なるほどSOKA みんなで学ぶ学会の歴史(少年少女きぼう新聞2024年2月号)2024年2月1日

  • 第11回 2月11日 戸田先生の誕生日
  • どんな人も必ず幸せに

小学校の先生をしていた戸田先生。創価学会の第2代会長になってからも、子どもたちや、池田先生をはじめとした青年をいつくしみ、大切に育ててきました

小学校の先生をしていた戸田先生。創価学会の第2代会長になってからも、子どもたちや、池田先生をはじめとした青年をいつくしみ、大切に育ててきました

 1900年の2月11日。石川県江沼郡塩屋村(今の石川県加賀市塩屋町)の戸田家に、一人の男の子が生まれました。12人きょうだいの10番目で、「甚一」と名付けられました。のちの戸田城聖先生です。
  
 1904年、一家は北海道の石狩湾に面した厚田村(今の石狩市厚田区)にうつり住みます。
 甚一は、勉強のできるおとなしい少年でした。特に数学が得意で、歴史上の人物ではナポレオンが大好きでした。甚一は、いつか自分も大きな世界に出て、ナポレオンのように活やくしたいと夢見ていました。
 18歳になった甚一は、北海道の夕張で真谷地小学校の教師になります。
  
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 19歳の冬、甚一は大きな決意を心に秘めて東京に出ました。同じ北海道出身の牧口常三郎先生を訪ねていきます。このころ、牧口先生は東京で小学校の校長をしていたのです。
 「先生、私を採用してください。私はどんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます」
 そして名前を「城外」と改めました。牧口先生のもとで働きながら、中央大学で学んでいます。やがて、自分で時習学館という学習塾を開きました。
  
 1928年、戸田先生は牧口先生といっしょに日蓮大聖人の仏法の信仰を始めます。牧口先生がずっと考えてきた理想の教育を、本に残すことを提案したのも戸田先生でした。
 「創価教育という名前にしましょう!」
 こうして1930年11月18日に創価教育学会の名で『創価教育学体系』第1巻が出版されたのです。
  
 しかし、日本は戦争へと突入していきます。軍部は国民に神札をまつるように命令してきました。牧口先生と戸田先生は、それをこばみ、正義の信念をつらぬいたために、たいほされました。牧口先生は、そのまま牢の中で亡くなったのです。
  
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 1945年7月。生きて牢を出た戸田先生は名前を「城聖」とし、「牧口先生の正しさを必ず証明してみせる」と決意しました。
  
 まもなく日本は戦争に敗れます。焼け野原となり、国内外で300万人以上の人が亡くなっていました。
 戸田先生は創価教育学会を「創価学会」と改めました。日蓮大聖人の仏法によって、だれもが人生を切り開いていけることを語っていきました。
  
 ある夜、東京・蒲田の座談会で一人の青年と出会いました。その青年が19歳の池田大作先生でした。
 1951年5月、戸田先生は創価学会の第2代会長になります。「どんな人も幸せにしないでおくものか」という思いで、一人一人を抱きかかえるように、真けんにはげましぬきました。
  
 1958年に亡くなるまで、戸田先生は一度も日本から出ることはありませんでした。けれども、弟子の池田先生によって、戸田先生の名は、今では世界中に知られるようになったのです。
  
 ■クイズ
 池田先生は、戸田先生の願いを受けて、いくつもの構想を実現してきました。それは次のうちどれ?
  
 1.創価大学の開学
 2.聖教新聞の創刊
 3.各地の会館の建設
  
 答え:1~3全て正解
  
 【文】ひがししんぺい 【絵】間瀬健治