〈闘魂TALK〉 学会の教学って何か変わったの?2024年4月27日

 三代会長が築いた創価学会の歴史や教学を学ぶ新連載「闘魂TALK」。今回は、ヤング男子部である地区リーダー・翔太さんの疑問に、祖父・三郎さんが答えます。
 

Q:学会の教学って何か変わったの?

 
A:学会は永遠に「御書根本」

 翔太 2013年に「広宣流布大誓堂」が完成して以来、この10年でいろんなことがあったよね。勤行の御祈念文が新しくなったり、最近も『日蓮大聖人御書全集 新版』や『創価学会教学要綱』が発刊されたりして。学会の教学って、何か変わったの?
 
 三郎 それは、創価学会が宗門(日蓮正宗)と完全に決別し、日蓮大聖人の仏法の本義に立ち返ったということなんだよ。池田先生のご指導のもと、世界教団としての宗教的独自性をより鮮明にするためにな。これは、仏教史における壮挙ともいえるね。
 
 翔太 宗教的独自性って、どういうこと?
 
 三郎 学会は創立以来、大聖人の御遺命のままに、和合僧団としての自覚と責任に立って、御書根本に、現実に即して仏法を世界に広く展開してきた。その教義上の正当性が、この10年の歩みの中で明らかにされてきたんだ。昨年に発刊された『教学要綱』は、御書根本・大聖人直結の学会が“日蓮仏法の唯一の正統”であることを明確に示したものなんだ。
 
 翔太 なるほど。学会員一人一人の信仰の実践は、何も変わったわけではないんだね。
 
 三郎 その通りだ。一方で、広宣流布の運動が破竹の勢いで広がって、世界各国で大聖人の仏法を信奉する創価学会の社会的な存在感が増した今、「創価学会とはいかなる宗教団体であるか」という問いに答えることが必然的に要求される。そこで、各国の仏教団体や宗教団体、ひいては社会全体に向けて、学会の教義を教学的な見解を踏まえて客観的に説明することが、世界教団としての当然の責務となってきていたんだよ。

2021年11月18日の「創価学会創立記念日」に発刊された『日蓮大聖人御書全集 新版』

2021年11月18日の「創価学会創立記念日」に発刊された『日蓮大聖人御書全集 新版』

 
不惜身命の闘争が人間革命の直道

 翔太 その学会の教学の根幹になっているのが、日蓮大聖人の「御書」ということか。
 
 三郎 そうさ。日興上人が「当門流においては、御書を心肝に染め、極理を師伝して」(新2196・全1618)と仰せのように、「御書根本」こそが日蓮門下の信心の正道だ。だから学会は草創期からずっと「御書根本」で進んできたし、その精神は永遠に変わらない。一方、日興上人を開祖と形式的にあおぐだけで、御書を軽視してきたのが宗門なんだよ。
 
 翔太 え、そんなに御書をないがしろにしてきたの?
 
 三郎 歴史を振り返れば分かるさ。戦争中、軍部政府におもねった宗門が御観念文を改ざんし、御書の発刊を禁止したこともあった。さらには、「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(新1315・全974)など、大聖人が末法の御本仏としての確信を記された御文をはじめ、重要な御聖訓を14カ所も削除してしまったんだ。
 
 翔太 まさに“保身”だね。軍部政府と戦い抜かれた牧口先生、戸田先生とは大違い。
 
 三郎 戦後、戸田先生が御書の発刊を提案した時だって、宗門は“出版は了承するが援助はしない”と冷たかった。当時は他宗派が発刊した不十分な御書しかなかったのにな。
 
 翔太 本来なら、宗門の方が真っ先に御書発刊の手を打つべきだよね。
 
 三郎 そんな宗門の体たらくに、戸田先生は聖教新聞の寸鉄で「御山でゴシュ(御酒)は作っても、ゴショ(御書)を作れぬ坊主が居るってね」と手厳しく指弾されたこともあった。結局、御書の発刊は、第59代の堀日亨元管長から編纂の協力を得た以外、校正作業や資金の調達など全て学会が自力で行って、1952年(昭和27年)4月に実現したんだ。
 
 翔太 そのおかげで僕たちも御書をいつでも学べるようになったんだね。
 
 三郎 御書に「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候え」(新1639・全1213)とある。大聖人の仰せのままに仏法を実践する不惜身命の闘争に、身を投じられるか否か。それが自分の人間革命を可能にする直道だよ。
 
 翔太 求道の心で真剣に御書を拝して、学会伝統の「実践の教学」をこれからも貫いていくね!
 
(「闘魂TALK」の解説編はこちら