〈池田先生 永遠の指針〉 3・16「広宣流布記念の日」――「随筆 新・人間革命」〈「3・16」の大儀式を偲びつつ〉から2024年3月16日

  • 学会は宗教界の王者なり 創価の魂のバトンを愛する青年に

 本紙では、「池田先生 永遠の指針」と題して、折々の先生の指導を掲載していく。きょうは3・16「広宣流布記念の日」66周年。本紙1998年3月8日付「随筆 新・人間革命」〈「3・16」の大儀式を偲びつつ〉(『池田大作全集』第129巻所収)を抜粋して紹介する。

「3・16」50周年を記念する「新時代第16回本部幹部会」で、ピアノを奏でる池田先生。愛する同志のために“大楠公”などを力強く(2008年3月、八王子市の東京牧口記念会館で)

「3・16」50周年を記念する「新時代第16回本部幹部会」で、ピアノを奏でる池田先生。愛する同志のために“大楠公”などを力強く(2008年3月、八王子市の東京牧口記念会館で)

 
 われは、師弟の誓いを果たしたり。
 われは、同志の誓いを果たしたり。
 われは、わが信念の目的を果たしたり。
 
 富士の裾野に集いし、あの日から、新しき広宣流布の回転は始まった。
 この日は寒かった。
 秀麗なる富士が、堂々と見守っていた。
 「3・16」の儀式は、晴ればれとしていた。
 戸田先生が、若き青年部に、確かに、広宣流布をバトンタッチすると宣言なされた。若き弟子たちの心は燃えた。使命は炎と燃え上がった。
 一九五八年(昭和三十三年)のあの日、余命幾ばくもなき、われらの師・戸田城聖先生のもとに、六千名の若き弟子が集まった。
 皆、生き生きと、この日を祝った。日本中から集った若き広宣の健児が、握手をしたり、肩を叩いたり、談笑している姿は、未来の勝利を勝ち取った喜びの姿に見えた。
 ◇
 この年の三月、一カ月間にわたり、先生のご生涯の総仕上げともいうべき、数々の行事が続いていた。
 二月末、先生ご到着。お体の具合は甚だ悪い。何度も医師を呼ばねばならぬ状況であった。しかし、病篤き広布の師の声は、厳然として鋭かった。
 「大作、絶対に、私の側から離れるな。いいか、四六時中、離れるな!」
 思えば、先生はつねに「私のいる所が本部だ」と言われていた。
 早朝から深夜まで、師は私を呼ばれた。時には、午前三時ということもあった。急ぎ駆けつけると、先生は「大作は、隼のようだな」と一言。先生をお守りするため、そのまま一日、寝ずに駆け回ったこともあった。
 ◇
 三月一日、先生は、私に言われた。
 「大作、あとはお前だ。頼むぞ!」
 それからまもなく、こう提案された。
 「三月十六日に、広宣流布の模擬試験、予行演習ともいうべき、式典をしておこう!」
 先生は、再起は不能であり、みずからが、ふたたび広宣流布の陣頭指揮をとることはできないと、悟られていた。
 御聖訓には「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(全955・新1283)と、仰せである。「3・16」は、その御遺命のままに生き抜かれた先生の、不惜の精神を永遠にとどめ、受け継ぐ儀式であった。また、先生から私へ、広宣流布の印綬が渡される二人の式典であり、師弟の不二の儀式であった。
 私は、その深い意義を嚙み締めつつ、いっさいの責任を担い、全力で大儀式の準備にあたった。
 先生のお体は、日ごとに衰弱されていったが、「3・16」を迎えるまでは、私に、そして青年に、後事を完璧に託すまではと、必死に、死魔と闘われた。
 私は、つねにお側に随い、師にお仕えした。先生は、幾度となく、私を呼ばれては、重要な広布の未来図を語ってくださった。
 先生の一言一言は、すべて、私への遺言となった。全部が、後継の大儀式の“序分”となった。
 この「3・16」の大儀式には、総本山の見学も兼ねて、ある政治家が出席する予定であった。
 ◇
 その政治家と戸田先生とは、友人であった。
 だが、当日の朝になって、周囲からの横槍が入り、「欠席する」と電話してきたのである。
 先生は激怒された。電話口で、「あなたは、青年たちとの約束を破るのか!」と、鋭い語調で叫ばれた。
 ◇
 「だれが来なくとも、青年と大儀式をやろうではないか!」
 先生に、落胆は微塵もなかった。後継ぎの真実の青年さえいれば、それでよいというのが、先生の胸奥のお心であった。
 また、先生は、まだ儀式の日程も決まらぬうちから、青年をどうやって励まそうかと、次々に手を打たれていた。
 早朝、到着することになる青年たちのために、豚汁を振る舞う用意もされた。
 ◇
 「私が断固として指揮をとるからな」
 戸田先生は、こう言われたが、お体の衰弱は極限に達していた。すでに、歩くことも困難になっていた。
 私は、先生をお乗せするために、信頼する青年に指示して、車駕を作った。
 先生は、「大きすぎて、実戦に向かぬ!」と叱責された。
 最後の最後まで、命をふりしぼっての、愛弟子への訓練であった。そのありがたさに、私は心で泣いた。
 弟子の真心に応え、先生は車駕にお乗りくださり、悠然と、指揮をとられた。
 車駕を担いだ青年たちの顔には、喜びがあふれ、額には、黄金の汗が光っていた。

