〈インド広布の大河の源流〉2024年2月7日

  • 「民衆の連帯」が時代を動かす

 45年前のきょう、1979年2月7日、池田先生はインドのメンバーとの懇談会で語った。「皆さん方は、宿縁深い“兄弟”であり“姉妹”であるとの自覚で、インドの人々のために、どこまでも仲良く成長していってほしい」。11日間にわたる滞在で、先生は友と絆を結び、今日のインド広布の源流を大きく築いていった。ここでは、ハルディヤル・シャルマさん(BSG〈インド創価学会〉名誉副議長)へのインタビューを掲載する。

インド創価学会 ハルディヤル・シャルマ名誉副議長

インド創価学会 ハルディヤル・シャルマ名誉副議長

師の慈愛に感動

 ――シャルマさんは、これまで、BSG(インド創価学会)壮年部長、創価菩提樹園の初代園長等を歴任されてきました。信心を始めるきっかけは、何だったのでしょうか?
  
 私がこの仏法に出合ったのは1976年、36歳になる年です。
 デリーで教師をしていた私は、友人から信心の話を聞き、BSGの総会に参加しました。
 唱題を根本に自分を変革し、勝利をつかんだメンバーの体験に、“これが本当の釈尊の教えだ!”と感動しました。翌77年の1月2日、池田先生のお誕生日に、御本尊を受持しました。
 信心の力を実感した一つの出来事は、弟の入会です。唱題する中で、私がはつらつと変わっていくのを目にし、最初は信心に反対だった弟が入会を決意したのです。
 池田先生と最初にお会いしたのは、79年2月7日。先生の3度目のインド訪問時です。私は北インドの責任者を務めていました。インド各地から集った約40人のメンバーとニューデリーで懇談会が行われました。
 懇談の折、先生は私に“ぜひ、奥さまと一緒に日本へいらしてください”と言われました。未入会だった妻は、「日本でお会いできるなら」と勤行を始めました。
 半年後の8月、私たちは日本で先生とお会いしました。先生は妻に、“ご主人はあなたを大切にしてくれていますか”と。私たち家族のことを、包み込むように励ましてくださる先生の慈愛に、心から感動しました。

1979年2月7日、池田先生は全インドから集った約40人の同志と、記念の写真に納まった(ニューデリーで)

1979年2月7日、池田先生は全インドから集った約40人の同志と、記念の写真に納まった(ニューデリーで)

ガンジスの一滴

 ――79年2月の池田先生のインド訪問は、現在のインド広布発展の源流となっています。
  
 今日、BSGがインド社会から信頼され、地涌の陣列が大きく広がっているのも、全て、先生の不惜身命の闘争のおかげです。
 インドは仏教発祥の国として、宗教家・哲人を大切にする伝統があります。79年2月、インド文化関係評議会(ICCR)の招へいを受け、先生はインドを訪問されます。同年4月に会長を辞任される直前でした。
 この頃、インドでは、国内の社会運動が厳しく監視される状況がありました。
 先生はメンバーが安心して信心できるように、11日間の滞在で、インドの識者や指導者と次々に会見されました。先生の人間外交によって、インドの指導者層をはじめ多くの人々に、創価学会への理解と信頼が築かれていったのです。
 2月7日の懇談会の参加者の中には、片道4日間かかる地域から来た人もいました。その多くが、私と同様、先生と初めて会うメンバーでした。
 会場に入られた先生は、メンバー一人一人と握手を交わし、言葉をかけ、私たちを温かく包み込んでくださいました。
 先生は、私に「いかなる時でも 明るく朗らかな 指導者たれ」とのモットーを贈ってくださいました。生涯の原点です。
 懇談会の席上、先生は皆にこう語られました。
 「ガンジス川の悠久の流れも一滴から始まります。と同じく、今はメンバーは少なくとも、自身がその一滴であるとの自覚で、洋々たる未来を信じて前進していきましょう」
 以来、“ガンジスの一滴に”との師の言葉が、インド広布の大河の源泉となっています。

2004年2月24日、詩聖タゴールゆかりのラビンドラ・バラティ大学から、池田先生に「名誉文学博士号」が贈られた。タゴールが夢見た日印友好に尽くし、平和のために人間主義の哲学を広めた功績をたたえたもの。同大学のムカジー副総長は、「池田博士の生き方と人間主義の哲学は、タゴールと深く共鳴しています」と述べた

