〈読書は人生を開く扉――創価大学「池田文庫」をひもとく〉第14回 志を持ち読書で人格を磨く青年はどの時代にもいる2024年2月21日

  • 創価大学文学部教授 季武嘉也
  • 鶴見祐輔と大正教養主義

 “創立者の若き日の読書”をテーマに創価大学での授業を巡る本連載。第14回は日本近現代政治史、とくに『大正期の政治構造』をはじめ大正時代の研究で名高い創大文学部の季武嘉也教授に話を聞いた。池田先生が愛読した『ナポレオン』『バイロン』などの伝記の執筆や『プルターク英雄伝』の翻訳を手がけた鶴見祐輔。その生涯をたどり、池田先生が影響を受けた「大正教養主義」の背景を考える。さらに、日本における「個人文庫」の歴史と実情に触れ、研究者として実際に「池田文庫」を活用してきた経験から、池田先生が「池田文庫」に託したメッセージに迫る。
 

 季武 じつは私は、「池田文庫」を最も多く利用してきた人間かもしれません。
  
 ――そうなんですか?
  
 季武 はい。ヘビーユーザーです。ずいぶん足を運びました。ゼミのガイダンスでも「池田文庫」を閲覧しました。
  
 ――「池田文庫」には、どのような特徴があるとお考えですか。
  
 季武 「池田文庫」は個人文庫なのですが、蔵書が満遍なく集まっている。ふつう、もっと偏りがあるものですが、「池田文庫」はジェネラル(全体的)です。そのうえで、歴史、哲学などの人文系が強いですね。
 
 とくに日本近代史関連の本は、我々研究者にとっても、おおむね定評のある本が多い。(「池田文庫」の「伝記」の棚に手を置いて)助かったのは、ここから向こうの本ですね。(『情報天皇に達せず 細川日記』や『大浦兼武伝』を指さしながら)歴史学の研究室にあるような本や、政治家の評伝も充実している。
 
 創大の図書館の蔵書を検索すると、何度も「池田文庫」に行き着くんです。大規模の大学ではなく、中堅の大きさの大学で、我々が専門にしている分野の本がこれだけそろっているのは、とてもありがたかった。
 
 逆に、どうやって集められたのか、知りたいくらいです(笑)。
 
 池田先生は、敗戦で日本が荒廃した中、本を集められた。ここにこそ復興の活路がある、と感じられたのでしょう。「池田文庫」の特徴を示すのは、「情熱」の一言かもしれません。
  
 ――日本の各地に、寄贈された個人名を冠した「個人文庫」がありますが、季武教授は数多くの「個人文庫」の調査に携わり、後世に残すため、尽力してこられました。
  
 季武 私は長年、国立国会図書館の憲政資料室で客員調査員を務めてきました。憲政資料室では、主に日本近現代の政治史関係の資料を収集、整理、読解しています。古文書を鑑定して、「お値段はいくら?」というようなテレビ番組がよくありますよね。歴史上、有名な政治家の個人書簡などを収集して、専門家が分析している部署を想像していただければ分かりやすいでしょう。
 
 国立国会図書館は、日本で出版されたほとんど全ての書籍を収蔵しています。近年では、データベース化が進み、約500万点のデジタルコレクションがインターネットで閲覧可能になりました。明治、大正期などの著作権に制限がない書籍は、キーワードを入力すれば、検索することもできるようになっています。これは、デジタル革命と呼ばれる画期的な進歩です。
  
 ――例えば「牧口常三郎」と入力すれば、初代会長の牧口先生について言及された古くからの書籍がずらりと見つかります。創価大学にも、国立国会図書館のデータベースを検索して、有料で複写できるサービスがあります。
  
 季武 創立者の『完本 若き日の読書』を拝見したり、これまでの著書を読んでみても、その博覧強記さには、いつも頭が下がります。国立国会図書館のデータベースは、日本で最大の収蔵量ですから、「スーパー博覧強記」ともいうべき膨大な知識を私たちが簡単に活用できるということになります。
 
