〈企画〉 人類の宿命転換へ――池田先生の思想と行動に学ぶ㊤ 核兵器廃絶への道2024年1月31日

  • 民衆の熱と力でなくそう! この地上から悲惨の二字を

パグウォッシュ会議のロートブラット博士と沖縄研修道場で(2000年2月)。道場に残る核ミサイル発射台跡は池田先生の提案で「世界平和の碑」になった

パグウォッシュ会議のロートブラット博士と沖縄研修道場で(2000年2月)。道場に残る核ミサイル発射台跡は池田先生の提案で「世界平和の碑」になった

 
 3月24日、東京の国立競技場で開催される若者・市民団体の協働による平和イベント「未来アクションフェス」。ここに「SGI(創価学会インタナショナル)ユース」として参画する学会の青年世代は今、「世界青年学会 開幕キャンペーン」の中で、平和の心を語り広げている。ここでは2月の「世界青年座談会」に向け、池田大作先生が核兵器廃絶や気候危機といった地球的課題に立ち向かい、人類の宿命転換を成し遂げるために、どのような行動を貫いてきたのかを紹介する。題して「人類の宿命転換へ――池田先生の思想と行動に学ぶ」。㊤では、核兵器廃絶への道を開く挑戦について掲載する。
 

若き日の記憶

 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」

 この書き出しで始まる小説『人間革命』は、太平洋戦争で凄惨な地上戦が繰り広げられた沖縄の地で、池田先生が筆を執ったものである。

 どれだけ、多くの血が流されたか。
 どれほど、多くの人が苦しみに耐え抜いたか。
 それは、戦火の青春をくぐり抜けた先生の実感そのものであった。

 3歳で満州事変、9歳で日中戦争が勃発。そして13歳だった1941年(昭和16年)12月、日本は太平洋戦争に突入していく。

 長兄が出征し、残る3人の兄たちも次々と兵隊へ。戦火が激しくなる中、少年の小さな肩に、残された家族の生活が重くのしかかった。地元の軍需工場で働き、家族を支える日々。その無理がたたったのか、肺結核にも侵された。

 国に忠節を尽くすことが美徳とされ、戦死が美談とされた時代。その中にあって、中国大陸から一時、除隊してきた長兄の言葉が、いつまでも胸の奥に響いていた。

 「大作、戦争は、決して美談なんかじゃない。結局、人間が人間を殺す行為でしかない」

 先生には、長兄と分かち合う“宝物”があった。手のひらの大きさの鏡の破片である。母が父のもとに嫁ぐ際に持参した鏡が何かの拍子に割れてしまい、その破片の中から二人で選んだものだった。

 先生は鏡を見ては、戦場の兄をしのんだ。鏡を肌身離さず持ち続け、焼夷弾の雨の中も必死に逃げ延びた。

池田先生が長兄と分け合った鏡。長兄の戦死の知らせを受け、「兄の胸のポケットに、入っていたであろう一枚の鏡を思い出さずにはいられなかった」と

池田先生が長兄と分け合った鏡。長兄の戦死の知らせを受け、「兄の胸のポケットに、入っていたであろう一枚の鏡を思い出さずにはいられなかった」と

 
 そして45年(同20年)8月15日に終戦。出征していた兄たちは、一人また一人と復員してきた。だが長兄だけは戻らなかった。

 “ビルマ(当時)で戦死”との知らせが届いたのは、2年後の5月30日。通知を握り締め、体を震わせて慟哭していた母の後ろ姿を、先生はまぶたに焼き付けた。

 その時の思いを、後にこう記す。
 「なんの罪もない母親を、これほどまでに哀しめ苦しめる戦争というものは、絶対に許すべからざる悪であり、悪魔の仕業であると考えずにはおられませんでした。以来、私は、戦争には絶対反対です」
 

正しい人生の探求

 戦後、世間では、それまで信じられていた価値観が崩れ去り、多くの人が深い精神の闇に沈んでいた。

 池田先生もまた、正しい人生を探求していた。

 そんな中、戸田城聖先生と運命的な出会いを刻む。47年(同22年)8月14日、友人に誘われて参加した座談会であった。

 この時、「立正安国論」を講義していた戸田先生は述べた。
 「一家のことを、一国のことを、さらに動乱の20世紀の世界を考えた時、私は、この世から、一切の不幸と悲惨をなくしたい。これを広宣流布という。どうだ、一緒にやるか!」

