〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉 第42回(最終回) 創価学会は校舎なき総合大学 「一輪の花」への深き感謝編⑥2024年3月31日

アメリカの知的独立宣言

 思想家エマソンは1837年、アメリカのハーバード大学で、学者の義務と責任を提示する講演を行った。その冒頭、彼は宣言する。
 「わたしたちの依存の時代、他国の学問に対するわたしたちの長い徒弟時代は、いま終わろうとしています」(酒本雅之訳)
 1776年に独立宣言が採択されてから60年余。当時、アメリカ社会には新しい建設の息吹が漲り、新しい思想・学問が求められていた。
 エマソンは講演で、真に「考える人間」になるために、「自然」「書物」「行動」による訓練の必要性を訴え、「自己信頼」の重要性を論じた。
 この講演は「アメリカの知的独立宣言」とも称され、同国の知識人をはじめ、多くの人の心を捉えて離さなかった。今日、ソローの『市民の反抗』、ホイットマンの『民主主義の展望』と共に、アメリカ民主主義を解明する古典と位置付けられている。

陽光に映える赤レンガが、「知の力」を醸す。2回目の米ハーバード大学の講演の折、池田先生が同大学をカメラに収めた(1993年9月)。「21世紀文明と大乗仏教」と題する講演には、「これほど啓発的なスピーチは聞いたことがありません」など、感動の声が多く寄せられた

陽光に映える赤レンガが、「知の力」を醸す。2回目の米ハーバード大学の講演の折、池田先生が同大学をカメラに収めた(1993年9月)。「21世紀文明と大乗仏教」と題する講演には、「これほど啓発的なスピーチは聞いたことがありません」など、感動の声が多く寄せられた

エマソンの講演をほうふつさせる

 エマソンのハーバード大学での講演から150年後の1987年3月、池田大作先生に招聘状が届いた。同大学国際問題研究センター所長を務めていたジョセフ・ナイ博士からである。
 招聘状には、博士がこの年に発表された「SGIの日」記念提言を読んだこと、先生の国際的な平和行動を高く評価していることなどがつづられ、なるべく早い時期の同大学での講演の要望が記されていた。
 ナイ博士は90年、「ソフト・パワー」という概念を提唱する。知識や文化などを通して、他国を魅了する力のことだ。前年の89年、「ベルリンの壁」が崩壊し、米ソ首脳が冷戦終結を宣言。世界が新たな道を模索する中で、注目を集めたのが、軍事力や富といった「ハード・パワー」とは対極にある「ソフト・パワー」だった。
 博士は87年3月に続き、同年6月にも先生に招聘状を送った。89年3月6日、旧・聖教新聞社で約2時間にわたって行われた先生との対談の折にも、「ぜひハーバード大学を訪れ、講演していただきたい」と要請している。
 さらに、ナイ博士の後を継ぎ、国際問題研究センター所長に就いたアシュトン・カーター博士らから、91年3月、先生に3度目となる招聘状が送られた。こうした重ねての強い要請を受け、同年9月26日、先生は同大学で「ソフト・パワーの時代と哲学」とのテーマで講演を行うのである。
 先生は講演で、歴史を動かす軸足がハード・パワーからソフト・パワーへ移りつつあるとのナイ博士の洞察を踏まえて、その流れを不可逆的なものにしていくためには、自己規律、自己制御の心に象徴される“内発的精神”が不可欠であると指摘。
 ソフト・パワーを支える自己規律の哲学は「友情、信頼、愛情など、かけがえのない人間の絆を瑞々しく蘇生」させうると述べた。そして、友情をうたい上げたエマソンの詩を引用して、講演を結んだ。
 講演終了後、ジョセフ・ナイ博士とアシュトン・カーター博士が登壇。先生が強調した“内発的なるもの”こそ、変化の時代を開くキーワードであると述べた。
 ハーバード大学の宗教学者ハービー・コックス博士は、先生の講演の意義をこう語った。
 「エマソンはハーバード大学で有名な講演を行っている(1837年の講演)。それは、伝統と権威を重んずる学問に対する警鐘を趣旨としたものであった。真の学問・知識とは、人間一人一人の内面から、そして実生活の体験から、ほとばしるものでなくてはならない」
 「SGI会長の講演は、“内なる精神”の意義を現代に蘇生させようとされたものであり、エマソンの講演の真義をほうふつさせるものであった」

米ハーバード大学からの招きを受け、池田先生が同大学で第1回の記念講演を。それに先立ち、ジョン・ハーバードの銅像前で、学生や卒業生らと懇談(1991年9月26日)。「最優秀の英知の皆さんです。偉大な未来が待っています。健康で、勝利の青春を」と、真心の励ましを送った

米ハーバード大学からの招きを受け、池田先生が同大学で第1回の記念講演を。それに先立ち、ジョン・ハーバードの銅像前で、学生や卒業生らと懇談(1991年9月26日)。「最優秀の英知の皆さんです。偉大な未来が待っています。健康で、勝利の青春を」と、真心の励ましを送った