 さて、「池田文庫」のような「個人文庫」について、私自身が資料調査をしたことのあるいくつかの例を挙げてみたいと思います。
 
 まず、高知県佐川町にある「青山文庫」です。田中光顕(1843―1939)という土佐藩出身で宮内大臣を務めた政治家がおります。彼が地元の子弟たちの教育のため、自身の蔵書や幕末維新の志士たちの生前の書などを寄贈したのが、「青山文庫」として残っています。中岡慎太郎を補佐した人物なので、維新志士たちを顕彰したいという気持ちもあったのでしょう。
  
 ――中岡慎太郎といえば、坂本龍馬の盟友として有名です。「青山文庫」には、青年たちを育成するという意義と、故人の生涯をしのび、歴史にとどめるという二つの意義があるのですね。
 

個人文庫から見える 人間、歴史、知の営為

 季武 山口県徳山には、かつて「児玉文庫」がありました。これは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも描かれた明治の陸軍大将・児玉源太郎が開設したものです。残念ながら、これは大部分が太平洋戦争の空襲で焼失してしまいました。ただ、児玉の個人的な書簡などは自宅で焼失を免れたので、その関係文書を調査して本にまとめることができました。
 
 この「児玉文庫」に刺激を受けて、総理大臣を務めた寺内正毅(1852―1919)の子息が山口県に開設したのが「桜圃寺内文庫」です。戦後に資金難のため、閉鎖されましたが、寺内正毅は朝鮮総督だった時期があり、関係資料を日本に持ち帰っていました。後に、その主要な資料が韓国の慶南大学校の博物館に寄贈されました。その他の資料は、現在、山口県立大学の所管となっています。
  
 ――時を超えて、国際交流の糸口となることもあるのですね。三つの個人文庫の例を見ると、名を上げた政治家が、郷土の青年たちの教育のために、たくさんの本を寄贈してきたものばかりです。創立者も、創価大学の学生たちの成長を祈って、「池田文庫」を寄贈されたことがよく分かりました。
  
 季武 これまでの「個人文庫」の課題を振り返ると、持続的な維持管理が難しいということが言えます。個人や町村が故人から受け継いだものが、資金難で限界を迎えることが多いのです。
 
 恐らく、この三つの例に限らず全国各地に個人文庫が散在していたと思いますが、その存在が把握されないまま、消えてしまったものもあるでしょう。私も可能な限りの調査を続けて、近現代の人物の史料が一体どこにあるかを4冊の辞典にまとめたことがあります。ですが、到底、全てを網羅することはできませんでした。
 
 そのように維持管理をされないケースが多いなか、創価大学の「池田文庫」は、その蔵書量を見ても、学生が大いに活用していることを見ても、これほど手厚く維持管理されている例は稀有なものだと感じています。
  
 ――池田先生が18、19歳の頃に読んだ本の一節が「読書ノート」(『完本 若き日の読書』収録)に引用されていますが、鶴見祐輔の著書がいくつか取り上げられていました。季武教授は、鶴見祐輔の関係文書についても史料を収集して保存に尽力してこられましたね。
 
 季武 ハワイ大学のミニチェロさんという研究者が、かつて、鶴見祐輔の娘の和子さんに個人文書を読ませてほしいとお願いをしました。日本語の史料なので、ミニチェロさんは十分に読み込むことができません。私の師匠の伊藤隆先生(東京大学名誉教授)からの依頼で、私は鶴見の書簡や日記を読み解いていきました。今は、それらの貴重な史料も憲政資料室に収蔵されています。個人的な文書からは、当時の鶴見の人間関係などがよく分かるんです。どういう人脈で動いていたのかを正確に把握すると、鶴見を巡る日米関係など重要な歴史的事実がつながっていくんです。鶴見は文才が圧倒的ですから、どのようにラブレターを書いたらいいかというお手本のような文章も残っていました。
  