 その言葉は、民衆の幸福を願い、人類の平和のために一人立たんとする情熱に満ちあふれていた。

 池田先生は振り返る。
 「体中に電撃が走りました。これほど明快に、人生と社会の正道を示してくださる指導者はいませんでした。私は『この人ならついていける』と直感しました。いな、心から魅了されたのであります」

 そして10日後の8月24日、創価学会に入信。平和建設の師弟の闘争が始まっていく。

夜間の学校に通っていた頃の池田先生(中央)。戦後の混乱期にあって“正しい人生とは何か”を求めて古今東西の名著をひもとき、友と語り合っていた

夜間の学校に通っていた頃の池田先生(中央)。戦後の混乱期にあって“正しい人生とは何か”を求めて古今東西の名著をひもとき、友と語り合っていた

 
核開発競争の中で

 人類史上、初めて原子爆弾が投下されたのは45年(同20年)8月6日。広島の中心街は、真っ黒に焦げた焼死体と大やけどを負いながらも助けを求める人たちであふれた。地獄絵図そのものだった。そして、その惨状は3日後、長崎でも広がった。

 この兵器が、どれほど憂慮されていたか。それは戦後に設立された国連の第1回総会で“原子爆弾の廃絶”が決議されたことからもうかがえる。だが多くの国々の懸念とは裏腹に、一部の国は核兵器の開発競争を加速させていった。

 46年(同21年)に米国が戦後初の原爆実験を実施。その3年後にソ連(当時)も原爆実験に成功すると、米国は原爆よりも威力のある水爆を開発した。米ソの対立が深まる中、イギリスやフランス、中国も加わり、核兵器を軸とした軍備拡張が進んでいく。

 そして57年(同32年)8月には、ソ連がICBM(大陸間弾道ミサイル)の実験に成功。地球上のどの場所にも核攻撃が可能となる状況が、世界の現実となっていた。

 そうした中にあって、同年9月8日、戸田先生は横浜・三ツ沢の競技場に集い合った5万人の青年らを前に「原水爆禁止宣言」を発表する。

 「諸君らに今後、遺訓すべき第一のものを、本日は発表いたします」「私の弟子であるならば、私のきょうの声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい」

「原水爆禁止宣言」を発表する戸田先生。5万人の青年らに核兵器の廃絶を“遺訓の第一”として託した(1957年9月、横浜・三ツ沢の競技場で)

「原水爆禁止宣言」を発表する戸田先生。5万人の青年らに核兵器の廃絶を“遺訓の第一”として託した(1957年9月、横浜・三ツ沢の競技場で)

 
 そして、核開発競争の激化を踏まえて「その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」と述べ、原水爆を使用したものは魔物であり、死刑にすべきと訴えたのである。

 仏法者として死刑制度への反対を強く主張していた戸田先生が、あえて極刑を意味する表現を用いたのは“どの国であれ、どんな理由があろうと、核兵器の使用を絶対に許してはならない”との思想を鮮明にするためであった。

 また「その奥に隠されているところの爪」、すなわち民衆の生存の権利を人質にしてまで国家の安全を図ろうとする“核保有の論理”に、明確な楔を打ち込むためであった。

 この内容は、戸田先生がそれまで、思索に思索を重ねたものであった。

 発表の2年前には、浜松や函館などで相次いで核兵器の問題に触れ、堺支部総会では「原子爆弾は降らしてはならない」と訴えている。また、前年には福岡の八幡市(現・北九州市)でも「原爆などを使う人間は最大の悪人だ」と語り、福岡市では“同じ愚を繰り返すな”と叫んでいた。

広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花した池田先生(1975年11月)。この翌日、広島での本部総会に出席し、核保有国の「核兵器の先制不使用」の必要性などを訴えた

広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花した池田先生(1975年11月)。この翌日、広島での本部総会に出席し、核保有国の「核兵器の先制不使用」の必要性などを訴えた

 
絆を結ぶ民間外交

 戸田先生は語っていた。
 「戦争をなくすためには、社会の制度や国家の体制を変えるだけではだめだ。根本の『人間』を変えるしかない。民衆が強くなるしかない。民衆が賢くなるしかない。そして世界の民衆が、心と心を結び合わせていく以外ない」

 その心のままに、池田先生は、戸田先生亡き後、原水爆禁止宣言が発表された「9・8」を軸に、核戦争の回避に向けて、人々の心を分断から協調、不信から信頼へと変える戦いに打って出ていく。