人類共生の未来を開く根本的方途

 ボストン近郊の大学からも多数の教授が出席した。1993年9月24日、池田先生はハーバード大学で2度目となる講演を行った。
 文化人類学部と応用神学部の合同招聘によって講演は実現した。テーマは「21世紀文明と大乗仏教」。宗教学者のみならず、幅広い分野から150人を超える識者らが集った。
 この年、学術者らの間で“異なる文明の衝突が冷戦後の対立軸になる”との論争が起こっていた。
 講演で先生は「死を排除するのではなく、死を凝視し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、21世紀の最大の課題」と指摘。死は「次なる生への充電期間」と論じ、「生も歓喜、死も歓喜」との大乗仏教の生死観を示した。
 また、大乗仏教が21世紀の文明に貢献しうる点として、①平和創出の源泉②人間復権の機軸③万物共生の大地、との3点を提示した。
 さらに、講演の結びでは、小さな自分(小我)ではなく、一切衆生の苦を自らの苦とする「大我」の生き方を強調。その「大我」とは、「常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げる」生き方であると述べ、この「大我」が脈動する中に、「生も歓喜、死も歓喜」の生死観が確立されゆくと結論した。
 マサチューセッツ大学のジェイ・デメラス博士は、「SGI会長は、宗教の言葉を多く使うことなく、普遍的な市民の宗教の意義、人間のための宗教の意義について示されました」と講演を高く評価した。
 2度目の講演の後、ハーバード大学に隣接する地に、「池田国際対話センター(当時はボストン21世紀センター)」が設立される。同センターは、「文明間の対話」を掲げ、多彩な分野の識者を招いて、シンポジウムやセミナーなどを開いてきた。
 2004年からは「文明間の対話のための池田フォーラム」を開催。各分野の学識者が、池田先生の思想について論じ合っている。
 先生のハーバード大学での2度の講演は、人類共生の未来を開く根本的方途を示したものとして、時を経るほどに輝きを増している。

米ハーバード大学での2度目の講演の折、コメンテーターを務めた経済学者・ガルブレイス博士と握手を交わす池田先生(1993年9月24日)。翌日には仏法が説く「衆生所遊楽」などについて語り合った

米ハーバード大学での2度目の講演の折、コメンテーターを務めた経済学者・ガルブレイス博士と握手を交わす池田先生(1993年9月24日)。翌日には仏法が説く「衆生所遊楽」などについて語り合った

池田会長の存在は歴史に残る

 ハーバード大学で2度目の講演を行った1993年、先生は一人の“人権の闘士”と出会いを結んだ。「世界人権宣言」の起草に尽力したブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁だ。総裁が生まれたのは1898年。1900年生まれの戸田先生と、ほぼ同年代である。
 1993年2月9日、リオデジャネイロの国際空港で、総裁は池田先生の到着を2時間も前から待っていた。
 94歳の総裁はすでに足腰が弱り、一人で歩くことも困難になっていた。体調を気遣う周囲は、別室で休むように勧めた。しかし、総裁は言った。
 「私は、94年間も池田会長を待っていたのです。1時間や2時間は何ともありません」
 先生と出会う以前から、総裁はSGIのスタッフに語っていた。
 「私には、池田会長の偉大さが分かる」「民衆のために戦い、苦しみ抜いた者にしか、彼と、彼を支えてきた香峯子夫人の心は分からない」「迫害を受けた者だけが、池田会長の価値を知るのだ」
 総裁自身が「迫害を受けた者」だった。30年・40年代と、自国の独裁政権を批判し、3度の投獄、3年間の国外追放を受けた。70年以上にわたってペンを執り続け、生涯で5万本のコラムを執筆。人間の権利と尊厳を守るために戦って、戦って、戦い続けた。
 ブラジルの地に到着した先生は、総裁の姿を見つけると、両手を大きく広げて歩み寄った。総裁は語った。
 「池田会長は、この世紀を決定づけた人です。戦いましょう。二人で力を合わせ、人類の歴史を変えましょう!」
 出会いの直後、先生は「不思議な方だ。戸田先生が迎えてくださったような気がした」と語っている。
 2日後の2月11日、リオデジャネイロ連邦大学から先生に「名誉博士号」が贈られた。戸田先生の生誕93周年であるこの日、小説『人間革命』全12巻が完結し、先生は「あとがき」をブラジルの地で執筆した。
 翌12日、先生のブラジル文学アカデミーの「在外会員」就任式で、アタイデ総裁はこうあいさつした。
 「未来は、ひとりでに、やってくるものではありません。人間自身が切り開くものです。その人間の一人が、池田大作氏です」
 先生と総裁は、書簡などを通して対話を続けることで合意した。総裁は体調を崩し、ペンを握ることも難しくなったが、「先生が待ってくださっているのだからやりましょう」と口述を続けた。
 総裁が94年の生涯の幕を閉じたのは、一切の口述が終わってから約3週間後のこと。両者の語らいは、対談集『21世紀の人権を語る』として結実する。発刊されたのは、恩師の生誕95周年である95年2月11日だった。
 対談は、総裁の次の言葉で締めくくられた。
 「池田会長の存在は、人類の歴史に残り、その運動は時代とともに広がりゆくことでしょう。そして21世紀は、新たなヒューマニズムが実現された時代として、人類の歴史に深く刻まれることになるでしょう」

ブラジル・リオデジャネイロの空港に到着した池田先生を、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁が歓迎(1993年2月9日)。「きょうは、わが恩師に、再び、お会いするような気持ちでまいりました」とあいさつする先生に、総裁は「会いたい人に、やっと会えました!」と応じた

ブラジル・リオデジャネイロの空港に到着した池田先生を、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁が歓迎(1993年2月9日)。「きょうは、わが恩師に、再び、お会いするような気持ちでまいりました」とあいさつする先生に、総裁は「会いたい人に、やっと会えました!」と応じた

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