おはようございます。部屋の温度は18℃。生涯池田先生と共に。世界平和と入っても一人一人の幸福から。最高の生き方を説く法華経を、生活にどう反映させるかを教えてくれたのは先生だ。その現実を変えながら平和への流れを築いていこう。今日もお元気で!

 

「石川の日」「富山の日」50周年2024年4月28日

  • わが魂を北陸に置き留め、同志を守り抜かん

 50年前のきょう4月28日、池田大作先生は、地元の来賓や約5000人の友が集い、石川県産業展示館で開催された「北陸広布20周年記念総会」に出席。この日を「石川の日」「富山の日」に制定することを提案した。以来、北陸の同志は「4・28」を、自らの宿命転換と地域広布伸展の節目として、前進を重ねてきた。 
 

北陸広布20周年記念総会で友を激励する池田先生(1974年4月28日、石川県産業展示館で)。“いつまでもいつまでも健康で、福運をますます開いて、北陸の新天地を築いてください”と呼びかけた

北陸広布20周年記念総会で友を激励する池田先生(1974年4月28日、石川県産業展示館で)。“いつまでもいつまでも健康で、福運をますます開いて、北陸の新天地を築いてください”と呼びかけた

 
寸暇を惜しんでの激励

 諸天も寿ぐかのように、中天に七彩の虹がかかった。1974年(昭和49年)4月28日、池田先生が出席して、「北陸広布20周年記念総会」が晴れやかに行われた。この総会が「石川の日」「富山の日」の淵源である。
 会場の石川県産業展示館の左右の壁には、縦7メートル、横20メートルの大パネルが設置された。約12万個の色とりどりの造花で制作された壁絵である。
 正面向かって右手が、石川の兼六園を描いたパネル。左手には、富山の五箇山の合掌造り集落を表現したパネルが飾られた。それぞれ、両県が誇る文化遺産である。「師とともに!」「世界の北陸へ!」との誓いを込めて、北陸の友が一つ一つを手作業で作り上げた。
 一人でも多くの参加者を迎えるため、同館内で第2会場も用意された。音量調節など、事前の準備には未入会の友の姿もあった。
 池田先生が会場に到着して、最初に行ったのが、来賓の受付役員をしていた女子部員(当時)に感謝を伝えることだった。陰で奮闘する友を励ますことから、先生の戦いは始まった。
 その後、先生は北陸訪問の時に再会を約束していた同志と懇談のひとときを。さらに、役員に就いている若人たちに贈るため、「君も起て 我も起つぞと 白馬山」など、次々に揮毫した。総会開始までの時間も惜しんで、先生は北陸の友の幸福と勝利を願い、激励の戦いを続けたのである。
 午後2時半、総会の第1部である「北陸伝統文化祭」の幕が開いた。「歓喜の人間春」をテーマにした文化祭は、北陸の伝統芸能が繰り広げられた。
 江戸時代の加賀藩の大名火消し「加賀鳶」をモチーフとした梯子上りや、五箇山民謡「といちんさ」が披露された。郷土愛あふれる演目は、来賓の胸を打った。
 この日、戸田城聖先生とゆかりのある来賓が出席していた。大聖みつさん(故人)。大聖さん一家は1907年(明治40年)、戸田先生の生家を購入した。

 大聖みつさんは、戸田先生が故郷をしのび、生家を訪ねてきたことを記憶していた。
 「あれは昭和17年(1942年)の晩秋だったと思います」
 「玄関先の『ごめんください!』という声で急いで回ってみると、幼かった日を思慕するかのように、柱をなでておられました。その目には涙が光っていました」
 そう振り返りながら、大聖さんの目にも涙が光った。

「新世紀 胸に抱きて 乱舞せる 北陸健児の 栄光開けり」――1984年8月26日、池田先生が「第1回北陸平和文化祭」の健闘をたたえて詠んだ和歌

「新世紀 胸に抱きて 乱舞せる 北陸健児の 栄光開けり」――1984年8月26日、池田先生が「第1回北陸平和文化祭」の健闘をたたえて詠んだ和歌

 
潔い信心を根幹に

 1974年(昭和49年)、池田先生は3月から4月にかけて、38日間にわたって、アメリカ、パナマ、ペルーを歴訪。さらに、5月には初訪中、9月には初訪ソを果たしている。
 世界を舞台に、平和の道を開く人間外交を展開している中で、北陸広布20周年記念総会に出席したのである。
 第1部の終了後、加賀市立緑丘小学校への図書贈呈式が行われた。同校の校長は「加賀市は、戸田先生がお生まれになった地とお聞きしました」「改めて池田先生の師匠を思う心の深さに感動しました」と語った。
 第2部では、先生がスピーチ。4月28日が「立宗の日」であることを踏まえて語った。
 「大聖人の仏法は『一切の根源は“生命”それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに“人間生命”そのものである』という哲理であり、思想なのであります」
 さらに、石川、富山の県民性に触れ、「富山は、はつらつたる進取的な実利主義に生き、石川は絢爛たる文化主義に生きている」と指摘。互いの長所を出し合いながら、理想の郷土建設へ前進していくよう望んだ。
 当時、富山の女子部のリーダーとして参加した林和子さん(富山総県女性部総主事)は、先生が北陸の地理的・歴史的背景から県民性について言及したことに感動した。
 「先生は富山の実利主義も大事だが、『知性の薫風』が必要とも言われました。感情に流されない『賢者の生き方』を教えていただきました」
 第2部の席上、先生は信仰者としての姿勢を強調した。
 「人間、何事かを成し遂げようとするならば、気合いよく体当たりしていく態度というものが、非常に必要なのではないかと思う」
 「学会活動にせよ、文化活動にせよ、あらゆる職業にせよ、潔い信心を根幹として、本当に腹の底から好きになっていくことが大切であろう」
 総会の実行委員長を務めた中村利明さん(石川総県主事)は、師の言葉を人生の指針とした。妻・せつ子さん(支部副女性部長)の病など、試練に立つたびに「潔い信心」に奮い立ち、勝利の実証を示してきた。
 総会の折、先生は中村さんに、「晴れの旅 征かなむ共に 不退道」と詠み贈っている。中村さんは今も、胸中の師と共に、“不退の道”を進み続けている。