学会歌の指揮を執る池田先生と戸田先生(1958年3月、静岡で)

学会歌の指揮を執る池田先生と戸田先生(1958年3月、静岡で)

 
 晴れの式典の席上、戸田先生は宣言された。
 「創価学会は、宗教界の王者である!」
 この師子吼を、私は生命に刻んだ。否、断じて“王者”たらねばならぬと、深く、深く心に誓った。
 「宗教界の王者」とは、思想界、哲学界の王者という意義である。
 王者の「王」の字は、横に「三」を書き、「一」の字を縦に書く。「三・一六」の「三」と「一」に通じようか。
 また、「六」とは、集い来った六千の使命の若人、そして、後に続く六万恒河沙の地涌の同志なるか。
 「3・16」の大儀式は、「霊山一会儼然未散」(霊山一会儼然として未だ散らず)の姿さながらに、われらには思えた。
 式典終了後、バスで帰途につく青年たちを、私は、音楽隊のメンバーとともに、全魂をこめて見送った。
 やがて、彼らも帰る時刻となり、あいさつに来た。その時、私は音楽隊長に頼んだ。
 「申しわけないが、もう一曲、演奏してくれないか。二階に戸田先生がおられる。お別れの曲を一曲」
 隊員たちは、快く荷をほどき、一生懸命に演奏してくださった。曲は、あまりにも思い出多き、「星落秋風五丈原」(土井晩翠作詞)である。
 
 〽祁山悲秋の風更けて
  陣雲暗し五丈原
  …………
 
  今落葉の雨の音
  大樹ひとたび倒れなば
  漢室の運はたいかに
  丞相病あつかりき
 
 その詩を思い返しながら、私は、心で叫んでいた。
 “先生、お聴きください。青年部は、弟子たちは、意気軒昂です。ご安心ください!”
 大儀式が終わってまもないある日、宗門の腐敗の兆候を感じとられた先生は、厳として言われた。
 「追撃の手を緩めるな!」
 先生は、必ず宗門が「濁流」となりゆくことを、明らかに予見しておられた。この言葉は、恩師の遺言となった。
 ◇
 先生は、この「3・16」の大儀式から、十七日後の四月二日、偉大なる生涯の幕を閉じられた。
 「3・16」は、先生とのお別れの、バトンタッチの儀式となった。
 先生亡きあと、「学会は、空中分解する」というのが、世間の厳しき予想であった。
 “師の言葉を虚妄にしてなるものか!”
 私は、師弟不二の“魂のバトン”を握り締め、走りに走った。
 ◇
 師匠の教えを実現してこそ弟子である。誓いを果たしてこそ弟子である。そこに、私の最大最高の誇りがある。
 日蓮大聖人は、「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(全231・新112)と仰せである。
 決意の一念が、現在の行動が未来を決する。
 「3・16」とは、弟子が立ち上がる、永遠の「本因の原点」の日だ。
 私にとっては、毎日が新しき決意の出発であり、毎日が「3・16」であった。
 ◇
 草花も、生き生きと、緑と花の乱舞の三月。
 私が愛し、信頼してやまない青年たちよ!
 二十一世紀は、君たちの大舞台だ。
 君たちの出番がついに来た。厳然と始まった。