〈信仰体験〉 「先天性白内障」で見えない右目2024年1月29日

  • 人を包む優しさ
  • 自分と向き合う強さ

 【群馬県中之条町】小学生時代や専門学校生時代など、昔の写真を並べてみると、思春期を過ぎたあたりから、正面を向いた写真が少なくなっていく。山田明美さん(69)=県総合女性部長=は「先天性白内障」で右目が見えていない。自分から言わなければ誰にも気付かれない。その孤独を抱えてきた。信心と出あい、ありのままの自分を受け入れ、今、目の前の一人と心から向き合っている。

独りじゃない

 友達も、自分と同じように世界が見えていると思っていた。でも違った。それを知ったのは、小学生の時。視力検査は左目だけ行った。高学年になって、病名を母から聞いた。

 「先天性白内障」。生まれつき目の水晶体が混濁する病で、片方の眼球だけの場合、生後6週間までに手術する必要があり、山田さんは右目の混濁した水晶体を切除する手術を受けた。右目は見えなくなり、視野は健常者より約30度狭く、斜視のように右の黒目が外側を向いた。

 持ち前の明るい性格で、友人には恵まれた。寂しくはなかった。ただ、黒目の位置が気になり、皆で写真を撮る時は端に立った。友人と話していても、正面を向くのは避けた。

 “何で、こんな目で産んだの?”

 現実を受け入れるのが嫌で、母に気持ちをぶつけようと思ったこともある。でも、大好きな母親を困らせたくなかった。自分が生まれた直後に父が病で亡くなり、母が2人の兄と山田さんを育ててくれたから。

 「やるせないけど、“しょうがない”と思うしかない。自分が我慢すれば、いいことだから」

 小さなこと。でも、それが、ちりのように積もり、心の中の素直な気持ちを覆い隠していった。

 高校の同級生だった正孝さん(70)=地区壮年長=と結婚してからも、孤独を感じてきた。

 そんな頃、よく訪ねてくれる人がいた。学会の婦人部(当時)の先輩。山田さんは19歳の時に親戚の勧めで入会していたが、信心には消極的だった。いつも愛想笑いをしながら、心では“早く帰ってほしい”と思っていた。

 だが、ある日、気付くと、自然と悩みを打ち明けていた。先輩はじっくり話を聞いてくれ、「信心で絶対に幸せになれるよ」と本気の一言を。心に染みた。

 一緒に御本尊の前に座って題目を唱えてくれた。会合にも参加した。右目のことは話せなかったが、温かな励ましに“私は独りじゃない”と思えた。

心の距離が近づく

 忘れられない出会いがあった。

 1990年(平成2年)8月8日、池田先生が吾妻平和会館を初訪問。勤行会に参加していた山田さんは、3歳だった三男の正樹さん(36)=男子部員=と共に師との出会いを結んだ。

 「包み込むように迎えてくださった、先生の温かさは忘れられません。息子にも『大きくなったら創価大学に来てね』と。その後、正樹は不登校を乗り越え、創大に進みました。私も、何があっても信じ抜く人でいたいと決めたんです」

 それまで、自分のことばかり祈ってきた。学会活動に励むようになり、同志や友人の話を聞き、友の幸せを真剣に祈るように。

 「苦しんでいるのは自分だけじゃないと思うと、一緒に乗り越えていきたいと思えたんです。すると、ご祈念が具体的に、より明確になっていく。自分のことのように捉えられていくんです。そうやって祈りが深まっていきました」

 もう一つ変わったことがあった。

 「人と目を合わせるのが嫌でした。自信がなかった。でも、それは、自分の心からも目をそらしていると思えたんです。今は、相手と目が合うと、心の距離が近づいた気がして、自然と右目のことも話せるようになりました」

「訪問・激励している時が、一番幸せな時間です」と山田さん(右端)

「訪問・激励している時が、一番幸せな時間です」と山田さん(右端)

 そんな母の背中を見ていた長女・坂本瑞穂さん(42)=地区副女性部長(白ゆり長兼任)=は高校卒業後、創大に進学した。卒業後は医療事務の仕事に励み、結婚して2児の母になった。育児のことなどで息が詰まりそうになると、山田さんがいつも寄り添ってくれたという。

 「母は片目が見えないのに、“これができない”とか言ったことはなくて。疲れていても、私たちの前では笑顔。泣いている姿さえ記憶にありません。そんな強い母が『あなただから大丈夫なんだよ』って言ってくれる。母が信じてくれていると思うと、力がみなぎってくる。母のように、心の底から誰かを励ませる人になりたい」

子や孫たちに囲まれて(右から、長男・和弥さん、孫・一瑳さん、夫・正孝さん、山田さんと孫・萌衣ちゃん、孫・羽玖さん、三男の妻・恵梨香さんと孫・怜奈ちゃん、三男・正樹さんと孫・貴幸君、長女・瑞穂さん、長女の夫・坂本陽一さんと孫・秀伸君)

子や孫たちに囲まれて(右から、長男・和弥さん、孫・一瑳さん、夫・正孝さん、山田さんと孫・萌衣ちゃん、孫・羽玖さん、三男の妻・恵梨香さんと孫・怜奈ちゃん、三男・正樹さんと孫・貴幸君、長女・瑞穂さん、長女の夫・坂本陽一さんと孫・秀伸君)

何があっても

 2020年(令和2年)秋、苦楽を共にしてきた夫の正孝さんが膀胱がんを発症した。山田さんにも、その前年、未破裂脳動脈瘤が見つかったばかり。“負けてたまるか!”と思った。

 夫は腫瘍の切除手術を1年で3回行った。その最中、夫婦で仏法対話に歩いた。

 長年、信心の話をしてきた友人は、一緒に勤行に励み、教学部任用試験にも挑戦し入会。「信心で何のために生きるのかを考えることができ、生きる目標が見つかりました。本当にありがとう」と笑顔で語ってくれた。こちらの方が感謝でいっぱいだった。

「悩まなかったら、きっと薄っぺらな人生だった。人生の壁にぶつかるたび、こまやかに、心のわだかまりをほぐしてくれる先輩たちがいたから、前を向き続けることができたんです」

「悩まなかったら、きっと薄っぺらな人生だった。人生の壁にぶつかるたび、こまやかに、心のわだかまりをほぐしてくれる先輩たちがいたから、前を向き続けることができたんです」

 小説『新・人間革命』第25巻「薫風」の章に、山本伸一が目の不自由な婦人を励ます場面がある。

 「一切の苦悩は、それを乗り越えて、仏法の真実を証明していくために、あえて背負ってきたものなんです。仏が、地涌の菩薩が、不幸のまま、人生が終わるわけがないではありませんか! 何があっても、負けてはいけません。勝つんですよ。勝って、幸せになるんですよ」

 その師の渾身の励ましが、山田さんの胸にいつも響いている。

 「片目が見えないことで“不便”なことはあります。でも“不幸”じゃない。そういう障がいがあり、一緒に生きている私だから、悩んでいる人へ『一緒に頑張ろう!』と言える。『絶対に大丈夫!』と確信を伝えられる。それが、私の武器であり、強さでもあると思えるようになったんです」