〈ペルー広布の黄金譜 池田先生と同志の魂の絆〉2024年3月26日

  • 妙法の 健児の意気は 今ここに

 3月はペルーの友にとって、師との忘れ得ぬ歴史が刻まれた月である。1966年3月15日、池田先生は同国を初訪問。人生を勝利する要諦として、①題目②教学③信心の持続を強調した。8年後の74年3月22日、先生の2度目のペルー訪問が実現。7日間の滞在で、多くの友と魂の絆を結んだ。84年3月1日には、ベラウンデ大統領(当時)から先生に、同国の最高位の国家勲章である「ペルー太陽大十字勲章」が贈られた。池田先生とペルーの黄金の足跡を、同SGI最高参与のカルロス・シマさんに聞いた。

“種”をまきゆけ

 ――本年は、池田先生の1974年3月のペルー訪問から、50年の節目です。
  
 池田先生はこれまで、3度にわたってペルーを訪問されています。
 66年3月の初訪問の時、ペルー国内では、学会への誤解や偏見が強く、先生は予定していたペルー支部の大会の出席を断念せざるを得ない状況でした。
 その中でも、先生は日系人の有力者と会い、学会への正しい認識を促されていったのです。
 この初訪問の折、先生は和歌を詠まれています。「妙法の 健児の意気は 今ここに 黄金の種 広くまきゆけ」
 和歌に込められた師の心のまま、ペルーの同志は「良き市民」として“信頼の種”をまき、自分の足元から学会理解の輪を広げていきました。
 先生の2度目の訪問となる74年3月には、ペルーは中南米で、ブラジルに次いで多くのメンバーが活動するほどに発展を遂げていました。

民族衣装を身にまとい、子どもたちと記念のカメラに納まる池田先生ご夫妻(1974年3月、リマ市で)

民族衣装を身にまとい、子どもたちと記念のカメラに納まる池田先生ご夫妻(1974年3月、リマ市で)

愛し祈り続ける

 ――2度目のペルー訪問で先生は、要人や識者と対話を重ねる一方で、同志の激励にも全精力を注がれました。
  
 74年3月22日、先生の2度目のペルー訪問が実現します。7日間の激励行は感動の連続でした。
 翌23日、ペルー会館の開所式(当時)が行われました。終了後のガーデンパーティーで、先生はペルーの民族衣装に着替えられ、同志の輪の中に飛び込んでいかれたのです。メンバーの喜びは、どれほど大きかったか。
 人種や国境の壁を超え、同じ人間として心を結ぼうとされるその姿に、「世界広布の指導者のあり方」を学びました。
 24日には、リマ市内で記念撮影会が開かれます。
 撮影は炎天下、野外で行われました。先生は約2000人の友と、7回にわたってカメラに納まり、汗を拭いながら、包み込むように励まされました。
 「皆さん一人一人のことは、私の胸中に深くあります。どうか幸せになり、ペルー社会の模範として、その繁栄に貢献してください」
 25日、リマ市から先生に「最高賓客」の称号が贈られます。先生は市庁舎の芳名録にこう記されました。
 「私は今日より リマ市民となった。私は今日より リマのために働く。私は今日よりその責任を持った。そして私は 誰よりもペルーとリマの益々の発展と興隆を祈る人生でありたい」
 この言葉の通り、先生はペルーを愛し、ペルーの発展と興隆を祈り続けてくださいました。
 26日、南米最古の大学であるペルー国立サンマルコス大学でゲバラ総長(当時)との会談が行われます。席上、先生は「教育国連」「世界大学総長会議」などの構想を語られ、総長も全面的に賛同します。
 総長との会談の時、先生は体調を崩されていました。しかし私たちの前で、そのような様子を見せられることは全くありませんでした。後に、そのことを聞き、胸が熱くなりました。「皆を安心させ、皆に喜んでもらう」――ここに、広布の指導者の“心”があることを教わりました。
 会談終了後、ゲバラ総長は先生を昼食に誘います。
 しかし、体調の優れない先生は、感謝の意を伝え、丁重に辞退されます。
 翌27日の夜、総長は先生の宿泊先を見舞いに訪ねます。総長が先生の手を握り締め、「私のような者で恐縮ですが、ペルーの親友と思って、いつでもおこしください」と述べると、先生は「総長のご厚意を、私は終生、忘れません」と応じます。
 二人の友情は終生、変わりませんでした。総長は2000年に亡くなるまで、先生の著作をそばに置き、SGIのメンバーとの交流を何より大切にされました。また、総長夫人とご令嬢も、先生を敬愛し、ペルー・セイキョウを愛読されました。
 総長ご一家がSGIの良き理解者となったのも、先生の大誠実の振る舞いがあったからこそです。