 ――教科書でただ人物名を暗記するような歴史の勉強とは違いますね。手紙や日記から、人間が生きて、悩みながら行動していた息吹が感じられそうです。池田先生は、鶴見祐輔の『バイロン』から、「人間の関係は鏡だ。自分の心は、相手に映り、相手の心に映る自分の姿が、また自分の心に映る」という一節を「読書ノート」に引用しています。
  
 季武 鶴見祐輔がどのような人だったのか、簡単に振り返りますが、1885年に生まれた鶴見は、旧制第一高校の英法科を首席で卒業。東京帝国大学の法科大学を次席で卒業と、極めて優秀な成績でエリートコースを歩みます。現在の国土交通省に当たる鉄道院に入省し、関東大震災の復興に尽力したことでも知られる後藤新平の娘・愛子と結婚します。
 
 1911年に新渡戸稲造の秘書として渡米し、以来、アメリカで独自の人脈を築いていきました。第1次世界大戦が終結すると、“次の戦争は、太平洋を巡る日本とアメリカの戦争だ”とまことしやかに言われるようになりました。鶴見は、これを何としても食い止めようと決意。20年代には、アメリカで日本への理解を求める「広報外交」を展開していきます。数多くアメリカに渡り、得意の英語を生かして日本の立場を説明する講演活動を行うのです。そして、28年には、衆議院選挙で初当選。この頃に『英雄待望論』という著書を出版。この本で、鶴見は、ビスマルクやシーザー、ナポレオン、ディズレーリなどを「英雄」として紹介しています。
 

政治家、小説家として活躍した鶴見祐輔(写真:近現代PL/アフロ)

政治家、小説家として活躍した鶴見祐輔(写真:近現代PL/アフロ)

ディズレーリとグラッドストン

 ――池田先生は、鶴見祐輔の著書『ナポレオン』や『バイロン』などを愛読していました。『完本 若き日の読書』によれば、22、23歳の頃、古今東西の偉人伝を数多く読んでいたようです。「読書ノート」には、『ナポレオン』の「精神は剣よりも強し」などの多くの言葉が抜き書きされています。
  
 季武 鶴見は、イギリスの政治家ディズレーリに注目しています。保守党のディズレーリ、自由党のグラッドストンと並び称された人物ですが、鶴見自身の政治思想は、「新自由主義」です。一見すると、ディズレーリよりも、グラッドストンに近いように思われます。ディズレーリは、積極的な帝国主義政策を進め、対外発展を志向しました。鶴見としては、グラッドストン的な新自由主義を掲げ、ディズレーリ的な対外発展の道を進もうとしたのではないかと思います。
 
 19年の渡米の際、鶴見はスペイン風邪に感染し、床に伏しました。そこで、分厚いディズレーリの伝記を読み込んでいったようです。鶴見は、ディズレーリを「悪人ぶる善人」と評します。
 
 満州事変(31年)から、日中戦争(37年)へと歴史の歩みが進んでいた36年に、彼は伝記『ディズレーリ』を出版します。
 
 「日本は今や大きい舞台に乗り出しつつある。日本と同じ道を過去に於て歩んだ民族の歴史を点検して、前者の覆轍を後車の戒しめとすることは、今日の日本より切なるはない」と鶴見は書きました。彼自身は満州事変に批判的でしたが、アメリカの理解を求め、対米戦争を回避しようと考えていたのです。
  
 ――歴史に学び、平和の道を模索していたのですね。池田先生の「読書ノート」には、ディズレーリの「艱難に優る教育なし」という言葉が記されています。これは、かつて池田先生が長編詩で、17歳の頃の記憶として、「私は私の部屋に この言葉を書いて飾った」とうたっています。池田先生が若き日から大切にしてこられた言葉だということは、間違いありません。
  
