〈学生部教学のページ〉 「三三蔵祈雨事」を学ぶ2024年3月27日

  • 幸福の安全地帯を築こう!

 いよいよ、新入生を迎える春到来! 一人一人が、「世界を照らす 地涌の若鷲」だ。何でも語り合える良き先輩として、温かな励ましに徹したい。今回学ぶ「三三蔵祈雨事」は、「善知識」の大切さ、「三証」などについて教えられている。大切な信心の基本を、新たな力と共に学び深め、最高の出発を切っていこう。

(今回の範囲)
新版1940ページ1行目~1945ページ17行目
全集1468ページ1行目~1472ページ8行目

御文

 されば、仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちえなににかせん。ただあつき・つめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たいせちなり。
 (新1940・全1468)

通解

 仏になる道は善知識に勝るものはない。わが智慧は何の役に立とう。ただ暑さ寒さを知るだけの智慧でもあるならば、善知識が大切なのである。

絵・間瀬健治

絵・間瀬健治

背景と大意

 本抄は、日蓮大聖人が建治元年(1275年)に身延で著され、駿河国(静岡県中央部)富士上方西山郷に住む西山殿に与えられたお手紙である。
  
 当時は、「文永の役」が起きた直後であり、人々は再びの蒙古襲来に恐れを抱いていた。幕府と朝廷は、各地の有力寺社等に蒙古調伏の祈禱を命じるが、そこで広く行われていたのは真言密教による加持祈禱であった。
  
 本抄では、まず、成仏するには「善知識」(仏法を教え仏道に導いてくれる人)という縁が大切であると述べられ、善知識と悪知識を判別する基準として、「三証」を示される。中でも大切なのは現証であるとされた上で、中国真言宗の善無畏・金剛智・不空という3人の三蔵(三三蔵)の祈雨が、かえって国土に災難をもたらしたという事実を挙げ、真言が亡国の法であることを明らかにされる。
  
 最後に、須梨槃特の例を通し、真っすぐに善知識を求め抜く信心を促されている。

解説

善知識が大切

 「夫れ、木をうえ候には、大風ふき候えども、つよきすけをかいぬればたおれず」
  
 冒頭の御文は、新入生を迎える今こそ拝したい一節である。「木」は仏道修行者を、「大風」は修行を妨げる障魔を例えたもの。支える者がたしかであれば、どんな障魔が競おうとも倒れることはない。
  
 学会の同志が必要な理由がここにある。学生時代は夢を追いかける一方で、壁にぶつかり進むべき道を見失ってしまうこともある。また、高校生までの頃と比べ、自分で時間の使い方を決める機会が増えることで、自身の存在意義や、何のために生きていくのか、と問い直す時でもあるだろう。
  
 悩んだ時に隣に誰がいたのか――一般的にみても、その存在によって、後の人生は大きく変わる。ましてや、仏道修行に難は必然である。釈尊が“善き友を持つことが、仏道修行の全てなのだ”とまで語ったことを心に留めたい。
  
 池田先生は本抄冒頭の御文を拝し、語っている。「学会は、最も心強い『善知識』の世界です。(中略)まさに福運あふれる“幸福の安全地帯”です。だから絶対に離れてはいけません。少しでも縁していこうという心が大事です」
  
 私たちは常に励ましの組織を求めていく姿勢を貫き、また、自身が「つよきすけ」として「幸福の安全地帯」を築く一人になると決めてまいりたい。
  
 続く御文では、一切衆生が成仏するために、最も頼りにすべき存在が仏であったことを確認されている。弟子の舎利弗らはもちろんのこと、仏を殺そうとするなど罪を犯した阿闍世王らも、釈尊と縁することによって成仏することができたのだ。
  
 故に、仏道を歩み抜くには善知識こそ大切であると訴えられている(別掲御文)。ここでいう知識とは、友人、知人を意味する。師匠や同志など、仏道に導く人が善知識であり、反対に、信心から遠ざける存在が悪知識だ。
  
 この「善知識」を求めることが仏道修行には欠かせないが、大聖人は「善知識に値うことが第一のかたきこと」と仰せである。続けて諸菩薩の例を通し確認されているのも、善知識・正しき師に巡り合うことの難しさを示したものだ。
  
 誤った師や、その教えを信じる者は「仏法を習わない悪人よりも、はるかに劣ってしまう」と述べられ、ここから真言破折を強められていく。

信行の勇者に

 大聖人は、厳しく他宗を責め続けたが、その目的は、単に他宗を否定することにあるのではない。混迷を極める社会と民衆を救おうと、人間主義の仏法に照らし、なかんずく万人成仏を説く法華経に基づき、当時の他宗派が陥っていた仏意や経文をないがしろにする姿勢や偏った思想を断ち切ることに破折の眼目があったといえる。
  
 本抄で強く訴えられたのは、真言の祈禱の結果は事実の上でどうだったのか、という点である。まず、大聖人は、人々を絶対的な幸福に導く法を判定する基準として、理証(道理)、文証(証文)、現証の「三証」を挙げ、中でも「現証」が最も大切であると強調されている。
  
