始める友や学会活動に立ち上がった友のみならず、教える側、応援する側を含む全員が、成長の節を刻む絶好の機会です。共々に御書を学び、何でも語り合いながら、信心の確信を深めていこうではありませんか。