〈池田先生 永遠の指針〉 4・2「第2代会長・戸田城聖先生命日」――「随筆 人間世紀の光」〈桜花の「4・2」に恩師を想う㊤〉から2024年4月2日

  • 我ら創価の春が来た!

 きょう4月2日は、第2代会長・戸田城聖先生の祥月命日。戸田先生が逝いて66年となる。ここでは、池田先生がつづった「随筆 人間世紀の光」〈桜花の「4・2」に恩師を想う㊤〉(本紙2007年4月1日付、『池田大作全集』第138巻所収)を抜粋して紹介する。

北海道・石狩市厚田区の戸田記念墓地公園にある戸田先生の立像と桜(2012年5月、本紙記者撮影)

北海道・石狩市厚田区の戸田記念墓地公園にある戸田先生の立像と桜(2012年5月、本紙記者撮影)

 
 生き抜いた
   咲き抜いた
 桜の王者は
   勝利の大王だ
  
 思えば、一九五八年(昭和三十三年)の四月二日、戸田先生が逝去なされたその日――。
 都内の桜は、五分咲きとなっていた。
 先生は桜がお好きで、前年の秋、ご自身の死期を「桜の咲く頃」と呟いておられた。
 桜の花は、七十五万世帯の大法弘通の大願を成就され、万代の広宣流布の礎を築かれた恩師の凱歌の笑みとも、私には見えた。
 なぜ、師が「桜の咲く頃」と望まれたのか。
 それは後世の弟子たちへの慈しみの心境であられたと、私には思えてならなかった。すなわち、決して感傷に囚われず、桜花の季節に師を偲び、希望に満ちた一歩を踏み出してゆけ! との熱き慈愛の境涯の響きを、私は受け止めた。
 私は、この師の心を深く知るゆえに、折にふれ、創価の城に桜を植樹し、荘厳してきた。
  
 御聖訓には、「仏というものは私たちの心の中におられます。たとえば、桜の花は趣のあるものですが、木の中から咲き出でるようなものです」(全1491・新2036、趣意)と仰せである。
 ここには、ありがたき深い深い生命哲学が、爛漫の桜に香風が吹きわたるように、説き明かされている。
 桜の生命と同じように、我々も力の限り、生きて生きて生き抜いて、己の使命の花を咲き薫らせていくことだ。これが本然の法則だ。
 日本中、いな世界中の尊き同志たちが、師弟不二の心を心として、偉大なる広宣流布へと、晴れ晴れと大行進しゆくなか、我らにとって光線が輝きわたるような四月二日を迎えようとしている。
 我らに春が来た!
 勝利の春が来た!
 創価の同志の春が来た!
 今年(=2007年)の四月二日は、戸田先生の五十回忌である。
  
 今、私が対談を進めている、アメリカ実践哲学協会のマリノフ会長は明快に語られた。
 「人生に何かを成し遂げた師匠と一緒にいるだけで、自分を高めていけるのです。人間の触れ合いの力の素晴らしさが、そこにあります」
 師弟こそ、人間を向上せしめゆく最極の魂の結合であるというのだ。
 それは、一九五八年(昭和三十三年)の三月十六日、富士の裾野で、盛大な儀式を終えた夜であった。
 戸田先生から私は、「学会本部の方が大事だ。大作は、私より一足早く東京に帰って、本部に行ってくれ給え」との、ご指示を受けて帰京した。
 山積していた仕事を整理して、電光石火で再び本山へ舞い戻ると、衰弱を増しておられた先生は、お顔に深い安堵の微笑みを浮かべられた。
 それからの一日また一日、布団に横たわられた先生は、幾たびとなく、私を呼ばれた。
 夜は、いつも必ず、私は、戸田先生の下座の方に布団を敷き、そこで寝るように命ぜられた。
 「今日は、何の本を読んだか」と尋ねられたこともある。
 先生は「私は『十八史略』を読んだよ」と言われながら、漢の劉邦が天下を取った時、「第一の功臣」と賞讃した、蕭何の話をしてくださった。
 この蕭何は、食糧や武器の確保などに努め、最前線が力の限り戦えるように、手を打ち続けた人物である。
 そうした陰の功労者を、学会は最大に大事に護り、感謝し、真心から讃えていくのだ。そうすれば、永遠に栄えていける。
 この重大な将軍学を、先生は繰り返し教えてくださったのである。
 「大作、昨日はメキシコへ行った夢を見たよ」と言われた朝もあった。
 「此の一念の心・法界に徧満する」(全383・新316)とは、「一生成仏抄」の一節である。
 先生の心は、壮大な地球を駆けめぐり、日本から一番、離れたラテンアメリカにまで思いを馳せておられたのだ。
 「待っていた、みんな待っていたよ……。大作の本当の舞台は、世界だよ」
 先生は布団から手を出して、私の手を握られながら、「一閻浮提広宣流布」への遠大な平和旅を託されたのである。
 今回の五十回忌に当たり、私はラテンアメリカを代表する二つの名門大学から名誉博士の称号を拝受した。〈ベネズエラのサンタマリア大学とラファエル・ベジョソ・チャシン大学〉
 私は師弟の語らいを思い起こしながら、この栄誉を謹んで戸田先生に捧げた。
 ベネズエラ共和国の教育の大指導者は、創価大学の講堂で厳かに語ってくださった。
 「恩師であられる戸田城聖先生は、愛弟子の偉大な事業を、どれほど誇りに感じておられることでしょうか!」
 ◇ 
 先生は、最高幹部との語らいの席上、こう言われたという。私の義父母も同席していた。
 「大作は、体が弱いのに、学会のため、私のために、命を削り、奮迅の努力をしてくれた。
 苦労をかけすぎて、三十まで生きられるか、どうか。大作がいなければ、私の後継ぎはどうなるか。学会の将来はない。自分の命を代わりにあげて、なんとか長生きさせたい」
 そう言われながら、慟哭され、落涙される師であられた。
 一九五八年(昭和三十三年)の年頭、私は、「生きられない」と言われた三十歳になっていた。
 恩師のおかげで、宿命を乗り越え、まさしく「更賜寿命」させていただいたのである。
 一日また一日、私は、妙法流布のために先生から頂戴した命と思い、師の生命と一体融合して、「臨終只今」の決心で生き切ってきた。戦い切ってきた。
 師弟不二の偉大な法則を、護り抜き、語り抜いてきた。
 師弟不二の究極の人生を、一点の曇りもなく、悔いもなく、戦い抜いてきた。そして、勝ち抜いてきた。
 「勝利は団結をもたらすが、敗北は分裂をもたらす」
 これは、フランスの作家サン=テグジュペリの透徹した洞察であった。〈『ある人質への手紙』山崎庸一郎訳、『サン=テグジュペリ・コレクション』6所収、みすず書房〉
 戸田先生のご指導の通りに、広宣流布の完璧なる「勝利の団結」を築き上げてきた私の人生には、後悔など何もない。
  
 咲きにけり
   創価桜は
      勝ちにけり