誓願 284~285ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年2月27日

 山本伸一が、正信会僧らの理不尽な学会攻撃に対して、本格的な反転攻勢に踏みきり、勇躍、創価の同志が前進を開始すると、広宣流布の水かさは次第に増し、月々年々に、滔々たる大河の勢いを取り戻していった。
 しかし、広布の征路は険しく、さまざまな試練や、障害を越えて進まねばならない。
 伸一自身、個人的にも幾多の試練に遭遇した。一九八四年(昭和五十九年)十月三日には、次男の久弘が病のために急逝した。享年二十九歳である。彼は、創価大学大学院法学研究科の博士前期課程を修了し、「次代のために創価教育の城を守りたい」と、母校の職員となった。
 九月の二十三日には、創価大学で行事の準備にあたっていたが、その後、胃の不調を訴えて入院した。亡くなる前日も、「創大祭」について、病院から電話で、関係者と打ち合わせをしていたようだ。
 久弘は、よく友人たちに、「創価大学を歴史に残る世界的な大学にしたい。それには、命がけで闘う本気の人が出なければならないと思う。ぼくは、その一人になる」と語っていたという。
 伸一は、関西の地にあって、第五回SGI総会に出席するなど、連日、メンバーの激励に奔走していた。訃報が入ったのは、十月三日夜であった。関西文化会館で追善の唱題をした。思えば、あまりにも若い死であった。しかし、精いっぱい、使命を果たし抜いての、決意通りの生涯であったと確信することができた。
 伸一は、久弘の死は、必ず、深い、何かの意味があると思った。
 広宣流布の途上に、さまざまなことがあるのは当然の理である。しかし、何があっても恐れず、惑わず、信心の眼で一切の事態を深く見つめ、乗り越えていくのが本物の信心である。広布の道は、長い長い、一歩も引くことのできぬ闘争の連続である。これを覚悟して「難来るを以て安楽と意得可きなり」(御書七五〇ページ)との原理を体得していくのが、大聖人の事の法門であり、学会精神である。