 1968年(昭和43年)の9月8日には、「日中国交正常化提言」を発表。国際社会の動向を見据えつつ、「核時代の今日、人類を破滅から救うか否かは、国境を超えた友情を確立できるか否かにかかっているといっても過言ではない」と強調した。

 74年(同49年)5月の初訪中に続き、ソ連を初訪問したのも9月8日であった。東西冷戦下、米国と対立するソ連は中国とも一触即発の状態にあった。

 滞在最終日には、コスイギン首相との会見が実現。先生は率直に問いかけた。
 「ソ連は中国を攻めますか」
 「いいえ、攻撃するつもりはありません」と首相。
 「中国の首脳部に伝えてもいいですか」と先生が返すと、「結構です」と。

 この発言は、約3カ月後の2度目の訪中の折、中国首脳に伝えられた。

 さらに翌年1月には、米国のキッシンジャー国務長官と会談。米中ソの3カ国を巡り、緊張打開への行動を貫いた。

 冷戦終結の立役者となったゴルバチョフ元ソ連大統領は、後に明言している。
 「(池田先生は)鉄のカーテンのもとでも、平和への対話や民間外交が可能であることを証明しました」

 池田先生は、その後もノーベル化学・平和賞受賞者のポーリング博士や、「ラッセル・アインシュタイン宣言」の署名者でパグウォッシュ会議名誉会長のロートブラット博士、同会議会長を務めたスワミナサン博士、またIAEA(国際原子力機関)やIPPNW(核戦争防止国際医師会議)のリーダーと絆を結び、核兵器廃絶へ活発に意見を交わしていく。

モスクワでの「核兵器――現代世界の脅威」展の開幕式。池田先生は席上、核兵器の悲惨さ、残酷さを世界に訴え続ける決意を述べ、“それが日本人として、また仏法者としての使命であり、責任であり、義務である”と語った(1987年5月)

モスクワでの「核兵器――現代世界の脅威」展の開幕式。池田先生は席上、核兵器の悲惨さ、残酷さを世界に訴え続ける決意を述べ、“それが日本人として、また仏法者としての使命であり、責任であり、義務である”と語った(1987年5月)

 
恩師の心を世界へ

 池田先生はある日、広島で奮闘する女性が小学1年生の時に被爆していたことを知り、こう書き送っている。

 「大思想は 原爆を恐れじ」

 地獄の苦しみを生き、その後も心ない差別や、原爆症がいつ発症するかもしれないという恐怖と戦ってきた友を、先生は励まし続けた。

 また、二度と同じ過ちを繰り返させてはならないと、被爆の実相を伝えながら、恩師の精神を世界に広げてきた。

 75年(同50年)1月26日には、太平洋戦争で激戦地となったグアムでSGIを発足。そしてSGIとして本格的な平和の潮流を起こすとの決意を込め、83年(同58年)からは毎年1月26日の「SGIの日」を記念し、平和建設への提言を行ってきた。

 83年の提言では、核開発競争を進める米ソ両国によって「平和か緊張激化かの重大な分岐点」と不安が高まる中で「米ソ首脳会談」の早期実現を提案。首脳会談は2年後に実現し、米ソのINF(中距離核戦力)全廃条約の締結などへとつながっていった。

 また85年(同60年)に主張した「包括的核実験の禁止」は、その11年後に国際条約に。2002年(平成14年)に提唱した「核テロ防止条約」は3年後に国連総会で採択されるなど、先生の「SGIの日」記念提言は核兵器廃絶への確かな指標となってきた。

 そして22年(令和4年)、先生の提言は40回に。こうした提言や、平和への不断の努力をたたえ、先生に「国連平和賞」や国連事務総長の特別顕彰などが贈られている。

池田先生の「SGIの日」記念提言。その内容は、世界の各言語に翻訳されてきた

池田先生の「SGIの日」記念提言。その内容は、世界の各言語に翻訳されてきた

 
学会の草の根運動

 これまでの提言で池田先生が訴えてきたのは、無辜の民衆の生存権を脅かす“核兵器の非人道性”であり、自分を守るためならば相手の殲滅さえも辞さないという“核兵器を容認する思想”の誤りだった。

 “抑止”の名のもとに、大量破壊兵器の脅威によって敵対する相手とかろうじて平和を保とうとする発想は、容易に軍拡競争を招き、ひいては核戦争につながりかねない。人類はこれまで幾度もそうした場面を目撃してきた。だからこそSGIは、そうした状況を民衆の力で打開すべく、“核兵器の現実”を伝え、草の根の意識啓発を重ねてきた。