総会の日に結成された大学会のメンバーが、大桶焼(おおひやき)の鉢に署名。池田先生は筆をとり、中央に「知性 四月二十八日」と揮毫した(1974年4月28日、石川県産業展示館で)

総会の日に結成された大学会のメンバーが、大桶焼(おおひやき)の鉢に署名。池田先生は筆をとり、中央に「知性 四月二十八日」と揮毫した(1974年4月28日、石川県産業展示館で)

1982年9月、池田先生は北陸の歌「ああ誓願の歌」の歌詞に、「富山の友の 誠意を謝し 御多幸を祈りつつ」と記した。「ああ誓願の歌」は78年8月、先生が友の要請に応えて作詞したもの。その折、「大誓願に生きることが、最も人生を輝かせていける道なんです」と強調した

1982年9月、池田先生は北陸の歌「ああ誓願の歌」の歌詞に、「富山の友の 誠意を謝し 御多幸を祈りつつ」と記した。「ああ誓願の歌」は78年8月、先生が友の要請に応えて作詞したもの。その折、「大誓願に生きることが、最も人生を輝かせていける道なんです」と強調した

 
唯々学会員が大切

 池田先生の北陸の友への励ましは、総会翌日の29日も続いた。この日、先生は小松会館に初めて足を運んだ。
 同会館の庭で記念植樹を終えた後、先生は机に向かい、筆を走らせ始めた。「地味なれど やがて咲け咲け 蓮華花」「まっしぐらに 学会の道を 広布の道を」などと自著に揮毫し、友へ贈った。
 その後、館内にいた同志と勤行・唱題し、こう呼びかけた。
 「さあ、北陸を日本一の楽土にするため、頑張ろう。私も働く。皆さんもわが愛する郷土の発展のために働いてください」
 一瞬の出会いに全精魂を注ぐ師に、広布拡大の誓いを新たにする友がいた。小松会館の管理者を務めていた浜出栄子さん(故人)である。
 浜出さんは石川広布の一粒種。信心を始めたのは、1954年(昭和29年)である。
 重度の結核に苦しんでいた時、友人から仏法の話を聞いた。入会後、祈りを重ねる中で、治療も奏功し、みるみるうちに病を克服。その喜びを語り歩いた。
 60年(同35年)、浜出さんは、金沢支部の初代支部婦人部長の任命を受ける。同年11月12日、第3代会長就任後、池田先生は初めて北陸を訪問し、富山支部の結成大会に出席。翌13日には、金沢支部の結成大会に臨んだ。
 終了後、浜出さんは先生が乗る車に同乗した。途中、雨が降り始めた。先生は「青年部は後片付けが大変だから、遅くなって風邪などひかなければいいが……」と語ると、題目を唱え始めた。
 しばらくすると、先生は浜出さんたちに、「七尾まで帰るには、どのくらい時間がかかりますか」「珠洲まではどうですか」と尋ねた。1時間半ほどの移動の間、能登方面をはじめとする友のことを思い、先生の唱題の声が車中から途絶えることはなかった。
 浜出さんは今までにない感動を覚えた。“これほどまでに青年のことを思い、会員のことに気を配られるなんて……”。以来、少しでも師の心に近づこうと祈り、広布の最前線を駆けた。
 先生の小松会館訪問後、浜出さんは感謝の手紙をしたためた。先生から返信のハガキが届いた。
 「お手紙ありがとう。共に此の世の人生を妙法につつまれながら朗らかに、そして、有意義に生きぬきましょう。私は唯々学会員が大切です。それのみを願い祈って生きつづけております。ブロックの方々に宜しく」
 文面には、北陸の同志を愛してやまない先生の率直な思いがつづられていた。
 ◆◇◆ 
 82年(同57年)9月、先生は石川の地で筆を執り、「誓」としたためた。その真情を、先生はこう記した。
 「わが魂を北陸に置き留め、同志を守り抜かん」
 師の真心は、北陸の同志を温かく包み込んでいる。

池田先生が小松会館を初訪問(1974年4月29日)。居合わせた友に万感の励ましを送った

池田先生が小松会館を初訪問(1974年4月29日)。居合わせた友に万感の励ましを送った

石川県小松市内を流れる前川(1982年9月、池田先生撮影)。豊かな自然と伝統文化が薫る石川は、戸田先生の生まれ故郷。池田先生は「いつも恩師とご一緒に帰郷を果たす思いで、幾たびも北陸を訪問してきました」と

石川県小松市内を流れる前川(1982年9月、池田先生撮影)。豊かな自然と伝統文化が薫る石川は、戸田先生の生まれ故郷。池田先生は「いつも恩師とご一緒に帰郷を果たす思いで、幾たびも北陸を訪問してきました」と