創価大学・倉橋耕平准教授に聞く2024年2月24日

〈インタビュー〉 どう考える?「論破文化」

 インターネットやSNSで、目にするようになった「論破」。言葉で相手を言い負かす動画は、スカッとする感覚を持ちつつも、どこか後味の悪さを感じる部分も。こうした論破ブームの背景や影響について、メディア文化論、ジェンダー論を専門とする創価大学の倉橋耕平准教授に話を聞いた。

  
【ポイント】
議論の本質は「勝ち・負け」ではない。
別次元の言説を同じ土俵に上げる「偽の等価性」に注意

  
 〈現在、「論破」に関するコンテンツは、インターネット上で広く消費されています。こうした論破ブームの背景には、何があるとお考えですか〉
  
 論破ブームのような文化現象は、さまざまな要因が絡み合って成立するので、特定の原因を定めるのは簡単ではありません。その上で、大きな流れでいえば、「消費者の評価が重視されるメディア文化」に変わってきたと指摘できます。
  
 そこで技術的な後押しとなったのは、インターネットの普及です。例えば、グルメであれば、かつてはテレビや雑誌での評価が大きかった。そこで取り上げられた店は繁盛したわけです。今、「食べログ」に代表されるように、消費者の人たちの評価がインターネットで表示され、店を選ぶ一つの基準になっています。
  
 しかし、技術的な発展以前から文化消費者の評価を得たい欲望が共有されてきたから現状があると言えます。「ユーチューバー」もそうですね。さまざまな種類の動画がアップされていますが、ドッキリや大食いなど、かつてのテレビ番組での焼き直しのような内容も多いです。私ぐらいの世代からすると、そこまで目新しさを感じません。そう考えると、人間は評価したり発信したりする側に立ちたいという欲望が、メディア文化の中でずっと存在してきたわけですね。
  
 論破文化も同様です。特定するのは難しいですが、論破文化の淵源は、1990年代に出てきたディベートや説得力に重きを置いた自己啓発本のブーム、討論系のテレビ番組の流れからだと考えています。そうした番組では、専門家ではないコメンテーターなどが参加し、政治家や専門家を打ち負かす様子が視聴者にウケたわけです。その後、こうした討論番組の舞台がテレビからインターネット上に変わっただけで、コンテンツの構造そのものは変わっていないでしょう。
  
 〈「論破」を扱うコンテンツには、共通点などはあるのでしょうか〉
  
 まず前提として、私自身の共著で発表した調査によると、ネット上に排外主義的なコメントを書く人は、40代50代の男性がメインであることが明らかになっています。日本ではネットメディアというと「若者文化」というイメージがありますが、ネットの炎上や陰謀論などを引き起こす主体は今や中高年男性です。ネットが普及し始めた90年代当時の若者たちが高齢化したと考えられます。いわゆる「論破力」によってもてはやされる著名人も、こうした男性消費者に支えられている印象を受けます。
  
 「論破」に関するコンテンツの多くは、複雑な物事を捨象して「AかBか」という答えをあらかじめ設定しているため、議論の枠組みが単純化されています。そこでは、論理の緻密性や内容よりも相手を言い負かすことに重きが置かれています。概して、レベルの高い議論にはなり得ませんが、発言を短く切り取るテレビやネットとは相性が良いわけです。こうした論破文化ではびこっているのが、「偽の等価性」です。
  
 専門家と対峙する論客は、科学的根拠に基づいた事実や研究と、個人の見解や俗説などを同じ価値を有するもの、つまり「等価」として扱い、議論のテーブルに乗せてしまうことが多い。いわば、別次元のものが同じ土俵に上げられるわけです。こうしてたわいもない意見でも「格上げ」されることになります。
  

多くの情報が手に入るインターネット。しかし、アルゴリズムがネット利用者の情報を分析・学習することで、見たい情報が優先的に表示されることを忘れてはいけない©metamorworks/PIXTA

多くの情報が手に入るインターネット。しかし、アルゴリズムがネット利用者の情報を分析・学習することで、見たい情報が優先的に表示されることを忘れてはいけない©metamorworks/PIXTA

   
 「偽の等価性」のもとでのディベートは、専門家には不利です。こうした場では、専門知識よりも一般人の感覚を重視した持論や感情に訴えかける言説の方が共感を得られやすいからです。多くの人(文化消費者)が、この図式を無意識に受け入れています。
  
