〈START~私が選んだ道~ 信仰体験〉 “辞めるため”に始めた信心2024年1月30日
- 「心のどこかで求めてた」
【三重県東員町】「信心は全てに勝っていける力やで!」。友に熱く語る、佐藤伸さん(29)=男子部副本部長(部長兼任)。労苦をものともしない行動力と、周囲をパッと明るくする人柄に、先輩後輩問わず、多くの男子部員から厚い信頼が寄せられています。そんな佐藤さんが創価学会の活動に励み始めたきっかけは、“信心を辞めるため”だったそうです。
20歳の元日。同級生宅に向かう僕の足は重かった。彼の親は学会のリーダーだったから。“どうせ、また信心の話をされるんやろうな”。この頃の僕は、虚無感にすっかり覆われていた。
高校は進学校。サッカー部で活躍し、監督が、大学の部活に推薦状を書くと言ってくれた。“将来はサッカー部の顧問もありやな”なんて思っていた。
淡い夢が砕かれたのは2011年(平成23年)の夏ごろ。両親が別居し、経済的な事情で進学を断念することに。高校2年で、母と弟と三重県伊勢市の祖母宅へ。両親は信心に熱心で、僕も幼い頃から一緒に会合に参加していた。学会の温かな空気感が好きで、誰かのために時間を惜しまず祈る親の背中が、かっこよく映ったこともある。
でも、“その結果が、これかよ”。別居後も、相変わらず題目を唱える母。言葉には出さなかったけれど、“意味なんかないのは、もう分かったやろ”と言ってやりたかった。
高校卒業後、なんとなくタイヤ工場で働き始めた。東員町の社宅と職場を往復するだけの味気ない毎日。ふと開いたSNSには、進学した同級生たちの楽しそうな姿。“僕もこうなるはずやったのに”
次第に体調を崩すように。頭痛が治まらず、嘔吐する毎日。病院で検査を重ねても、原因は分からなくて。“もう、どうでもええわ”。何もかも捨て去りたかったのが20歳の冬やったと思う。そんな状態で同級生の家に向かった。
「元気しとるか?」
出迎えた同級生のお父さん〈奥野正さん(54)=伊勢市、支部長〉。生活や仕事、将来と、いろいろ聞かれた。終始、投げやりな僕に、奥野さんはずっと、柔らかな笑顔やったと思う。やがて信心の話に。つい「なんで信心しなあかんのですか」と突っかかる。奥野さんは「言ったって分からへんやろ。だまされたつもりで、やってみたらどうや。必ず変わるよ。1年間試して、それでも意味がないと思ったら辞めたらええ」
仕事も信心も全て嫌になっていた時。“辞めたらいい”って言葉に心が軽くなった。
“契約”の条件は、朝晩の勤行・唱題、座談会と本部幹部会への毎回の参加だった。僕は、その晩から勤行を始めた。だって、1年後に「ちゃんとやってないから来年も」なんて言われたら、たまらんから(笑)。
久しぶりに御本尊に向かう。思い浮かぶ、奥野さんの真っすぐなまなざし。肌寒い仏間で、ほのかに胸の奥が温まるのを感じた。
「モットーは“決意即行動”。虚無感に覆われていた自分に言いたい。『過去を嘆くより、いま行動する人生の方が、圧倒的に楽しいで』って」
◇◆◇
社宅に戻ると、引き出しにしまってあった手紙を思い出した。引っ越してすぐの頃、あいさつに来た男子部の人が投函したもの。もちろん居留守やったけど、なぜか捨てることはできんかった。記された連絡先に電話して、会合の日程を聞いた。
東員町で初めて参加した座談会。地元と同じ温かい空気があった。男子部の部長も参加していて、男子部の会合に誘われた。“契約には入ってないんだけど”とも言い出せず、1回だけならと参加した。
会館には、20人近い同世代のメンバーがいた。そして、びっくりするくらい速い勤行。会合の中身は正直、分からんかったけど、なんだか輝いて見えた。
自然と2回目、3回目も足を運ぶように。すると、思ってもみないことが起きた。職場の先輩から「顔つきが変わってきたね」って。さらに、ずっと悩まされてきた原因不明の頭痛が、すっかり消えていることに気付いた。
自ら決めた「この道」を、勝利へ向けてひた走る北勢圏男子部の友(前列左から2人目が佐藤さん)
“契約”満了を迎える16年の元日。僕は桑名文化会館にいた。「辞めるため」ではない。新年勤行会の司会を任されたからだった。
同じ年、創価班大学校(当時)に入ると、男子部の同志が発する輝きの正体がだんだんと見えてきた。悩みを抱えながら、それでも懸命に生きてる姿がかっこいい。「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」(新1719・全1295)。自分の持ち場で最大限の貢献を目指す生き方をしていた。仕事は流れ作業と考えてきたけれど、“もっと生産量を増やすには……”。いつの間にか、そんな考えを巡らせるようになっていた。
折伏もやってみようかと友人の元へ。でも、なかなか伝わらない。そんな時に電話するのは、やっぱり奥野さんのとこ。「池田先生やったら、どうされるやろうかと考えてみい」
手に取った先生の著作。読めば読むほど夢中になった。
〈折伏は、できても、できなくても朗らかにやりなさい。皆に最高の希望と勇気を送る対話なのだから〉
先生も対話が実らなくて苦労した、とも書いてあった。初めて先生を身近に感じた。求めるほどに“こんな師匠は他におらん”って。弟子の誓いを定めた時、初めて弘教が実った。
辞めたかった職場でも昨年、一つ結果を出せた。生産効率の改善案を社内で発表するコンテストで、国外の社員も含めて全社2位に選ばれた。
ますます忙しくなる中で、3年前に結婚した妻〈梢さん(26)=女性部員)と、娘〈紬ちゃん(2)〉の育児も。家庭も信心修行の場やなって、実感する毎日。両親も今では二人仲良く暮らしている。20歳の時、題目をあげる親の背中に心で悪態をついていたけど、祈っていたのは、きっと僕のことやったんやろうな。
本当に全てが変わった。「辞めるため」と始めた信心だけど、本当は心のどこかで変わるきっかけを求めていたんやと思う。気付かせてくれたのは、奥野さんの激励。そして、温かく迎えてくれた東員町の同志、祈り続けてくれた両親のおかげと、今は思う。
信心に目覚めるきっかけは、どこにあるか分からない。だからこそ、言葉をかけ続けたい。自分ですら意識していない“変わりたい自分”が、必ずいることを知っている僕やから。
にぎやかな佐藤さん一家(右から妻・梢さん、娘・紬ちゃん、佐藤さん)
支部長の話
佐藤さんと奥野さんは、今年、久しぶりに再会した。「あの激励がなかったら、全然違う人生でした」と佐藤さんは感謝し、当時の態度を謝った。奥野さんは「普通のことを言っただけやん」と。
実は、男子部時代の奥野さんも、先輩の訪問を避け、会えば追い返した一人という。それも、相当な剣幕で。「だから、伸は上品なくらい(笑)。僕も、付きっきりで面倒を見てくれた先輩がいて、ようやく信心できた。20歳の伸は、信心というか、生き方の答えを探してんねやろなと思ってね。だから、必ず変わるし、分かるやろうなと思ったんです」
再会を終えた佐藤さんは、「僕もあんな壮年になりたいです。でも、まだまだ遠いなあ」と。その横顔は、とてもうれしそうだった。
かつて、佐藤さん㊨の心を包んだ奥野さんの柔らかな笑顔は、今も何ら変わらない
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