【師子の光彩――大願を果たさん】第3回 地球民族主義2024年2月16日

水滸会の野外研修で、慈愛のまなざしを注ぐ戸田先生と池田先生(1955年6月、山梨で)。水滸会では、『水滸伝』に始まり、『モンテ・クリスト伯』『ロビンソン・クルーソー』等、世界の名著を通して学習。屋外での研修も行われ、中核の青年たちが育っていった

水滸会の野外研修で、慈愛のまなざしを注ぐ戸田先生と池田先生(1955年6月、山梨で)。水滸会では、『水滸伝』に始まり、『モンテ・クリスト伯』『ロビンソン・クルーソー』等、世界の名著を通して学習。屋外での研修も行われ、中核の青年たちが育っていった

アジア、世界との“対話の道”を開かん

 「この重大問題に対する、われわれの在り方の根本は、“絶対に戦争を起こさない、起こさせない”という、強盛な祈りです」
 1962年(昭和37年)10月28日、池田先生は全国の幹部会の後に行われた指導会で、“キューバ危機”に対する信仰者としての姿勢を烈々と訴えた。
 この月、ソ連軍の中距離ミサイルがキューバに配備されていることが判明し、アメリカ本土の中心都市が攻撃の射程圏に入った。
 22日、ケネディ米大統領は、ミサイルの脅威を取り除くため、海上封鎖を行うことを発表。米市民の間で、ソ連との衝突はやむを得ないとの雰囲気が広がっていった。
 24日、アメリカはキューバへの海上封鎖を開始。米軍がカリブ海全域に封鎖線を敷いたものの、ソ連船が封鎖海域に近づいていく。
 人類は、核戦争の一触即発の状況に直面した。最終的に船は引き返し、最悪の瞬間を免れはしたが、この危機は、核抑止による平和維持の危うさを露呈したのである。
 28日の指導会で、先生は恩師が提唱した「地球民族主義」の理念を確認する。
 「世界は、東西両陣営に分かれていますが、学会は、右でも左でもなければ、アメリカ寄りでもソ連寄りでもありません。地球民族主義です。全世界の民衆を、平和の方向へ導こうとする立場です」
 参加者は仏法者の使命を自覚し、胸を熱くした。
 戸田先生が、地球民族主義について言及したのは、52年(同27年)2月17日のことだった。
 青年部の研究発表会に出席した折、「私自身の思想を述べておく」と前置きした上で、それは共産主義でもなければ資本主義でもなく、「結局は地球民族主義であります」と宣言する。
 当時、朝鮮戦争(韓国動乱)が続いており、東西冷戦の溝が深まっていた。恩師の壮大な構想を、愛弟子は心に深く刻み、その実現へ向けて思索を重ねていく。
 戸田先生は、後継の青年たちが、アジア、そして世界という広い視野に立つことを望んだ。人材育成グループである女子部の「華陽会」や男子部の「水滸会」では、世界の名著を題材として扱いながら、青年の使命を教えていく。
 さらに、少年少女が集う会合でこう期待を寄せる。
 「将来、誰もが幸せを嚙みしめることができて、国境や民族の壁のない地球民族主義の平和な世界を築かねばならない。みんなは、きょうのこのおじさんの話を忘れないで、少しでも、この夢を実現してほしい」
 全ての民族が同じ“地球民族”として、差別にとらわれることなく共存できる世界を――それが、恩師の願いだった。
 第3代会長に就任した池田先生は、60年(同35年)10月2日、世界広布の第一歩をしるす。
 地球民族主義の理念をわが心とし、“アジア、そして世界との対話の道を開きゆかん”と、翌61年(同36年)1月、初のアジア訪問へ。さらに10月には、欧州に初めて足跡を刻んだ。
 10月7日、ドイツに入った先生は、翌8日、ベルリンのブランデンブルク門へと向かった。その2カ月前、街を分断する「壁」がつくられ始めたばかりだった。
 門の周辺には装甲車が走り、銃を抱える兵士がいた。どこから銃弾が飛んでくるか分からない危険な状況である。門の近くに到着した先生は、車から降りた。さらに壁が立ちはだかる境界線を車で視察した後、再び、ブランデンブルク門の近くで車の外に出る。
 そして門を仰いだ。
 「30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう……」
 希望や願望ではなく、世界平和への固い決意の言葉だった。