 季武 創立者が偉人伝を読みあさっていた時代、誰もが英雄を待望していたと言えます。
 
 鶴見自身も、英雄になりたかったのだろうと思うのです。
 
 「新日本の新しき生命を呼ばはひ起す英雄児は、いまどこに居るのだ」「私は理想としては、全世界に於て、人間と貨物との自由なる移動が起らねばならぬと思ふ」「かかる漠然たる空想に、体系を与へ、整然たる具体案として現実の世界に完成する人が、私の期待する新しき英雄なのだ」(『英雄待望論』)
 
 憲政資料室には、鶴見の「英雄全集構成案」という原稿が残っています。このなかで、鶴見は日蓮を英雄として挙げています。
 
 時期は、どうやら日中戦争の2年前の35年のことのようです。
 
 「理想の世界に於いて、先に日蓮あり」「昭和日本は、この思想を全日本的になさんとしつつある」「日蓮はすべての日本人の中に生きている」などと記しています。
 

鶴見祐輔が著した『新英雄待望論』や、翻訳を手がけた『プルターク英雄伝』など(創大中央図書館所蔵)

鶴見祐輔が著した『新英雄待望論』や、翻訳を手がけた『プルターク英雄伝』など(創大中央図書館所蔵)

古典を通し人生を開く潮流を、創立者も体験

 ――鶴見祐輔が日蓮を英雄として見ていたとは知りませんでした。なぜ鶴見は日蓮を英雄視したのでしょう。
  
 季武 国会図書館に収蔵されている鶴見祐輔文書には、日蓮についての原稿が20ページほど残っています。直筆の原稿で、出版はされていません。ぜひ、ご自身の目で読まれて、思索してみてはいかがでしょう。国立国会図書館は、全ての国民に開かれておりますので。
  
 ――ありがとうございます。池田先生の『完本 若き日の読書』に収録されている「読書ノート」は、時期で言えば、主に昭和20年代前半です。作家の佐藤優氏が、月刊誌「潮」の連載(2022年1月号)で次のように指摘していました。
 
 「ここ(※『若き日の読書』『続・若き日の読書』)に掲げられている書籍は、池田氏より二〇歳くらい年長の世代が好んで読んだものが多いと筆者は見ている。いわゆる大正教養主義の時代の高校生、大学生がよく読んだ書籍のように思える。池田氏は、あの時代の教養には、現代にも通じる価値があると考えているのであろう」
  
 季武 いかにして人格を陶冶するかという点についてですが、明治期の「修養」といえば、肉体的にも精神的にも「刻苦勉励」、苦難に耐えながら勉学に励むことで、不動の精神を獲得していくことを理想としていました。実践を重視していたわけです。
 
 それが、「大正教養主義」の時代に入ると、古典などの読書を通じて人格形成に努力することが重視されるようになりました。大正期の知的潮流は、精神的な領域に価値をおき、内面的な真理の探究を重視していたと言われます。
 
 読書を通じて強い人格を築き、人生を切り開いていこうというのが、創立者も体験した「大正教養主義」の流れでした。
 

創価大学の中央図書館を訪れた池田先生(2004年1月)。学年末の定期試験の真っ最中だった。先生は懸命に学問に挑戦する友に「ご苦労さま。体を大切に。試験、頑張ってね」などと声をかけた

創価大学の中央図書館を訪れた池田先生(2004年1月)。学年末の定期試験の真っ最中だった。先生は懸命に学問に挑戦する友に「ご苦労さま。体を大切に。試験、頑張ってね」などと声をかけた

 
 鶴見祐輔も英雄を志し、創立者も強い志をもって努力をした。
 
 大正教養主義は死滅したという方もいらっしゃいますが、高い志をもった青年たちが読書をし、人格を錬磨することは、いつの時代になっても続いていくのだと思えます。
  
 ――池田先生が図書館に示された指針の中に、「読書は偉人への道」という一言があります。
  
 季武 はい。まさに今回のテーマにつながる一言ですね。また、「良書を読め 悪書を叩け それが正義の人なり」という指針もあります。
 
 良書とは何か。「池田文庫」はレベルが高いです。研究者の立場で申し上げると、良書の基準の一つは、「ものの見方を教えられる」ような本です。一定レベルの基準を超えたうえで、「ああ、このように事実を解釈できるのか」と学べるような本です。
 
