〈池田先生と聖教新聞〉 師と刻んだ発展の軌跡2024年4月20日

  • 新時代を開く共戦の師子吼を

 池田先生はつづった。〈恩師・戸田先生も、「大作、『日本中、世界中の人が読む聖教にしよう』と語り合った通りになったな」と、呵々大笑されているに違いない〉。聖教新聞は、1951年(昭和26年)4月20日に創刊された。今、電子版には世界223カ国・地域からアクセスがあり、海外の姉妹紙誌は90を数える。ここでは、「人間の機関紙」を信念に、池田先生と共に歩んできた本紙発展の軌跡を紹介する。

世界一への誓い

 聖教新聞の創刊は、嵐の中の船出であった。
 1950年(昭和25年)8月22日、戦後不況のあおりを受け、戸田先生が経営する信用組合は、大蔵省(当時)から業務停止が通達された。その話を聞きつけた記者が、スクープしようと近づいてきた。
 2日後の8月24日、戸田先生は記者に、事態打開の道筋を語り、無用な混乱を招かないために、報道はしばらく控えてほしいと率直に伝えた。記者は困惑しながらも、「わかった。よし、待ちましょう」と約束した。
 記者とのやりとりを終えた後、恩師は同行していた池田先生に語った。
 「一つの新聞をもっているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会もいつか、なるべく早い機会に、新聞をもたなければならんな。大作、よく考えておいてくれ」
 この師弟の語らいが、聖教新聞誕生の淵源である。8月24日は今、「聖教新聞創刊原点の日」として、その意義をとどめている。
 年が明けた51年(同26年)2月、戸田先生は池田先生に力強く宣言する。
 「いよいよ新聞を出そう。私が社長で、君は副社長になれ。勇ましくやろうじゃないか!」
 翌3月の17日、第1回の企画会が開かれた。その日、池田先生は日記にこう記した。
 「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を心に期す。広宣流布への火蓋は遂にきられた」
 4日後の21日には、編集会議が開かれ、紙名が「聖教新聞」に決定。当面は月3回刊、ブランケット判の2ページ建てにすることも決まった。
 同年4月20日、聖教新聞が創刊。第1号のトップの論説は、戸田先生が自らペンを執った。恩師はさらに、コラム「寸鉄」や「妙悟空」のペンネームで小説『人間革命』も執筆した。
 池田先生も、学会リーダーの人物紹介や歴史上の偉人の生き方を論じる原稿を書いた。師弟して聖教新聞の発展に、全精魂を注ぎ続けた。

広布の伸展とともに広がる世界の機関紙誌

広布の伸展とともに広がる世界の機関紙誌

手作りの言論城

 1965年(昭和40年)7月15日、聖教新聞は「日刊8ページ建て」へと発展した。
 日刊化に伴い、池田先生の執筆闘争も激しさを増した。「法悟空」のペンネームで、同年の元日付から始まった小説『人間革命』の連載は週3回から週7回に。地方指導や海外平和旅の時も、先生はかばんの中に原稿用紙を入れ、執筆を続けた。
 聖教のさらなる躍進のため、先生は自らペンを執りながら、紙面制作に携わる記者の育成にも全力を尽くした。
 記者からの要請に応え、記事の書き方や記者の姿勢を語り、見出しやレイアウトについてアドバイスすることもあった。ある時には、こう強調した。
 「見出し一つにしても、新しいヒラメキ、豊かな創造の輝きがないと読者を引きつけることはできない」
 また、ある時には「5年、10年、黙々と必死の思いで自分の力を磨いていかなければ、本物にはなれない」と訴えた。
 全国各地の激励行の折には、支局の記者にも励ましを送った。
 75年(同50年)10月の九州訪問では、支局の2人に聖教記者としての精神をこう語った。
 「峻厳な山に登らなければ、一流の登山家にはなれないように、幾多の難に耐え抜き、乗り越えてこそ人間革命がある」
 78年(同53年)4月28日、関西支社を訪問した時にも、職員と懇談。その場には、原稿が思うように書けず、自信を失いかけていた記者がいた。
 心の内を記者が明かそうとした瞬間、先生は固く握った拳の親指で、自らの頭をさしながら、烈々と訴えた。
 「聖教新聞の記事は、ここで書くんじゃないよ!」
 そして、今度は親指を胸にあて、「ここで書くんだ!」と力を込めた。人々の幸福と平和を実現する広宣流布を担い立とうとする燃え盛る情熱。その一念のほとばしりこそが、読者の魂を打つ――先生は、そう教えたのである。
 文は生命の発露である。記者は“聖教の記事は、自らの人間革命に挑みながら書くんだ”との師の指針と捉えた。戦いながら書き、書きながら戦う――記者は、その実践をやり抜いた。
 先生は、記者への激励とともに、広告や印刷、輸送業務など聖教に携わる、全ての人に心を砕いた。広布の言論城は、先生の手作りによって築かれたのである。

池田先生が新聞制作に取り組む職員に励ましを送る(1984年12月、東京・港区で)

池田先生が新聞制作に取り組む職員に励ましを送る(1984年12月、東京・港区で)

“戦う心”を鼓舞

 池田先生の激闘なくして、今日の聖教新聞の充実も発展もない。
 ある時は、会合での指導を終えた後、疲れた体を押して、聖教新聞の割り付けや見出しなどに目を通した。また、ある時は、降版時間のギリギリまで、自らの原稿に何度も何度も手を加えた。
 先生は述べている。
 「聖教の発展を考えない日は、一日たりともない。聖教と共に! 広宣流布の尊き同志と共に! これが、私の毎日のモットーである」
 遠く海外の地にあっても、聖教新聞のことが先生の心から離れることはなかった。1975年(昭和50年)5月、欧州・ソ連歴訪の折のこと。先生は聖教新聞本社に伝言を送った。
 「もっと気を引き締めて、いい新聞をつくっていくように」
 17日付10面の時事関連の紙面で、最後の2行分が空白になっている記事があった。そこに、先生は惰性を見たのである。絶えず価値を創造していくために、先生は新聞制作に携わる友の“戦う心”を鼓舞し続けた。
 93年(平成5年)2月11日、小説『人間革命』全12巻が完結。同年11月18日からは、小説『新・人間革命』の連載が開始された。「限りある命の時間との、壮絶な闘争」との覚悟で臨んだ連載は、2018年(同30年)9月8日に全30巻が完結する。
 『人間革命』と合わせると、連載は7978回に及んだ。日本の新聞小説史上、最長である。
 先生は聖教新聞を舞台に、不惜身命の執筆闘争を展開したのである。
 全生命を振り絞るようにして、ペンを執り続けた先生。それは――
 ただ、私たちの勝利と幸福のためである。
 ただ、世界広宣流布の前進のためである。
 ただ、恩師との誓いを果たすためである。
 世界聖教会館にある「聖教新聞 師弟凱歌の碑」の「永久に師弟共戦の師子吼が放ちゆかれることを信ずる」との先生の碑文を命に刻み、聖教新聞は仏法を根幹とした人間主義の哲理を発信し続けていく。

ペンを走らせる池田先生(1999年3月、東京・八王子市で)。「今日、作る新聞で、明日の勢いが決まる」――この信念のまま、先生は聖教新聞を舞台に、同志に希望を送る執筆闘争を繰り広げた

ペンを走らせる池田先生(1999年3月、東京・八王子市で)。「今日、作る新聞で、明日の勢いが決まる」――この信念のまま、先生は聖教新聞を舞台に、同志に希望を送る執筆闘争を繰り広げた