 例えば、「女性専用車両があるのに男性専用がないのはよくない」という主張を聞いたことがあるかもしれません。この「男性専用車両」の発想は、性被害から女性を守るために女性専用車両が誕生した経緯を踏まえれば、的外れな議論です。女性専用車両の背後に存在する問題をゼロにして議論することが、「平等」だと勘違いしているのです。
  
 〈ネット上で、論破に関するコンテンツに触れる機会は少なくないでしょう。そのことは私たちの生活や社会にどのような影響を及ぼすのでしょうか〉
  
 先述の通り、論破に関するコンテンツがもてはやされているのは、中高年世代の一部に限られているとされています。私も普段から学生と関わっていますが、論破的なコンテンツに触れる機会はあるものの、そこまで影響を受けている感じはしないです。ネットやSNS上ならまだしも、こうしたコンテンツが実生活に直接的に影響する可能性は低いと思います。
  
 気がかりなのは、論破文化の影響を色濃く受けている中高年世代の男性たちの中には、会社で管理職などに就くなど、社会的に影響力を持っている人が多い点です。彼らが、そうした地位を利用して、マウントを取ったり、部下を言い負かしたりすれば、さまざまな弊害が生じるでしょう。
  
 それ以上に懸念しているのは、論破を目的としたディベート(のような議論)が、かつての「論壇」や「言論空間」に取って代わってしまうことです。かつての言論空間は、一つの結論を出すことが目的ではなく、社会における重要なテーマを提示して議論する場でした。あるいは、いわゆる知識人・言論人がそのテーマに関してどのような考えを持っているかを観察する場でもありました。
  
 昨今、言論空間の持っていた「議題設定の機能」は失われつつあるように感じます。一方で、X(旧twitter)で炎上していることが、社会の重大事件のように捉えられる傾向が見受けられます。SNSは、議論が“たこつぼ化”しやすいメディアです。自分に関心のある話題しか表示されないので、自分の世界に閉じこもってしまいます。なので、SNSばかりを追いかけていたら、現実を見誤る可能性があると思います。
  

自分の立場を検証

  
 〈論破文化がある種のトレンドになっている今はむしろ、「議論とは何か」を考える契機になると思います。インターネット上だけでなく、日常生活において、より良いコミュニケーションを取るための心がけなどがあれば教えてください〉
  
 まずは、「勝ち・負け」が議論の本質ではないということを理解してほしいです。「勝ち・負け」みたいな判断基軸は、議論の帰結に過ぎません。議論において大切なのはその中身です。「論破した」「論破された」で盛り上がる人たちは、議論の「外側にあるもの」で面白がっているのです。
  
 そもそも、「AかBか」の二つしか答えを設定しないディベートのような議論は、学問や研究の分野ではまず用いられません。学問で扱う複雑な事象を考える上では、何の答えにもならないからです。
  
 学問に限らず、私たちの社会には、「単純化できないこと」であふれています。そして、私たち自身も、そうした複雑な社会の一員であることを忘れないことが大切でしょう。例えば、国籍やエスニシティ(民族性)、ジェンダーやセクシャリティー(性自認や性的指向性のあり方)、職種・キャリア、既婚者か独身者かなど、私たちは、さまざまな物差しが交差するなかを生きています。
  
 その中で、自分が「どのような立ち位置にいるか」を検証することが必要だと思います。例えば、自分の立場から得られる特権を意識せずにした発言・振る舞いが、他者の反感を買ったり、傷付けたりするケースは多々あります。併せて、先述の「偽の等価性」のように、論破を目的としたディベートは、こうした背景や文脈を一切無視した議論だということも認識してほしいです。
  
 “それでは言いたいことも言えない!”と思う人もいるかもしれません。私は、その「言いたいこと」が何を意味し、なおかつ、その「言いたいこと」を発話することが何を意味するのかを、まずは考えてほしいと思うのです。
  
  

 〈プロフィル〉くらはし・こうへい 1982年生まれ。愛知県出身。関西大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専攻は社会学・メディア文化論・ジェンダー論。立命館大学非常勤講師などを経て現職。著書に『歴史修正主義とサブカルチャー』など。