〈黄金の師弟旅〉第4回 神奈川・横浜港2024年4月3日

  • 平和の心、正義の魂を社会へ! 世界へ!

神奈川文化会館から、横浜港を望む(2017年9月、池田先生撮影)

神奈川文化会館から、横浜港を望む(2017年9月、池田先生撮影)

 かつて池田先生はつづった。
 「折々に、雄大な世界へ広がる横浜の海を友と眺め、浩然の気を養いながら、新たな使命の航路を開拓してきたことは、宝の歴史です。
 横浜は、わが人生のかけがえのない『心の港』と言っても、決して過言ではありません」
 先生が何度も足を運んだ横浜港周辺には、数々の広布のドラマが刻まれている。
 1949年(昭和24年)10月、金融引き締めによる不況のあおりを受け、恩師・戸田先生の経営する出版社で、池田先生が編集長を務める少年雑誌「少年日本」の休刊が決まった。
 社員たちは意気消沈した。そうした中、池田先生は戸田先生を懸命に支えながら、広布の闘争に奔走する。休刊発表から2日後の10月27日、若き池田先生が向かったのは、横浜の小港町で開催された座談会だった。嵐にもかかわらず、50人ほどが集っていた。
 座談会での求道の息吹に触れた先生は、深く心に期す。
 “学会は健在である。戸田先生も健在である。自分も健在でなければならない”
 当時、中学生だった立石俊彦さん(南横浜総県中区、副支部長)は、この座談会に新来者として母子で参加した。
 「雨でしたが、会場は人であふれ、熱気に包まれていました。後方で立っていたので、終了後、帰る人のために靴を並べて出してあげていたことを覚えています」
 後年、立石さんは入会し、両親も仏法の道へ。池田先生が座談会に出席し、足跡をしるした有縁の天地で地区部長を務めた。
 師への報恩感謝を胸に、父親の小港町の理容店を継承し、地元で信頼を拡大。開業から80年近くの歴史を有する店は、現在、長男の誠司さん(同、副支部長兼地区部長)らが継いでいる。

「横浜の海」から真の師弟の戦いを

“「一人」の強き信心があれば必ず勝てる”――池田先生は、第1回神奈川県支部長会でリーダーに強調した(1988年6月12日、神奈川文化会館で)

“「一人」の強き信心があれば必ず勝てる”――池田先生は、第1回神奈川県支部長会でリーダーに強調した(1988年6月12日、神奈川文化会館で)

 横浜港は、創価の正義を宣揚する舞台となった。
 第1次宗門事件の嵐が吹き荒れる中、池田先生は宗門からの学会攻撃の矢面に立ち、同志を守り抜いていく。79年(同54年)4月24日、第3代会長を辞任。
 5月3日、創価大学の体育館で行われた本部総会終了後、先生が向かったのは、横浜港を望む神奈川文化会館だった。
 “世界につながる横浜の海から、新しい世界広宣流布の戦いを、真の師弟の戦いを起こそう”
 その日の夜、先生は同会館で、「共戦」としたためる。さらに5日には、「正義」と筆を振るった。
 5日午後、先生は、地元の同志の案内で、「21世紀号」と名付けられた船に乗り、横浜港を一周。海上から神奈川文化会館を見つめた。
 船主は、渡辺安徳さん(故人)。次女の網本めぐみさん(戸塚総区女性部議長)は、こう振り返る。
 「造船のエンジニアだった父が、6年ほどかけて造った船が『21世紀号』でした。“いつか池田先生に乗っていただきたい”との夢がかなったのが、忘れ得ぬ5月5日でした」
 渡辺さんは、さらなる使命に燃えた。正義の対話を重ね、夫婦で150世帯以上の弘教を実らせた。子どもたちも後継の道を歩む。
 先生は会長辞任後、神奈川文化会館に滞在する機会が多くなった。同会館がある横浜市中区で、当時、学会の区長を務めていたのが関根政幸さん(南横浜総県主事)である。
 「私たちには、先生が横浜の地に来られた深い意味は分かりませんでした。ただただ、近くにいらっしゃる師匠に、弟子の求道の精神でぶつかっていったのです」
 関根さんは市内で製油関連の会社を経営していた。先生の滞在中、何度も神奈川文化会館に駆け付けた。先生は、「区長さん、区長さん」と、気さくに声をかけてくれた。
 先生が、地元の自治会や町内会の役員と懇談する場に、同席したこともある。
 「地域の方と垣根なく語らう先生の姿を目の当たりにし、同志と共に近隣貢献、地域広布に率先しようと約し合いました」
 師の振る舞いを目に焼き付けた関根さんは、その後、保護司として社会に貢献。長年にわたり、非行や犯罪に走った人への更生の支援を重ねた。

青年たちとの“慈雨”の黄金譜

神奈川青年平和音楽祭の開会前、雨中のグラウンドを回り、青年たちに激励を送った(1984年9月9日、横浜スタジアムで)

神奈川青年平和音楽祭の開会前、雨中のグラウンドを回り、青年たちに激励を送った(1984年9月9日、横浜スタジアムで)

 小港町の嵐の中の座談会から35年。84年(同59年)9月9日の横浜も雨だった。池田先生は神奈川広布の黄金譜として刻まれる第1回「神奈川青年平和音楽祭」に出席した。
 横浜スタジアムで行われた音楽祭で、先生は雨の中、青年たちの演技を見守り続けた。
 松坂広宣さん(神奈川総区長)は、音楽祭が発心の契機となった。当時、18歳。すさんだ中学生活を送り、卒業後すぐに就職した。
 信心に消極的だったが、男子部の先輩の激励に触れ、組み体操に出演。練習を通し、題目の力を実感した。
 「当日、スーツを雨で濡らしながら、青年たちに慈愛のまなざしを注ぐ池田先生に深く感動しました。“師弟の道を断じて貫こう”と誓いました」
 松坂さんは学会活動を通し、友の幸せを祈れる自分に変わっていった。15年ほど前から、青少年指導員となり、地域のパトロールなどにも励んできた。
 音楽祭当時、神奈川の総合女子部長を務めていた沖三千代さん(東海道総合女性部長)は述懐する。
 「当日はあいにくの雨でしたが、先生は“神奈川の歌は『慈雨の羽』だから”と励ましてくださいました」
 「慈雨の羽」とは、先生が作詞した神奈川県歌「ああ陽は昇る」の一節だ。悪天候をも、一人一人の飛躍の“慈雨”に変え、師弟の絆を強めたのが、神奈川の青年たちだった。
 本年1月に行われた本部幹部会では、先生が揮毫した、「平和乃心を」「世界へ世紀へ」との書が披露された。この言葉は、同音楽祭のテーマをしたためたものである。祭典では、スタンドの人文字としても描かれた。
 本年は神奈川青年平和音楽祭から40年。神奈川のあの地この地に、“平和の心”を広げる対話の花が咲いている。