 「文証」とは、その宗教の教義が、よりどころとする経文や聖典のうえで裏づけをもっているか。「理証」は、その宗教の教義や主張が道理にかなっているか。そして「現証」とは、教義に基づいて信仰を実践した結果が、生活や社会にどのように現れたかということである。
  
 私たち学生部は「納得と共感」の世代と称される。御書をひもとき、仏法の生命哲学を学び理解を深めることはもちろんのこと、自行化他にわたる実践をした時に自身と環境の変化を実感できる――これ以上の納得はない。大聖人の立てられた「三証」という基準は、私たちが、また友人が、信仰の道を自ら選び取るためにも、ますます大事になってくるだろう。
  
 池田先生は、1947年(昭和22年)に戸田先生と初めて会い、「正しい人生とは何か」と聞いた。その答えは以下の通りであった。「正しい人生とは何かと考えるのも良い。しかし、考える間に日蓮大聖人の哲学を実践してごらんなさい。青年じゃないか。必ずいつか、自然に自分が正しい人生を歩んでいることを発見するでしょう」
  
 実践といっても、「独りなれば悪しきみちにはたおれぬ」である。新たな仲間と「共に」挑戦を重ねる中で、信心の確信をつかんでまいりたい。
  
 続く御文では、題号にある「三三蔵」や弘法らによる「祈雨」の例を通して、現証の重要性を説かれている。
  
 三三蔵とは、中国真言宗の高僧である善無畏、金剛智、不空の3人の三蔵を指す。それぞれ祈雨を試みた結果、雨は降ったものの、大風が吹いてしまい失敗に終わった。また、日本真言宗の開祖である弘法も祈雨に失敗している。一方で、法華経を根本とした天台大師伝教大師は、たちまち雨を降らせ、大風が吹くこともなかったという。
  
 大聖人は、こうした現証にもとづいて、真言宗を破折されているのだ。
  
 さらに、本来、法華経を根本とすべき日本天台宗の座主が、真言との勝劣に惑い、悪道に堕ちていったことを示された後、正法の行者が迫害されると、謗法の国は罰せられるとの経文を引用される。ここには、“亡国の危機にある日本を救うのは日蓮以外にいない”との御確信が込められていると拝される。
  
 最後に、須梨槃特と提婆達多の例を挙げ、善知識を求め抜くよう説かれている。
  
 須梨槃特は極めて愚鈍であったが、仏の教えを素直に信じたため、成仏することができた。一方、提婆達多は六万宝蔵という膨大な経典を暗唱したほどの智者であったが、破和合僧の罪を犯し無間地獄に堕ちてしまったのである。
  
 この御文を拝し、池田先生はつづった。「偉大な信心の行者、信行の勇者に成長するための教学である。ここをはき違えては、絶対にならない。(中略)戸田先生も私も、『信心で掘り下げていく教学』で戦ってきた。だから学会は勝った。実践のなかで教学を学んだ学会員が堂々と勝ってきたのだ」
  
 私たち学生部の使命は、民衆を守る知勇兼備の指導者に育つことだ。その根本は、どこまでも信心にあることを忘れず、日々の学会活動に駆けていこう。

コラム「DAGA」~この御文が分からないんだが~

 学くん:大学2年生
  
 賢さん:大学4年生。学くんの部長
  
 学くん 「三蔵」って3人もいたんですね。てっきり、1人しかいないと思ってましたよ!
  
 賢さん 学くんが思い浮かべているのは、『西遊記』に登場する三蔵法師じゃない? 僕もそのイメージだったから、以前、調べたことがあるんだよ。「三蔵」っていうのは、経・律・論の3種類の仏典に精通した人のことを指すんだ。『西遊記』の三蔵法師は「玄奘」という名前だよ。
  
 学くん 玄奘三蔵って聞いたことありますね! 「ブッダ」というのも、本来は「目覚めた人」の意味で、釈尊だけじゃなかったんですよね?
  
 賢さん よく勉強しているね! 元々は固有名詞ではなくて、何人もいたってことだね。
  
 学くん それにしても、今回の御書では3人の三蔵が破折されまくっていたので、驚いちゃいました。
  
 賢さん 僕も全く同じ印象だったな(笑)。ちなみに、学くんが元々思い浮かべていた玄奘について、大聖人は別のお手紙で言及されているんだよ。
  
 学くん どう言われているんですか?
  
 賢さん 「深密教へだまし堕とす悪友は、玄奘・慈恩である」(通解、新1472・全1082)。つまり、今回の御文に照らし合わせれば、「悪知識」であると書かれているね。
  
 学くん 結局、三蔵法師も破折されてるじゃないですか……(笑)。なんだか『西遊記』の見方が変わっちゃうなあ。
  
 賢さん ただね、玄奘については別の御書で、こうもつづられているんだ。「玄奘三蔵は二十万里も旅して般若経を得られた。道の遠さに志があらわれるのであろうか」(通解、新1684・全1223)。
  
 学くん まさに『西遊記』で描かれているような部分ですね!
  
 賢さん そうだね! もちろん、相手のためにも根本的な誤りを指摘する必要はある。だけど、良い部分は認めていくことが現実においても大切だね。
  
 学くん 確かにそうですね。僕も仏法対話をする中で、友人の良い部分をたくさん見つけて、お互いに学び合うような関係を築いていきたいです!