〈インタビュー〉 「学校依存社会」の転換へ――子どもたちを苦しめる「ブラック校則」の現状とは2024年2月28日

  • 名古屋大学大学院教授 内田良さん

 「冬でもマフラー着用禁止」など、子どもたちを苦しめる「ブラック校則」の現状とは――。(「第三文明」3月号から)
 

1976年、福井県生まれ。名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程修了。博士(教育学)。専門は教育社会学。ブラック校則や教員の過重労働など「学校リスク」を研究。また各地の教員研修やインターネットでの情報発信にも努め、「ヤフーオーサーアワード」(2015年)を受賞。著書に『教育現場を「臨床」する』(慶應義塾大学出版会)など多数。本人X(旧ツイッター)@RyoUchida_RIRIS
 

1976年、福井県生まれ。名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程修了。博士(教育学)。専門は教育社会学。ブラック校則や教員の過重労働など「学校リスク」を研究。また各地の教員研修やインターネットでの情報発信にも努め、「ヤフーオーサーアワード」(2015年)を受賞。著書に『教育現場を「臨床」する』(慶應義塾大学出版会)など多数。本人X(旧ツイッター)@RyoUchida_RIRIS  

「ブラック校則」とはどういうものなのか

 昨年、社会全体として「こどもまんなか社会」の実現に取り組むことが決定されましたが、子どもの権利を考える上で喫緊の課題が、「ブラック校則」の問題です。

 ブラック校則とは、例えば、「黒以外の頭髪やクセ毛の生徒は『地毛証明書』を提出する」「下着は白に限定し教員の下着検査を受ける」など、規則の理由が不明確である、または、規則自体がプライバシー侵害など人権問題にあたるような校則全般をいいます。

 この問題の根深さは、「校則」それ自体を明示的に定めた法令法規が存在しないこと。そして、法的根拠が曖昧なまま、社会からは「学校秩序を維持している」「子どもたちの非行化を防いでいる」など、何となくの印象論で容認され続けている点にあります。

 こうした印象の遠因は、1980年代まで遡ります。当時、校内暴力の嵐が全国の学校に吹き荒れ、教師を殴打する、バットで窓ガラスを割る、廊下をバイクで走るなどの事案がそこかしこで見られました。学校側は事態を収束させるため、厳しい校則を定めて徹底。これが一定の効果を発揮したのです。

 時代背景を踏まえれば、当時の選択はやむを得ないものだったのかもしれません。しかし、子どもの気質が穏やかになった現代になっても、従来の在り方に拘泥し続ける状況は妥当とはいえません。

 象徴的な事例は、2020年の東京都教育長による「ツーブロック(頭髪の左右を刈り上げる髪形)」発言です。一部の都立高校で、ツーブロックが禁止されている理由を問われた際に、「外見等が原因で事件や事故に遭う可能性があり、生徒を守る趣旨で定めている」と答えたのです。

 同発言には、「髪形によって事件に巻き込まれるというデータはあるのか」「事故に巻き込まれた場合、本人の髪形のせいだというのか」との批判が多数寄せられました。

 ただ、こうした感覚は件の教育長特有のものではありません。これまで私が行ってきた教員への聞き取り調査では、「服装の乱れは非行のはじまり」「ツーブロックを認めると、やがて『モヒカン』になってしまう」と真剣に語る教員が少なくなかったのです。そこからは、今の学校現場があり得ないようなリスクを想定し、その想定に基づいて、子どもたちをブラック校則という“鋳型”に押し込もうとしていることがうかがえるのです。

「学校依存社会」からの転換のために

 服装の乱れは非行の始まりなのか――。その答えを、コロナ禍における地方の学校に見ることができます。

 コロナ禍以前、宮崎県の一部学校では、冬季の教室内でコートやマフラー等の防寒具着用が禁じられていました。ところが、コロナ禍で室内換気の必要性が生まれ、防寒具の着用が認められたのです。

 また、岐阜県のある学校では、ウイルス付着のリスクを踏まえ、毎日洗濯しづらい制服ではなく、ジャージや運動着、私服での登校など、多様な服装が認められました。

 両地域の学校とも、服装が大きく変わったわけですが、当然ながら子どもたちの非行が増えた事実は報告されていません。このように、校則というのは社会生活環境の実情に応じて、柔軟に変えて差し支えのないものなのです。

 政府は昨年末、「こども大綱」を閣議決定しました。今後5年程度の子ども子育て政策の中に、初めて校則問題を位置づけたのです。これは、ブラック校則が社会問題化していることを踏まえての決定と指摘されています。

 

 大綱では、校則は教育目標達成のため必要かつ合理的な範囲で定めるものであり、校則を見直す際は、子どもや保護者らの意見を聞くよう学校と教育委員会に求めました。これは、ブラック校則是正の好機ですし、是正のためには、地域・市民・家庭の理解と協力が必要不可欠です。

 端的に言えば、社会全体がこれまで、あらゆる責任を学校に丸投げしてきた「学校依存社会」を克服し、教員の負担軽減を図る必要があります。具体的には、学校への過剰なクレームをやめることです。

 例えば、放課後に子どもたちがスーパーのフードコートで談笑していると、その光景を見た店員や住民が「うるさいから注意を」と学校にクレームを入れる。やむなく教員が現場へ駆けつけ、関係者に謝罪し、子どもたちに解散を促す――というのが現状です。

 本来、下校後の子どもたちの行動は自由であるべきで、学校が介入する権限はありません。また、子どもたちにトラブルが起こった場合は、法的に考えるならば保護者が対応すべきことです。

 しかし、誰もが学校の責任を問い、対応を求めるため、学校は不満を抱きながらも対応せざるを得ない。挙げ句、厳格な校則で子どもたちをしばり、苦情が入らない方向へと向かってしまう。ブラック校則が生まれる背景には、こうした要因もあるのです。

子どもを信じ抜く“度量”こそ

 ぜひ政府、とりわけ「こども家庭庁」には、ブラック校則の実態の周知に努め、引き続きブラック校則是正の世論を喚起していただきたい。そうして、地域や社会、家庭がこの問題をより深く考え、行動できるよう促してほしいのです。

 同時に、学校関係者への働きかけも望みたい。全国には、長い歳月をかけて生まれたブラック校則が無数に存在し、今も子どもたちにつらい思いをさせています。それらを子どもたちだけで廃止するのは至難の業です。

 事実、私のもとにも「何カ月も学校側と話し合い、ようやく着用できる靴下の色が1つ増えた」との声が寄せられています。子どもたちの主体性や積極性を頼もしく感じつつも、前途の多難さを思わずにはいられません。

 本来、理不尽な校則を生み出してきたのは大人であり、それを強いられてきたのは子どもたちです。いわば“被害者”が努力を強いられるのは、公正な状況とはいえません。ゆえに、大人自身の手で旧弊を一掃し、子どもたちそれぞれの個性や才能を発揮できる場の整備を後押ししてほしいのです。

 すべての子どもがかけがえのない大切な存在です。少子化時代にあっては、一層、未来を担う子どもが大切です。だからこそ私たち大人が、子どもの可能性を信じ見守っていく“度量”を示し、すべての子どもが輝ける「こどもまんなか社会」が到来するよう願ってやみません。