〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第40回 創価学会は校舎なき総合大学 「一輪の花」への深き感謝編④2024年1月28日

 
小説『人間革命』の起稿

 パン、パンと手をたたきながら、池田大作先生は旧・沖縄本部の階段を、1階から2階へ上った。沖縄創価学会の一粒種、安見福寿さんの姿を見つけると、「いい原稿ができたんだよ」と笑みを浮かべた。
 1964年12月1日、先生は4回目となる沖縄の激励行へ。師の来島を聞いた友が、次々と旧・沖縄本部に駆けつけてきた。安見さんは、先生が沖縄の友を温かく激励する姿とともに、じっと思索を重ねる様子も目にした。
 先生が安見さんに、「いい原稿ができたんだよ」と語ったのは、この沖縄訪問の時のことである。その「原稿」こそ、2日に起稿した小説『人間革命』だった。
 翌65年の本紙1月1日付から、『人間革命』の連載が開始された。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた」――小説の冒頭の一節を読むと、安見さんの目はうるんだ。
 60年7月、先生は沖縄を初訪問した折、「ひめゆりの塔」「健児の塔」を視察。沖縄の友に訴えた。「最も悲惨な戦場となったこの沖縄を、最も幸福な社会へと転じていくのが私たちの戦いだ」。この師の叫びと小説の冒頭の一節が、安見さんには同一のものと思えてならなかった。それが、感動の涙になった。
 小説の執筆は沖縄から始まった。だからこそ、沖縄の私たちは、自身の人間革命に挑み、平和建設の先陣を切っていく――それが、安見さんの生涯の誓いとなった。

緑豊かな大地と青い海。沖縄・糸満市上空を飛行する機中から池田先生が撮影した(2000年2月)。この訪問の折、池田先生は万感の思いを詠んだ。「世界一 初の広布を 誓いたる 沖縄島に 万歳 叫ばむ」

緑豊かな大地と青い海。沖縄・糸満市上空を飛行する機中から池田先生が撮影した(2000年2月)。この訪問の折、池田先生は万感の思いを詠んだ。「世界一 初の広布を 誓いたる 沖縄島に 万歳 叫ばむ」

 
機関紙誌を水先案内人として

 安見さんは戦時中、日本軍の関係者として、中国大陸で特務機関の仕事をした。死と隣り合わせの毎日だった。
 ある時、運転していた車が地雷に触れて、車ごと川の中へ吹き飛ばされてしまう。水面に顔を出すと、ピストルを乱射された。水中を逃げ回り、九死に一生を得た。
 戦後、東京・立川で進駐軍を相手に土産物店を始めた。だが、売り上げは減少した。安見さんは、妻・清さんの出身地である沖縄で、商売を始めようと考え始めた。
 その頃、信心の話を聞いた。“宗教は金儲けのための道具”としか思えなかったが、紹介者の熱意に根負けし、54年8月20日に入会した。
 入会して数日後、沖縄へ出発した。紹介者からは聖教新聞と大白蓮華の“束”を手渡された。
 沖縄に到着すると、那覇市の繁華街に好条件の店舗が見つかった。信仰の力を実感した安見さんは、聖教新聞と大白蓮華をむさぼるように読み、仏法対話に励んだ。安見さんは、こう振り返っている。
 ――沖縄広布の出発は、機関紙誌を水先案内人として始まり、切り開かれていったのです、と。
 信心のことで疑問点があれば、紹介者に手紙を書いた。そのやり取りを通して、仏法の理解を深めた。
 やがて、沖縄で入会を希望する人が増えていくと、御書の一節や教学に関する質問が出るようになった。安見さんは、御書の研さんにも真剣に取り組んだ。
 59年7月、蒲田支部沖縄地区の地区部長の任命を受ける。この頃から、沖縄での弘教拡大は、さらに勢いを増していった。
 1年後の60年7月、沖縄支部が結成されると、初代の支部長に。就任のあいさつで、安見さんは訴えた。
 「私たちは、全国の皆さんに先駆けて、この沖縄に広宣流布の、また、平和のモデルケースをつくってまいります。池田先生、見ていてください!」
 この“魂の叫び”は、「今」を戦う沖縄の友に受け継がれる。
 先生が沖縄の地で『人間革命』を起稿して今年で60周年。師の大恩に報いる、人間革命の不屈の挑戦劇が、沖縄の各地でつづられている。

沖縄総支部の結成大会で、池田先生が総支部長の安見福寿さんの襟に記念のバッジをつけた(1961年5月14日、那覇市内で)

沖縄総支部の結成大会で、池田先生が総支部長の安見福寿さんの襟に記念のバッジをつけた(1961年5月14日、那覇市内で)

