〈新報インタビュー〉 詩人・向坂くじらさん 詩を通し、「生きづらさ」に価値を見いだす2024年3月20日

  • すぐに“答え”は出なくていい

 「詩」と聞くと、「難しそう」「かたいもの」と思う人もいるでしょう。詩人の向坂くじらさんは、詩のワークショップや朗読ライブなどを通し、普段、詩に触れない幅広い層の人にその魅力を伝えています。また、2022年には「国語教室 ことぱ舎」を設立。受験勉強のサポートとともに、生徒たちが「詩」を身近に感じられる環境をつくりました。「詩」の魅力、また「生きづらさ」を抱える若者へのヒントを聞きました。
  

 ――向坂さんの「詩」との出合い、そして、「詩人」として生きようと決めたきっかけを教えてください。
  
 小さい頃から、本を読んだり、物語を書いたりすることが好きな子でした。小説をコンクールに応募したり、大学では短歌サークルに入ったりするなど、書くことを続けてきました。本格的に詩を書くようになったのは、大学生の頃です。
 
 大きな転機となったのは、詩人の上田假奈代さんとの出会いです。上田さんは、大阪の西成区・釜ヶ崎でさまざまな芸術家を招いて創作活動を行う「釜ヶ崎芸術大学」という取り組みをしています。彼女と話す中で、「現代における詩人の役割は何か」を思索するようになりました。詩を書くことだけが詩人の仕事なのか、そもそも詩とは何か。そんなことを考えながら、今も詩と向き合っています。
  
 ――2022年には、学生を対象にした「国語教室ことぱ舎」を設立されました。“答えがある”国語の受験指導と“答えがない”詩など文章の創作の両方を行っているのはとてもユニークですね。
  
 社会人になってから、詩のワークショップに講師として呼ばれるようになりました。また、塾で生徒たちに国語や英語を教えた時期もありました。こうした活動をする中で、自分がやってきたことが“矛盾”するように思えてきたのです。詩の講座では、「書かれたものの読み取り方は、読み手の自由ですよ」と言う一方で、塾では、「この文章はこのように読み解くのが正しいんだよ」と教えるので。
 
 この二つのアプローチは、どちらも大切です。ただ、1回きりのワークショップでは、どうしても限界がある。そこで、生徒の皆さんに両方のアプローチに触れてほしいと思い、「ことぱ舎」を開きました。
 
 教室には、詩集を置くなど、生徒たちが日常的に詩に触れる機会をつくっています。彼らの気が向いたら、一緒に詩や短歌の創作もしています。 

  
 ――多くの人に詩に触れてもらうため、詩のワークショップや朗読ライブなども行っていますね。
  
 私自身、もちろん詩は好きですが、音楽や演劇、映画も大好きです。また、世間的に詩が読まれていない風潮には、多少なりとも悔しい部分もあります。
 
 多くの人に詩を身近に感じてほしいと思い、大学時代から、音楽とかけ合わせて詩を発表したり、朗読会を開いたりしてきました。
  
 ――向坂さんが感じる「詩の魅力」とは何ですか。
  
 私が書くことの多い「口語自由詩」の魅力は、「何をやってもいい」というところだと思います。
 
 詩人の皆さんは、この「何をやってもいい」というテーマに対して、戸惑いながらも、さまざまな答えを提示されるわけです。1文字だけの詩もあれば、立体的に見えるように文字が配置された詩、しゃべったことをそのまま書き起こした詩もあります。表現方法は多種多様ですが、いずれも詩人のエネルギーの広がりみたいなものを感じることができて、本当に面白いです。
 
 「何をやってもいい」ということは、詩に限らず、音楽や小説など芸術一般ででもそうなのかもしれないのですが、私にとっては「自由になれる場所」が詩でした。
  
 ――普段の生活の中で、詩に触れる機会は多くないように感じます。いきなり詩って書けるものなんですか?また、詩を書くためにはある程度“センス”のようなものが必要なのでしょうか?
  
