〈One and Only~かけがえのない命~ 信仰体験〉42 創価班魂ここにあり2024年1月31日

  • 心に映す人がいる。だから諦めない
  • 師弟の約束に終わりはないんだ

 今月14日、埼玉県日高市の原田淳平さん(36)=男子部部長=は、身支度を整えると、日高平和会館に向かいました。創価班の一員として放映行事の任務。会館に到着すると、先輩の手を借りながら首に創価班のネクタイを。脳梗塞で倒れてから4年。左半身がまひして、ボタンを留めるにも一人では難しい体です。幾度もの絶望を越え、「僕の中には、創価班魂が燃え盛っています」と。1人の来館者、1台の車の誘導に、喜びと誇りがあります。

「創価班 君たちありて 永遠に 創価の城は 光り輝く」――原田さん㊧が池田先生の心を胸に

「創価班 君たちありて 永遠に 創価の城は 光り輝く」――原田さん㊧が池田先生の心を胸に

 車の運転中、違和感があったのは2020年(令和2年)の年明けだった。すぐに向かった病院で、脳梗塞と診断される。やがて、左手足の動きが鈍くなり、口も動かなくなった。
 初めての入院生活。自由のきかない体。左半身まひとなり、心は追い詰められた。もがくさなか、医師の言葉が突き刺さる。「車いす生活になる」「最悪は、寝たきり」。視野も欠損した。
 「もう、僕の人生終わったなって。仕事もプライベートも車で飛び回るのが好きだった。それが、じっとしていないといけないなんて。非常階段から飛び降りようかと思いました」

 家族や男子部の仲間が見舞いに来る。その時間だけは元気になれた。一人の先輩は、夜勤明けに何度も訪れてくれた。ある時、小さな筒を手渡された。ラップフィルムの芯を赤・黄・青の三色のテープで巻いた物。
 車いすに乗り始めた原田さんは、両側にあるブレーキレバーを、動く右手だけで扱う。左のレバーに右腕を伸ばしてもつかみづらい。その様子を数日前に見た先輩の“発明”。レバーに筒をかぶせ、延長できるよう用意してくれた。「これ“バトン”だよ」。先輩の言葉に胸を打たれた。
 「受け取った瞬間、負けじ魂を池田先生から受け継ごうっていう心を感じて。細かい所に気付いて、励ましてくださることが本当にありがたくて、うれしかった」

先輩からもらった魂の“バトン”

先輩からもらった魂の“バトン”

 少しの時間、静かに唱題の声を合わせた。「絶対に題目しかないよ」とも言われた。“必ず歩いて退院する!”。気持ちを奮い立たせ、スマホで部のメンバーとつながり、先生の指導を共有した。「自分の回復を祈るのは当然だけど、今だからこそ、部長としてメンバーの成長も祈ることで、一番、生命力が出るよ」。先輩の励ましに何度も背中を押された。
 長く続くリハビリ生活。直後、新型コロナの感染拡大により社会は一変する。春を迎える前に、病院の面会は禁止に。「監獄に入れられたようで、孤独になった」

にぎやかな男子部の会合で(右から3人目が原田さん)

にぎやかな男子部の会合で(右から3人目が原田さん)

 病室で開いたのは創価班の指導集。小学生の頃から、会館で見る創価班に憧れてきた。19歳で一員になって以来、その誇りがずっとある。目に留まったのは、「難こそ仏法者の誉れ」の文字。
 「初めは、こんな状況だと“誉れじゃないよ”って。でも、池田先生の言葉だから信じようと思った」
 孤立して寂しさが募り、人とのつながりを欲した時、音楽が力をくれた。
 学会歌「誓いの青年よ」「青年よ広布の山を登れ」。歌詞が以前よりも強く心に響く。
 ♪創価の心 嵐は誉れ……
 ♫愛する君たちよ 君らこそ 悠々たる 大河の流れだ……

 「常に先生は『みんなのことを祈っているよ』と言われる。僕もその一人に入っていると思うと、自分の中の小さかった火が、また、でかく燃え上がってくるんです」
 時に悔し涙を流しながらも、歩行訓練に励んでいた7月。地元男子部の会合が予定されていた。頼まれたのは動画での体験発表。録画の最後に原田さんは「飯能圏やるぞー!」と呼びかけた。完成した動画には、メンバーの「おー!」という声が重なっていた。共戦の心に胸が熱くなった。
 リハビリの末、車いすは卒業できた。7月11日の男子部結成記念日、先輩からもらったバトンを、つえの先に付けて歩いて退院した。
 * 