 
人生とは闘争の異名なり

 戸田先生の生涯の願業である75万世帯の実現へ向け、全国45都市で夏季地方指導が行われた。1955年のことである。
 池田先生は、北海道の札幌で指揮を執り、10日間で388世帯という日本一の弘教を成し遂げた。
 この夏季地方指導の折、九州・福岡で、一人の青年が入会した。池田先生が「生涯、私の胸に焼きつく九州快男児」と記した、川内弘さんである。
 熊本・天草で育った川内さんは、19歳の時に福岡・戸畑に移住。ガラス工場で働きながら、夜は定時制高校で学んだ。信心を始めた後、塗装店の営業に転職。「人生とは闘争の異名なり」と大書した紙を下宿の壁に貼り、仕事、勉学、学会活動に挑んだ。
 その後、班長の任命を受けた。当時、一つの班の弘教は、平均して月5世帯ほど。川内さんは、その10倍に当たる「50世帯の弘教」を目標に掲げた。時間をやりくりして、対話拡大と訪問・激励に走り、50世帯の拡大を達成。目標を達成した翌月には、63世帯の弘教を実らせている。
 「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」(新1719・全1295)の御聖訓を胸に、仕事に取り組んだ。朝は誰よりも早く出社し、営業の仕事では新たな取引先を開拓した。会社には7人の営業担当がいたが、川内さんが売り上げの大半を占めることもあった。
 60年1月、先生は福岡支部幹部会に出席。扇子を手に、「東洋広布の歌」の指揮を執った。幹部会終了後、先生は扇子を川内さんに贈った。
 先生の激励に燃えた。男子部の部隊長だった川内さんは、先生が第3代会長に就任した3カ月後の同年8月、全国一となる514世帯の弘教を成し遂げ、“九州青年部ここにあり”と、「九州」の名を満天下に轟かせた。それまでの戦いを振り返り、川内さんは確信を語っている。
 「どんな戦いにあっても、それに全魂を打ち込んでやり抜くことが、全部、自分の人間革命に通じる」
 だが、結核が川内さんを襲う。病と闘いながら、生命を燃焼させて、広布拡大に駆けた。
 63年11月9日、福岡・大牟田市の三井三池炭鉱で爆発事故が発生する。川内さんは被災した同志や、その家族の激励に走った。その救助活動が終わった10日ほど後、人生の幕を閉じた。
 74年1月21日、池田先生が出席して、九州本部(現・福岡平和会館)で九州広布の功労者の追善法要が営まれた。この時、「川内梅」の植樹が行われた。九州広布の前進を寿ぐかのように、毎年、満開の花を咲かせる。
 仏法に出合ってから霊山に旅立つまでの、川内さんの足跡――その鮮烈な8年間は、九州青年部の心を、今も鼓舞してやまない。

福岡支部幹部会で、池田先生が「東洋広布の歌」の指揮を執る(1960年1月24日、北九州市内で)。幹部会の終了後、先生は手にしていた扇子を、九州青年部のリーダーである川内弘さんに贈った

福岡支部幹部会で、池田先生が「東洋広布の歌」の指揮を執る(1960年1月24日、北九州市内で)。幹部会の終了後、先生は手にしていた扇子を、九州青年部のリーダーである川内弘さんに贈った

 
故郷に信心の錦を飾る

 堂々の恰幅で、大阪の地を走り回った。腰にはタオルを下げ、冬でも首筋には汗が流れた。大井満利さんは、思いやりが深く、多くの人から慕われた。
 九州・大分の出身。旧制中学時代、“成功するまで大分の地を踏むまい”と心に期し、京都に移った。
 その後、電鉄会社に就職。12年間働いた後、証券会社の外交員に。努力を重ね、その世界で1、2を競うまでになる。やがて、請われて信用組合の役員に就いた。
 ところが、悪質な詐欺事件に巻き込まれる。50歳にして、多額の負債を背負い、社会的信用も失った。
 再起の気力も失った。その時、仏法の話を聞いた。1953年2月のことである。翌日から早速、「あんた信心せえへんか」と仏法対話を始めた。
 入会して4カ月ほどがたった時、新たに産業経済新聞の専売所の仕事を始めた。ちょうどその頃、学会の班長の話があった。
 大井さんは断った。人前で話すことが嫌いだったからだ。すると、「しゃべらんでええ。座ってるだけでええ」と言われた。その言葉に安心し、大井さんは班長の任命を受けた。
 座談会で新来者が来ると、大井さんの役割は、最後に一言、「信心やりまっか」と聞くことだった。鷹揚な振る舞いが相手を安心させるのか、次々と新入会者が誕生した。戸田先生は大井さんの円満な人柄を愛し、親しみを込めて、「サンケイ」と呼んだ。
 56年の「大阪の戦い」では、大阪支部の支部幹事として、友の激励、対話拡大に奔走。同年7月、池田先生の陣頭指揮によって、「大阪の戦い」は世間を驚嘆させる勝利を収めた。その翌月、大井さんは第2代の大阪支部長に就任した。
 池田先生は、大井さんとたびたび懇談の機会を持った。ある時、「故郷に錦を飾る」ということが話題に。大井さんは、先生に語った。
 「何度も信心の錦を飾って田舎に折伏に行きました」――“成功するまで故郷の地を踏むまい”との、かつての決意は、故郷への最高の報恩の形となって結実したのである。
  
 安見さん、川内さん、大井さんの3人は、北海道広布の開拓に尽力した岩崎武雄さんらと共に、1975年5月、「創価功労賞」を受賞した。 

1973年9月、関西記念館(当時)がオープン。開館を記念して行われた記念植樹で、池田先生が土をかける。この時、「大井桜」の植樹も行われた                   

1973年9月、関西記念館(当時)がオープン。開館を記念して行われた記念植樹で、池田先生が土をかける。この時、「大井桜」の植樹も行われた                   

 
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