装甲車の向こうに、東西冷戦の象徴となったドイツのブランデンブルク門が見える。池田先生は、門に向かって深い祈りをささげ、平和への誓いを新たにした(1961年10月)。分断の時代にあって、危険を顧みず“対話の道”を開いていった

装甲車の向こうに、東西冷戦の象徴となったドイツのブランデンブルク門が見える。池田先生は、門に向かって深い祈りをささげ、平和への誓いを新たにした(1961年10月)。分断の時代にあって、危険を顧みず“対話の道”を開いていった

学会精神をわが精神に

 “憎悪と分断”から“友情と対話”の時代へ――池田先生は、世界の指導者たちと本格的な語らいを重ねていく。
 中ソ紛争が深刻化していた74年(同49年)5月、中国を初訪問。9月には初めてソ連を訪れ、コスイギン首相と会談する。ソ連は中国を攻めることはないとの発言を引き出すと、12月に再び訪中し、首相の意向を中国首脳らに伝えた。
 さらに、翌75年(同50年)1月の訪米の折には、キッシンジャー国務長官と会談し、中東問題の解決に向けた提言を手渡した。
 先生は、日中、日ソの友好という次元にとどまらず、中ソ紛争の和解、さらには、国際情勢の安定化に向け、世界中に“対話の橋”をかけていったのである。
 同月26日に開催され、SGI発足の場となった米グアムでの第1回「世界平和会議」。会場の入り口に置かれた署名簿の「国籍」の欄に、先生は「世界」と記す。心の中には、地球民族主義の理想の火が赤々と燃えていた。
 先生の初のドイツ訪問から28年後の89年(平成元年)、「ベルリンの壁」は崩壊し、冷戦は終結。世界は大きな変化の時を迎えた。
 96年(同8年)、恩師の生誕の日である2月11日に「戸田記念国際平和研究所」が誕生する。テヘラニアン所長との会見で、先生は、同研究所を創設するに当たっての思いを述べた。
 ――恩師が地球民族主義を提唱した時、多くの人々が夢物語だと笑ったこと。そうした中で、民衆と民衆の心を結ぶため、世界を駆け続けてきたこと。時代は、地球民族主義を志向していること。
 そして、民衆の国際交流による国家悪の監視が、地球民族主義を具体化する第一歩であるとし、「民間外交」の重要性を強く訴えたのである。
 先生は、この月の本部幹部会で高らかに宣言する。
 「このたびの『戸田記念国際平和研究所』の創設をもって、私は戸田先生との一切の具体的なお約束は、すべて実現した。仏法を基調にした平和・文化・教育運動のすべての拠点をつくり、運動の根本軌道をつくりあげた」
 さらに、創価の旗を掲げる青年たちに、こう強く呼びかけた。
 「私もいよいよ、全世界に牧口先生の思想、戸田先生の哲学の真価を宣揚していく決心である。  いかなる迫害も陰謀も恐れない。私は師子の子である。戸田先生の弟子である。若き後継の弟子である青年部も、この学会精神をわが精神として、私のあとを立派に継いでいただきたい」

【モノクロ写真をカラー化】

 今回掲載されているカットは、モノクロ(白黒)でしか見られなかった聖教新聞社所蔵の写真を、編集部の責任のもと、AI(人工知能)を活用してカラー化したものです。

1955年6月に行われた水滸会の野外研修(カラー化する前のモノクロ画像)

1955年6月に行われた水滸会の野外研修(カラー化する前のモノクロ画像)

ブランデンブルク門と池田先生(カラー化する前のモノクロ画像)

ブランデンブルク門と池田先生(カラー化する前のモノクロ画像)