 悪書とは、偏った見方を煽るようなものであり、時の精査に堪え得ないものです。「受け」を狙うのは、本を販売する以上、ある程度は仕方のないことですが、とくに最近、そうしたものが増えてきて、歴史学者としては困ることもあります。
 
 図書館には、活字の質を見極める目を養う役割、“目利き”の力が必要であると私は考えています。「池田文庫」は、それ自体が、良書とはこういうものだということを示す、一つの指針として設置されたのではないでしょうか。
 

◎池田文庫の一冊 石川達三「風にそよぐ葦」◎
創価大学図書館長 池田秀彦

 二十歳前後で石川達三の『風にそよぐ葦』を読んで深く感動しました。戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」、そして戦争が終わった後の混乱を描いた社会小説の名作です。
 
 誰も戦争を望んでいなかったが、気が付けば戻れなくなっていた。戦争中、「反戦思想」は厳しく取り締まられました。敗戦を迎えた途端、日本中が左翼思想に傾いていく。その時、その時の変化に流され、どのようにでも変わってしまう集団心理の恐ろしさが描かれています。
 
 一人ひとりが良識をもって生きていても、世の中が一つの方向に流れると、押しとどめることは容易ではありません。二度と戦争を起こさない。そのためには平和思想を持つことが大切ですが、必要なのはそれだけではない。「国家」と「個人」との間の「中間団体」が極めて重要です。譲れない理念、確かな思想――平和主義――と、現実を動かす力を持った「中間団体」がなければ、同じ道をたどってしまう。その意味で創価学会の存在がますます重要になる。これが当時の読後感でした。この思いは今も変わりません。
 

創大中央図書館所蔵の石川達三著『風にそよぐ葦』

創大中央図書館所蔵の石川達三著『風にそよぐ葦』

 
 『大学ランキング2022』(AERAムック)の大学図書館ランキングで創価大学は8位でした。1人当たりの貸し出し指数は、総合上位70校中4位。過去には総合上位71校中2位の時もありました。読書に挑戦している学生が多く、図書館長としてうれしい限りです。
 
 一生はそれぞれですが、自分の可能性を開きに開いて生きていってほしい。そのためには読書です。SNSはあくまでも「断片」です。SNSで人格は鍛えられません。
 
 AI(人工知能)を使う時は「検証」することが大事で、それを怠ると「支配」されてしまいます。
 
 AIに使われるのではなく、使いこなす側になるためには、読書です。
 
 読書の習慣を身につけないと、社会の課題を乗り越えられないし、人生を勝ち抜けない。
 
 何から読むか。興味のあるものから取り組めばいいですが、習慣にするには、どうしても訓練が必要です。池田先生も読書に関して「努力するしかない。甘ったれて、何か特別な“いい手”はないかなどと思っているかぎり、進歩はない。運動でも、そうです。『自分は走るのが嫌いだ』と言って、何も努力しないでいたら、鍛えられるわけがない」と語られました。
 
 また「読んで、眠くなるのなら眠ればいい。そのかわり、起きたらまた読めばいい。努力もしないで、人間ができるわけがない。自分の本当の力がわかるわけがない。人生の深さも、人間のすばらしさもわからないまま、年をとってしまうでしょう」とも。まったくその通りであり、同感です。
 
 「池田文庫」は哲学、文学、歴史、経済、芸術、建築など、いろんな分野にわたっており、まるで「小さな図書館」です。オープンキャンパスでも、見学された方々が口々に感嘆されています。何を学んでいる学生でも、琴線に触れる一冊があると思います。ぜひ多くの学生に触れてほしいですね。
 
 
 〈ご感想をお寄せください〉
 soshin@seikyo-np.jp