 実際、ワークショップに参加した人にうかがってみると、「満足いくものが書けた!」という人はなかなかいないですね。むしろ、「自分が書きたいものを書き切ることができなかった」みたいな感想が多いです。私としてはそれがむしろうれしく、「書きたいものがある」という地点にまでたどり着いてもらえたことが、まずすばらしいことだと思っています。
 
 また、私の感覚としては、「書きたいもの」って「訴えたいもの」とは違うので、全然興味がないテーマでも書いていくうちに、言葉が紡ぎ出されてくることがあるのです。
 
 「詩を書くにはセンスが必要」と思う方も多いようですが、センスというものは「ある・なし」ではなく、グラデーションのようなものであって、人によっていろいろなベクトルに向いています。だから「私ってセンスがないな」と感じた作品であっても、読み手にとっては新鮮に感じたりします。自分の書いたものがおもしろいかどうかは、案外自分では判断できないこともあると思っています。
   

けれども書く

 ――就労支援施設などでも、詩のワークショップをされています。
  
 私自身、就職活動の際はとても苦労しました。周りの友達も、就活に行き詰まって自暴自棄になっている姿を見てきました。
 
 就活って、「自己PR」を求められるじゃないですか。けれど、「自己PR」や「自己分析」の前提には、“理解可能な自分”が存在することになります。しかし、そのためには、その人に備わる多様な側面を捨てることにもなり、そうするとかえって自分の姿が見えづらくなってくる。
 
 就活に限らずSNSなど、今の社会では、「自分とは何か」を問われる場面が多いです。そのことが若者にとっての「生きづらさ」に関係しているのではないでしょうか。
 
 詩の読み書きを通して、「自分が世界をどのように見ているのか」に気付くなど、自分から離れられる感覚があります。自分の「外」に目を向けることで、結果として、客観的に自分を見ることになる。そういう感覚を持って暮らすことが、「生きやすさ」につながっていくように思うのです。
  
 ――「コスパ」「タイパ」という言葉が象徴的なように、現代社会には、すぐに答えを求める傾向が強いように感じます。こうした風潮も、「生きづらさ」の要因になっていませんか。
  
 そもそも「コスパ」「タイパ」など、効率化を求めた先に“答え”があるのかは疑問ですよね。効率化そのものは悪いことではないと思いますが、こうした考えには、「答えを出す」よりも「答えが出ていないけど、まあいいか」と、思考停止する傾向があるように見えます。「答え」よりも、「楽をしたい」みたいな感覚が強いのかなと。
 
 詩には答えがありません。かといって「答えに向かっていない」わけではない。答えを出しようのないもののことを、しかし書きはじめてみようとするエネルギーが詩作にはあります。
  
 ――作家で精神科医の帚木蓬生氏も、「ネガティブ・ケイパビリティ」(答えのない事態に対して耐える能力)という概念を提唱されています。コロナ禍以降、注目されましたよね。
  
 そうですね。この概念は、ジョン・キーツというイギリスの詩人の発想から生まれたものですよね。
 
 私は、詩作の本質は、「答えは出ていない。けれども書く」という姿勢にあると思います。「答えを出すのは難しい」で止まっていては、沈黙で終わってしまう。「詩を書く」ということは、答えの出ない中で答えを求めるという、“中ぶらりんの状態”をタフに受け入れることでもあります。
 
 言い換えれば、詩を作ることもまた、その力になるのではないでしょうか。それぞれが抱える「生きづらさ」を受け入れ、そこに自分なりの価値や意味を見いだす。その力になるのではないでしょうか。

  
 さきさか・くじら 1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学卒。国語教室ことぱ舎代表。2016年より、教育機関や企業などで、詩に関するワークショップなどを行っている。主な著書に『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)など。その他、新聞や雑誌などに詩や書評を寄稿。
  
  
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