 自宅に戻っての生活。決意はあったが、コロナ禍で今までの日常とは大きく異なり、外出もしづらい。何より、自分の体は“日常”に戻らなかった。
 「外で知り合いに『どうしたの?』って聞かれるのが嫌で。障がい者になった自分を受け止められなかった。“放っておいてくれよ”って。健常者との間に線を引いて、下に落ちたと思ってしまった」
 人に会うことにおっくうなまま、翌年からは施設での生活訓練が始まった。そこでは自分よりも障がいが重い人たちばかり。
 「今度は、上に行ったような感覚もあった」
 だが、そう感じてしまう心を変えたい。先生が創価班に贈った「創価灯」との言葉を何度も思い浮かべた。

 「自分の縁する全ての人を明るくして、照らす存在になれたらなって。あいさつを交わすだけでも元気になってもらえたらと」
 入院中、先輩から届いたいくつもの励まし。その中の「師弟の約束」という言葉を心に刻んだ。越えても越えても山はある。険しい道をも楽しみながら、未来を見つめ、一つの約束を果たしたかった。それが創価班での任務。
 「まずは今いる場所で、創価灯であろう。そしていつか、また志願して会館に就こうと思った」
 上尾市での10カ月の生活訓練の後、自宅から職業訓練所に通った。経験を積んで自信をつけていたが、急に訓練所が閉鎖に。先輩に励まされ、信心で新しい道を探そうと決めた。

 まだ外出に苦手意識があり、メンバーのもとへ家庭訪問はできていなかった。2人の先輩と、初めて歩いて家庭訪問をすることに。
 「どんな顔されるかなって思ったけど、メンバーは、にこって笑ってくれて。緊張したけど、こちらが元気になった。自分で体のことを気にしていたのに、『俺は元気だよ。体が不自由なだけ』とか言っていて」
 その後、障がい者就労支援センターから紹介され、大手企業の特例子会社での在宅勤務を勝ち取った。社会復帰し、訪問リハビリを受ける月日が過ぎた昨年の11月18日。池田先生の逝去を知った。

任務が始まる前、創価班の先輩がサポートを

任務が始まる前、創価班の先輩がサポートを

 創価班としての復帰の場は、学会葬になった。体の負担が最小限になるよう配慮され、会館の入り口前に立った。再び創価班として立つ姿を見て、よく知る同志は涙を流して声を掛けてくれた。
 「悲しみの中ですけど、喜んでいただいたことが本当にうれしくて。これまで池田先生を心に映してきたから、僕は諦めなかった。これからもそれは変わりません」
 師弟の約束は、師匠が旅立っても終わることはない。今年の元日も任務に就いた。
 体のことで、やるせなさを感じる瞬間はある。それでも、負けない生き方を貫きたい。覚悟を、つえや装具に込めた。つえの色は創価班カラーの青に。

左脚の装具。銀色のベルトに創価班魂が光る

左脚の装具。銀色のベルトに創価班魂が光る

 左脚に着ける装具には、固定するベルトが4本ある。職人に色を伝えて製作してもらった。ひざ下から、青・黄・赤の三色に。靴を履くと隠れる足の甲のベルトは、銀色にした。
 「目立たない場所は、バッジと同じ色にしたかったんです」
 先生は創価班のバッジについて記している。
 〈それは、目立たない質素なバッジかもしれない。しかし、これは、広宣流布のために、民衆の幸福のために闘う、本物の勇者のシンボルなのです〉
 原田さんにとっての、創価班とは――。「山本伸一と、自分の姿がぴったり合うように努力する場所」。この体を支える装具もつえも、誉れの「勇者のシンボル」であり、誇りだ。

原田淳平さん 1987年(昭和62年)生まれ、入会。少年部時代は、地元の「新世紀ワールド合唱団」で第1期のリーダーを務めた。2020年に脳梗塞を発症後、リハビリを重ねた。慣れない道や長距離を歩く時には、憧れてきた創価班の色である青色のつえを使う。過去と比べるよりも「自分のできる100%への挑戦」を大切にしている。

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