【師子の光彩――大願を果たさん】第4回 3・16「広宣流布記念の日」2024年3月13日

「行こう! ついていらっしゃい」――池田先生は指揮杖を振りながら、音楽隊の行進の先頭に立つ(1958年3月16日、静岡で)。“広宣流布の記念式典”の終了後、参加者の見送りなど一切を終えた先生は、恩師のいる場所に向けて音楽隊に演奏を依頼。「星落秋風五丈原」が奏でられた。先生は心で恩師に叫んだ――“お聴きください。青年部は、弟子たちは意気軒高です。ご安心ください!”

「行こう! ついていらっしゃい」――池田先生は指揮杖を振りながら、音楽隊の行進の先頭に立つ(1958年3月16日、静岡で)。“広宣流布の記念式典”の終了後、参加者の見送りなど一切を終えた先生は、恩師のいる場所に向けて音楽隊に演奏を依頼。「星落秋風五丈原」が奏でられた。先生は心で恩師に叫んだ――“お聴きください。青年部は、弟子たちは意気軒高です。ご安心ください!”

先生、広宣流布は必ず弟子の手で成就します

 師を求めて集ってきた青年たちの瞳は、凜々しく輝いていた。
 1958年(昭和33年)3月16日、男女青年部の精鋭6000人が集結し、“広宣流布の記念式典”が行われた。
 午後0時40分、式典が開幕。青年部の室長であった池田先生が司会を務めた。池田先生が戸田先生のあいさつを告げると、恩師は座ったままマイクに顔を近づけた。体は衰弱し、立つことはできなかったが、力強い師子吼を放った。
 「創価学会は、宗教界の王者であります。何も恐れるものなどない。諸君は、その後継者であるとの自覚を忘れることなく、広宣流布の誉れの法戦に、花の若武者として、勇敢に戦い進んでもらいたい」
 “広布の印綬”は、池田先生を中心とする創価の青年たちに授けられた――。
 この年の初め、恩師は「もう何もいらない。ただ、人材が欲しい」と語った。前年の12月、生涯の願業である75万世帯の弘教を達成し、次代を担う弟子たちに広布の一切を託す時を迎えていた。
 3月上旬、時の首相の来訪が決定すると、戸田先生は「将来のために、広宣流布の模擬試験、予行演習となる式典をしよう」と池田先生に提案。11日、式典の開催が正式に発表される。参加者には、箸と椀を持参するよう連絡があった。
 16日早朝、会場に到着した青年部員は、連絡内容の意味が分かった。「何か温かいものを食べさせてやりたい」との恩師の真心で、豚汁が振る舞われたのである。まだ寒さの残る季節。青年たちは、師の慈愛に胸を熱くした。
 そんな中、戸田先生のもとに、一本の電話が入る。首相からの欠席の連絡だった。非礼を詫びる首相に対し、恩師は語気を強めた。
 「私に詫びよと言っているのではない。詫びるのは、青年たちにだ!」
 電話の後、戸田先生は、池田先生をはじめ、青年リーダーに呼びかけた。
 「誰が来なくとも、青年と大儀式をやろうではないか!」
 正午前、戸田先生は、池田先生に体を支えられながら、会場へ移動を始めた。玄関前には、「車駕」が置かれていた。恩師の体を気遣う池田先生が発案し、青年部で製作したものである。前日、完成した車駕を見た時、恩師は厳しく叱責。この時も、重ねて言った。
 「大きすぎて、実戦には向かぬ。戦いにならんぞ!」
 池田先生は、前に歩み出た。
 「申し訳ございません。しかし、この車駕は、弟子が真心で作ったものです。どうか、お乗りください」
 その言葉を聞いた恩師は、にっこりとうなずき、弟子たちに身を預けた。師弟の峻厳な呼吸だった。
 歴史的な式典が終わった後、戸田先生は、池田先生が先導する車駕に再び乗り、会場を後にする。池田先生は、晴れやかな恩師の顔を仰ぎながら、心に誓った。
 “先生、広宣流布は、必ず、われら弟子の手でいたします! どうか、ご安心ください”
 後日、池田先生は「3・16」の恩師の雄姿を振り返りながら、こう記した。
 「地湧の菩薩の棟梁としての、毅然たる、お姿であった」
 「大いなる師匠の鵬翼に包まれて育った強き若鷲がぐんぐん飛ぶ時が来たのだ」
 「大樹の根に連なる、若き青年部の樹木がすくすくと育ち、やがて大空を覆う日も間近であろう」(1958年5月号「大白蓮華」)
 そこには、青年の陣列を大きく広げ、師恩に報いるとの、強い決意が込められていた。

