〈信仰体験〉 30年教壇に立った教員が大学教授に2024年4月13日

  • 子どもの自己肯定感を育むために

研究室で気さくに大学院生の相談に乗る内田さん。現場の教員や子どもたちのために「科学的根拠(エビデンス)に基づく教育」を目指して研究を重ねる

研究室で気さくに大学院生の相談に乗る内田さん。現場の教員や子どもたちのために「科学的根拠(エビデンス)に基づく教育」を目指して研究を重ねる

 【大分市】柔和な笑顔に包まれて、どれほど多くの生徒が可能性の羽を広げていったのだろう。教育一筋に生きる内田昭利さん(58)=副圏長(支部長兼任)=は、「全部、題目のおかげです。この信心はすごいですよ」と。突き抜けた確信と猪突猛進の行動力で、周囲があっと驚くような人生行路をたどっている。

母の背中から

 長野で豪農の跡取りに生まれた。内田さんは心臓に先天的な疾患(心室中隔欠損)があった。両親と共に家を追い出された。
 牛の飼育小屋で暮らし、ドラム缶風呂で暖を取った幼少期。5歳で心臓を手術した。一時は家に呼び戻されたものの、母は姑にいびられ、食事を並べたちゃぶ台を酒乱の父がひっくり返した。おなかをすかせた母子で片付けた。
 
 悲愴な顔つきの母が内田さんの手を引いて死のうとした時、間際に会ったのが創価学会員の親戚だった。1976年(昭和51年)、10歳の時に一家で入会した。
 信心してからの母は、息子の目からも見違えるほどだった。朝支度の前にむくりと一人起き、御本尊に向かう。母は読み書きを聖教新聞で覚え、池田先生の指導を切り抜いてとじ込んだ。
 
 母を見て、“とにかく池田先生に会いたい”の一心が育まれていく。地元の大学に進学後、「だったら折伏することだ」と先輩に言われ、友人に弘教を実らせた。
 
 その翌年の1987年(昭和62年)、長野研修道場で池田先生との出会いが。先生は、内田さんの名前を呼んで「お母さんを大切にするんだよ」「人の苦労が分かる人間に」と。その様子を伝えると、母はかみ締めるように喜んだ。

関わる側の本気

 「私の最後の事業は教育である」。池田先生の情熱を、わが人生に重ねたい。そう定めて教員になった。長野県内を転々と。初任の小学校では、放課後や週末にも勉強を教えたり、自宅に招いて食事を振る舞ったり。「今では考えられない時代ですけどね」。転勤する時には、児童たちが引っ越しを手伝ってくれるのを、母は目を細めて見守った。
 
 悔恨もある。20代、人間関係のもつれから周囲の信頼まで失った。久しぶりに実家に帰ると、母は多くを語らず「おまえのことを、毎日祈ってんだよ」と。うれしかった。もう一度、信頼を積み上げていこう。仏壇の前、母が座ってくぼんだ畳を思い出した。父も母と一緒に祈るようになった。
 
 内田さんは、生徒の名前と顔を思い浮かべて、朝な夕な祈った。満々と生命力を蓄えて学校へ。本気で向き合えば生徒も本気で向かってくる。やんちゃな生徒がいる中学校では深夜に呼びだされ、「3年間、一滴も酒を飲まなかった」。生徒が歯向かってくることがあっても、心の奥を信じた。深く関われば、生徒は変わった。そのやりがいは何ものにも代え難かった。
 
 現場で汗して見えてきたものもあった。指導法は経験に委ねられることが多く、若い教員が自信を失ってしまうことも。根拠のある理論があれば、指導法に幅が出るのでは。そんな課題意識も抱いていた。

家族そろって長野から大分へ。妻・克美さん㊥への感謝は尽きない。長男・勝利さん㊨は創価大学に通う

家族そろって長野から大分へ。妻・克美さん㊥への感謝は尽きない。長男・勝利さん㊨は創価大学に通う

セミの鳴き声

 研究へのおぼろげな志が輪郭を強めたのは、2001年。妻・克美さん(58)=女性部副本部長(地区女性部長兼任)=と結婚して間もなく、母が亡くなった。息子が生涯の伴侶を得たことを見届けたかのように。
 葬儀に参列した人から「一番苦しい時に、お母さんが支えてくれたの」と感謝された。人に尽くし抜いた母が、息子の進むべき道を照らしてくれた。
 
 “自分も自分だけの使命を果たさねば”。ひたむきな祈りの中で、36歳で大学院へ。妻は快く送り出してくれた。折しも、池田先生が「教育提言」を発表されたばかり。子どもの勉強嫌いに言及されていたことも、自らが研究する意義を深くした。
 

 中学3年の夏休みを思い出す。
 自由研究で、薄暗い午前5時から午後7時までの14時間、5分ごとにセミが何匹鳴いているかを数えた。方眼用紙に「正」の字を重ねる。
 
 気が遠くなるような研究に、付き合ってくれた理科の教員がいた。昼になると、母親がおむすびを持ってきてくれた。「無駄とか意味がないなんて、二人とも言わなかった」。おかげで探求心が育った。セミは種類や明るさに関係して、鳴く時間が異なると突き止めた。「意味がない研究なんて、何一つない。挑戦してみないと、何も分からないですから」
 
 だからだろうか。教員の立場で「博士号を取得する」「教員を育てる大学教授を目指す」ことに迷いはなかった。誰もが一笑に付すだろう夢を、妻も一緒になって追ってくれた。

国際的な心理学会で研究発表を重ねてきた(本人提供)

国際的な心理学会で研究発表を重ねてきた(本人提供)

70通の不採用

 四十過ぎの挑戦。生徒と向き合う多忙さの中で、「とにかく朝に勝つことが勝負でした」。毎朝午前3時に起床し、1時間の唱題後、出勤前まで机に向かう。夜は学会活動へ。
 
 苦しい時ほど、負けじ魂を燃やし、池田先生を求めた。師匠と共に戦う人生は、こんなにも楽しいのか。苦闘の中でたどり着いた確信があった。
 
 初めて国際学会で訪れたロサンゼルス。見学したアメリカ創価大学で限界を決めずに研究すると決意し、20回にわたって海外で研究発表を重ねた。「回り道をしたけど、これまで積み重ねてきた証しを、池田先生にお届けしたい。それしかありませんでした」
 
 子どもの自己肯定感をどう育んでいけるか――。14年間探究した成果を3年でまとめた。17年(平成29年)、博士号を取得した。
 
 「『仏法と申すは勝負をさきとし』(新1585・全1165)です。最初から勝つのは決まっている。ただ、『いつ』になるかは分からない。最後は絶対に勝つ信心だから、単にしぶといだけですよ(笑)」
 

長男の勝利さんは関西創価学園で学んだ

長男の勝利さんは関西創価学園で学んだ

つまずいても最後に勝て

 その後も、いばらの道を選んだ。教員を続けながら、大学教員の公募にエントリー。4年間で届いた不採用の通知は70通を超えた。「妻と『応募が趣味なのね』と笑いあって。送料もバカになりません」と悲観はどこにもない。
 
 最高の条件で採用通知が届いた21年(令和3年)。大分大学教職大学院の教授に就いた。
 「生徒指導」などの講義を担当し、現役または未来の教員を相手に相談に乗る。その熱血な姿勢は、教員時代と変わらない。子どもが幸せな社会をつくるためには、関わる側が挑戦しているかどうか。内田さんの信念は、みじんも揺るがない。

内田さんを研究者に育ててくれた恩師との共著。現場に立つ教員の視点が生かされている

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