 悲惨な教訓を後世に残すため、1974年(昭和49年)から青年部等が取り組んできた戦争・被爆体験の出版は、これまで100冊を超える。

 75年(同50年)には核兵器廃絶を求める1000万署名簿を国連に提出。その後も核廃絶を目指す国際キャンペーンに呼応しての1300万の署名(98年)や、国際NGOと連携しての「ニュークリア・ゼロ」署名運動での500万を超える署名(2014年)など、一貫して民衆の声を結集してきた。また、1982年(昭和57年)には国連広報局等と協力して「核兵器――現代世界の脅威」展を国連本部で開催。以来、世界各地で反核展示を巡回してきた。

被爆者の呼びかけで、学会として61万筆超を集め、2021年に国連に提出した「ヒバクシャ国際署名」

被爆者の呼びかけで、学会として61万筆超を集め、2021年に国連に提出した「ヒバクシャ国際署名」

イタリアの反核キャンペーンの一環で行われた「核兵器廃絶への挑戦」展(2017年11月、ティボリ市で)

イタリアの反核キャンペーンの一環で行われた「核兵器廃絶への挑戦」展(2017年11月、ティボリ市で)

 
 こうした中、原水爆禁止宣言50周年を翌年に控えた2006年(平成18年)、先生は核軍縮を巡る停滞を打ち破るべく、改めて核廃絶に向けての“民衆の行動の10年”の、国連での制定を提案。SGIもICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)をはじめ核廃絶を目指す団体と協働し、行動の連帯を広げてきた。

 また、国連の会議等に合わせて信仰者のコミュニティーと共同声明を出すなど、国際社会の議論に貢献してきた。

 こうして幅広い市民の声が水かさを増す中で、核兵器を巡る国際社会の議論も、国家の安全保障から、その使用がもたらす壊滅的な被害といった“非人道性”へと焦点が移っていく。

 そして原水爆禁止宣言60周年となる17年(同29年)、広島や長崎の被爆者をはじめ、市民社会の思いが結晶化した「核兵器禁止条約」が国連で採択。4年後には、50カ国の批准を得て発効した。

 この条約は、核兵器の使用や保有等を一切の例外なく全面的に禁止する初の国際条約であり、原水爆禁止宣言の精神とも響き合うものである。

青年部らが戦争体験の証言などを集めた反戦出版シリーズ

青年部らが戦争体験の証言などを集めた反戦出版シリーズ

被爆者や識者らが講演してきた長崎平和学講座(写真は2019年7月、長崎平和会館で)

被爆者や識者らが講演してきた長崎平和学講座(写真は2019年7月、長崎平和会館で)

 
次のドラマの主役

 広島への原爆投下から48年後の1993年(同5年)8月6日、池田先生は小説『新・人間革命』の筆を起こした。

 冒頭は、「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」との一節で始まる。

 それは、『人間革命』の書き出しと対をなす平和への宣言であった。

 そして、戸田先生の遺訓の実現のために全世界を駆け巡り、同志と共に創価の人間主義の潮流を起こす軌跡をつづった『新・人間革命』の聖教新聞の連載が完結したのは、戸田先生の原水爆禁止宣言から61年後、2018年(同30年)の9月8日であった。

 連載は、2001年(同13年)11月の本部幹部会で、山本伸一が青年にこう語りかける場面で締めくくられている。
 「どうか、青年部の諸君は、峻厳なる『創価の三代の師弟の魂』を、断じて受け継いでいってもらいたい」

 世界に存在するとされる核弾頭は、昨年6月時点で1万2500発あまり(長崎大学核兵器廃絶研究センターの調査)。また、今この瞬間も世界で争いが絶えず、罪なき庶民たちの命が失われている。

 民衆の連帯を一段と強め、平和の世紀へ! そして核兵器なき未来へ!――その時代を築く次なるドラマは、後継の青年たちに託されている。

 〈SGI提言での主な提案〉
 1983年 米ソ首脳会談の早期実現
 1985年 核軍縮に向けての包括的核実験の禁止
 1999年 民衆の力で「核兵器禁止条約」を制定
 2002年 「核テロ防止条約」の早期締結
 2009年 「核兵器禁止条約」の交渉開始
 2010年 広島と長崎で核廃絶サミットを開催
 2021年 核兵器の不使用と核開発凍結の誓約を