戸田先生と語らう池田先生(1958年3月1日、静岡で)。この日、恩師は愛弟子に後事の全てを託す。「これで、私の仕事は終わった」「あとはお前だ。頼むぞ!」。池田先生は“後継の誓い”を胸に、新たな広布の扉を開いていった

戸田先生と語らう池田先生(1958年3月1日、静岡で)。この日、恩師は愛弟子に後事の全てを託す。「これで、私の仕事は終わった」「あとはお前だ。頼むぞ!」。池田先生は“後継の誓い”を胸に、新たな広布の扉を開いていった

人類を照らす地涌の陣列を

 “広宣流布の記念式典”から1年後の59年(同34年)3月16日、池田先生は青年部の代表に語った。
 「3月16日を、永遠に広宣流布への記念の節にしていこう!」
 翌60年(同35年)の同日には、青年たちと「威風堂々の歌」を合唱。さらに先生は訴えた――学会は「3・16」「4・2」そして「5・3」へと、連続勝利のリズムで永遠に勝ち進むのだ。
 先生の手によって、3月16日は青年部の闘争の節目として刻まれ、広布の勢いは加速していく。
 「3・16」の記念式典から、わずか4年後の62年(同37年)、学会は300万世帯を達成。70年(同45年)には750万世帯となり、“宗教界の王者”“精神界の王者”たる創価の旗が翻った。
 78年(同53年)3月、先生は、東京・立川文化会館で開かれた男女青年部合同の部長会に臨んだ。
 席上、実現した恩師への誓いなどを“十の誇り”として紹介。日本、そして世界の広布の基盤が築かれたことを高らかに宣言する。
 さらに、3・16「広宣流布記念の日」の意義について言及し、広布は永遠に遂行せねばならない「聖業」であり、青年が継承すべき「大願」であると力説。「諸君もまた、私の意志を体していただきたい」と、不二の前進を訴えた。
 “広宣流布の記念式典”から30周年を刻む88年(同63年)3月には、長編詩「青は藍よりも青し」を発表。「君よ 君たちよ/新たなる第二の『七つの鐘』を頼む」と、若き友に後継のバトンを託した。
 先生の青年育成は、恩師への誓いの実現に向け、先頭に立って走る中で、新たな誓願の火をともす師子の大闘争にほかならなかった。先生は、青年部に、こう呼びかけている。
 「師弟は『従藍而青』なるゆえに、後継の青年たちが、私以上の戦いをできないわけがありません」
 「人類の宿命を転換しゆく、この地涌の陣列を、私たちは、一人を大切に、さらに『二人・三人・百人と』(全1360・新1791)広げながら、希望に燃え、勇気に燃えて、躍進していこう」
 来る年ごとに、学会は「3・16」から「4・2」、そして栄光の「5・3」へと新生のリズムで前進する。その伝統を築いたのは池田先生だ。
 この勝利のリズムを受け継ぐ若師子の人間革命のドラマが今、世界各地でつづられている。

【モノクロ写真をカラー化】

 今回掲載されているカットは、モノクロ(白黒)でしか見られなかった聖教新聞社所蔵の写真を、編集部の責任のもと、AI(人工知能)を活用してカラー化したものです。

1958年3月16日の池田先生(カラー化する前のモノクロ画像)

1958年3月16日の池田先生(カラー化する前のモノクロ画像)

戸田先生と語らう池田先生(カラー化する前のモノクロ画像)

戸田先生と語らう池田先生(カラー化する前のモノクロ画像)