名門・サンマルコス大学を公式訪問した池田先生。ゲバラ総長が歓迎のメッセージを読み上げる(1974年3月、首都リマ市内で)。先生と総長の語らいは、「教授と学生の断絶」「新しい大学像」などを巡り、強く響き合った

名門・サンマルコス大学を公式訪問した池田先生。ゲバラ総長が歓迎のメッセージを読み上げる(1974年3月、首都リマ市内で)。先生と総長の語らいは、「教授と学生の断絶」「新しい大学像」などを巡り、強く響き合った

“冬の時代”を越え

 ――84年2月29日、先生は3度目のペルー訪問を果たされます。
  
 74年3月からの10年間は、ペルーの友にとって、まさに“冬の時代”でした。
 75年、軍部内でクーデターが勃発します。会合の開催が制限され、夜間の外出も禁止となってしまいます。その状況の中で、“創価の絆を絶対に絶やしてはいけない”と、私たちは地道に訪問・激励を続けました。
 80年に民政移管が実現しますが、今度は全土でテロが起こるようになります。3度目の先生のペルー訪問は、このような社会情勢下でした。
 84年2月29日、先生はリマ市の国際空港に到着されます。空港では、SGIのメンバーだけではなく、各界の要人が先生を出迎えました。
 同年3月1日、先生はベラウンデ大統領(当時)との会見に臨まれます。会見は通常、長くても20分ほどですが、両者の会見は1時間にわたって行われたのです。
 この日、先生にペルー最高位の国家勲章である「ペルー太陽大十字勲章」が大統領から授与されます。それは、私たちペルーSGIの誇りです。
 この3度目の訪問の時も、先生は要人との語らいを続けられる一方、メンバーの激励に全力を注がれます。
 ペルー警察から派遣されたある女性は、香峯子夫人の警護に当たっていました。
 彼女は、先生のペルー滞在中、先生ご夫妻のメンバーへの温かな励まし、彼女自身への気遣いに大変に感銘を受けます。
 先生ご夫妻がアメリカへ出発する時には、涙を流して、“行かないで!”と引き留めるほどでした。結婚する時には「SGI会長ご夫妻に仲人になってもらいたい」と依頼するほど、深い信頼を寄せていたのです。
 そのことは、先生ご夫妻の振る舞いが、いかに誠実で、相手の心に限りない感動を与えるかを示す、一つの証明ではないでしょうか。

ベラウンデ大統領との会見の後、池田先生に国家勲章「ペルー太陽大十字勲章」が親授された(1984年3月、大統領府「黄金の間」で)

ベラウンデ大統領との会見の後、池田先生に国家勲章「ペルー太陽大十字勲章」が親授された(1984年3月、大統領府「黄金の間」で)

全てに勝利を!

 ――84年3月3日、出演者、参加者など総勢1万人が集い、リマ市内で「第1回ペルー世界平和青年文化祭」が開催されました。
  
 その日、小雨が上がったリマの空に、美しい虹がかかりました。リマで雨が降るのは珍しいことです。諸天も寿いでいるかのようでした。
 青年たちは、この日に向けて、「ベンシエンドロ・トード(全てに勝利を)」を合言葉に挑戦を繰り返してきました。あいさつに立った先生は、万感の励ましを送ってくださいました。
 「皆さんは、青春を勝利で飾られた。私は、皆さんの心の奥深く手を差し伸べ、真心と愛情の、固い、固い、握手を交わしたい」「文化運動は平和運動であり、人生の幸福を開花させていく。あらゆる苦難を乗り越えた皆さんにこそ、人生の栄冠を勝ち取る資格があるのです!」
 この文化祭での師との出会いをきっかけに、青年部は大成長を遂げます。翌85年5月には、女子部3000人、男子部2500人が集い、男女青年部の総会を開催することができたのです。
 3度目の訪問から15年がたった99年6月、先生は長編詩「太陽の都に響く 幸の曲」を贈ってくださいました。
 先生は、こう詠まれます。
 「わがペルーは 見事に勝った!/どこよりも 強き信心で!/どこよりも 麗しき団結で!/ともに歩み ともに築きし/広宣流布の黄金譜よ!」
 ペルー広布の一切は、池田先生によって切り開かれてきたものです。
 私たちは、どこまでも先生と共に、広布の黄金譜をつづり続けていきます。
 現在、「ペルーSGI文化会館」の建設が進み、全土で青年が躍動しています。
 「2030年へ! 後継の青年を先頭に 勝利の人材山脈を!!」とのペルーSGIのスローガンのまま、学会創立100周年の2030年へ向け、新たに1万人の地涌の連帯を広げ、勝利の峰を踏破してまいります。