2004年2月24日、詩聖タゴールゆかりのラビンドラ・バラティ大学から、池田先生に「名誉文学博士号」が贈られた。タゴールが夢見た日印友好に尽くし、平和のために人間主義の哲学を広めた功績をたたえたもの。同大学のムカジー副総長は、「池田博士の生き方と人間主義の哲学は、タゴールと深く共鳴しています」と述べた

友情から共感へ

 ――先生は滞在中、大学や障がい者を支援する学校、史跡や博物館などを視察し、インドの人々と友情を結びます。
  
 この訪問で先生と会われた人の中には、対談集を発刊された仏教学者のロケッシュ・チャンドラ博士や、ICCRの副会長だったカラン・シン博士などがいます。
 後に大統領を務めた、K・R・ナラヤナン氏と初めて対談したのは2月9日でした。
 先生はこの日、ジャワハルラル・ネルー大学への図書贈呈式に出席されました。同大学で先生は、学生との懇談会に臨み、青年たちの質問に答えられました。参加した皆にとって、忘れ得ぬひとときとなりました。
 現在、インドの外務省でアドバイザーをされている方も、当時、交流の場に参加した一人です。
 2019年9月、原田会長がインドの大統領と会見した折には、担当者として立ち会い、先生との思い出を、しみじみと語られていました。
 1979年2月14日には、詩聖タゴールの精神を継承するラビンドラ・バラティ大学でも図書贈呈式が行われます。教授陣が勢ぞろいし、全学を挙げて、先生を歓迎しました。
 池田先生の訪問は同大学の歴史に刻まれ、25年後の2004年2月には、「名誉文学博士号」が贈られています。
 M・R・デサイ首相をはじめ、1979年の訪問の折、先生がお会いした要人の多くがガンジー主義者でした。ガンジー記念館のパンディ副議長やJ・P・ナラヤン氏など、ガンジーと共に活動した人も多く、ガンジーへの敬意、非暴力闘争、独立運動について語り合われました。
 この時の会見が後に、先生とN・ラダクリシュナン博士との交流へとつながり、ガンジー主義者の中に、池田先生への共感が広まっていくことになるのです。

ネルー大学で副総長を務めていた、後の大統領・ナラヤナン氏と、固く握手を交わす池田先生(1979年2月9日)

ネルー大学で副総長を務めていた、後の大統領・ナラヤナン氏と、固く握手を交わす池田先生(1979年2月9日)

「私と直結だ」

 ――BSGは“各国の文化・風習を尊重する”との創価学会社会憲章の理念を体現しています。
  
 これまで“焦らず、着実に”との、先生から頂いた指針を根本に、インドの伝統宗教や文化を尊重しながら活動を進めてきました。
 インドでは、ヒンズー教が生活習慣や文化に深く根差しています。そのため、ヒンズー教のお祭りが行われる日には会合の開催を控え、会員も一緒に参加できるようにしています。
 BSGでは社会貢献活動の一環として、2021年から「BSG FOR SDG」と掲げ、SDGsの達成に向けて、主体的に取り組んできました。
 02年、池田先生は環境提言「地球革命への挑戦――持続可能な未来のための教育」を発表されました。この提言が、BSGが進めるSDGsに関する活動の根本精神となっています。
 環境問題の解決へ向け、先生は次のように述べています。
 「問題の真の解決のためには、法制度の整備といった“上からの改革”だけにとどまらず、それを支え、後押しする『民衆の連帯』を築いていく“下からの改革”が欠かせない」
 私たちが進める取り組みは、まさに“下からの改革”です。民衆が連帯してこそ、地球規模の課題を解決する方向へ、時代を大きく動かすことができると確信します。
 BSGは、宗門から「魂の独立」を果たすより前の、1986年に「創価学会」の名を冠した宗教法人として登録されました。先生は、「インドは、私と直結だ」と言ってくださいました。
 BSGは、どんな時も先生を求め、先生と同じ心で前進を続けてきました。今、先頭に立つのは、10万人の青年たちです。
 「アイ アム シンイチ・ヤマモト!(私は山本伸一だ!)」を合言葉に、“100万の陣列”という次なる峰に向かって、希望のスクラムを広げていきます。